江戸時代異色の交易大名だった松前藩の繁栄をしのばせる1万本の桜|トピックスファロー

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2015年5月25日
江戸時代異色の交易大名だった松前藩の繁栄をしのばせる1万本の桜

「松前の五月は江戸にもない」とまで栄華を誇った北海道松前町。江戸時代に北海道を支配した松前藩がここにあった。1万石の石高は当時米がとれない北海道では単に大名としての格を定めた。代わりにアイヌとの独占交易権を認められ交易で成り立つ藩だった。

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1万本の桜が江戸繁栄の時代を偲ばせる

1万本の桜

松前栄華の象徴

毎年、5月のゴールデンウイーク後半になると、松前の至るところで桜が咲き誇る。
その数は250種類、1万本にも及ぶ。
エゾヤマザクラ、オオヤマザクラなど北海道固有の種類から、八重桜、ソメイヨシノの姿も見られ、この時ばかりは町全体が桜で覆われるかのようだ。

これらの桜は江戸時代に、京都から輿入れした藩主の妻たちや、松前を本拠地として富を築いた豪商が持ち込んだのが始まりと言われる。

参勤交代に伴い、江戸から藩主や家臣たちも領地に持ち帰って植えるようになり、増えていった。

19世紀初頭に書かれた「松前歳時記起草稿」には、
「草木一時に開き、山々谷の残雪に映し其風色言葉同断也」とある。
梅や桜、草花が残雪の中で一斉に咲く様は言葉もない、と松前の春を賛美しているのだ。

「松前藩屋敷」に江戸の町並みが残る

当時の松前を彷彿させる「松前藩屋敷」全14棟が再現されている。

廻船問屋「敦賀屋」は当時、10~15軒あった問屋の一つ。北前船が到着すると、松前の生活用品や魚の保存に使う塩などを下ろし、代わりに昆布や肥料にするニシン糟に、身欠きニシンなどを積み込んだ。

年に1度、北前船が到着するのは5月。まさに「松前の5月は江戸にもない」ほどの賑わいだった。

商家「近江屋」は、城下に住んでいた近江商人や北陸の商人の住まい兼店舗の一つ。北前船の荷の取り扱いや後に北方との交易で蝦夷地(北海道)各地での場所請負人となり、その地での権利を握ることで財をなした。

蝦夷地(北海道)の玄関口だった松前に出入りする船、荷物、人を改め、徴税したのが「沖の口奉行所」だ。
他に、民家、漁家、髪結いなどがあり、武将、足軽などの甲冑、お殿様、お姫様、岡っ引きなどの、甲冑着付け体験プログラムも用意されている。

米がとれない北海道

米がとれない

貿易で成り立つ異色の大名

江戸幕府体制が整ったのは、石高制のおかげだった。これは豊臣秀吉の行った太閤検地に始まり、江戸時代に確立した。

土地の広さと米の収量を定め、それを大名など武士層が支配し兵農分離体制を敷いた。
大名、武士間でも、○万石、○○石取りなど、武士の階級と収入を定める規律ともなった。

当時、蝦夷地(北海道)ではまったく米が取れなかったため、蝦夷地(北海道)を統治する松前藩の石高は決めようがなかった。
5代将軍綱吉の時代に、松前藩は大名として1万石とされたが、あくまで格を定めたものに過ぎなかった。

だが、家康から黒印状を得て、アイヌとの独占交易権を得た松前藩は、実質的には1万石以上の利益を得たとも思える繁栄を築いた。

謎の「蝦夷錦(えぞにしき)」

お城

家康もねだった豪華衣装

松前藩主5代目蠣崎慶広(かきざき・よしひろ)は、1593年、北九州肥前の名護屋城に豊臣秀吉を訪ね、蝦夷地(北海道)支配を認められる。

その時にまとっていたのが「蝦夷錦」だ。金糸、銀糸の刺繍で細密な龍や雲が絹地に施された華麗な装い。
裏地にも水色絹地に手引白木木綿地と豪華な異国風な胴衣で周囲を驚かせた。

秀吉にしても「北の果ての蝦夷地でなぜこのような衣装があるのか」と思ったに違いない。

この時に引見した徳川家康は胴衣を無心し、慶広はその場で脱いで献上したという。以降、徳川将軍には代々、「蝦夷錦」が送られた。

秘密を解き明かした間宮林蔵

「蝦夷錦」はブランド品となり、貴族や高位の僧侶の袈裟やふくさに用いられる人気となった。
由来を尋ねられた慶広は、「アイヌから入手した」としか言わなかった。

この時から200年後、隠密・探検家として知られる間宮林蔵は、この衣装が、松前藩が北方へ広範な貿易を行っていたことを立証する証拠を見つけた。

江戸末期に林蔵は間宮海峡を渡り、ロシア・アムール川流域まで探検した。
当地のツングース族首長の家で「蝦夷錦」を見つけ、それが統治していた清朝から送られた官服であることを突き止めたのだ。

こうして清朝からツングースとアイヌ、松前藩との活発な交流が明かされることとなった。

まるで地中海の海上国家、フェニキア人

北海道全域の海岸を支配

江戸時代の大名は家臣に対して、石高を決めて領地を分け与えるのが通常だった。

米の生産ができない松前藩は、北海道の海岸でのアイヌとの交易ができる「場所」「商場(あきないば)」での交易権を位の高い家臣に認め、そこで上がる利益を知行(報酬)とした。

松前藩からは本州商人から得た品物を積んだ交易船がそれぞれ場所へ行き、アイヌが持っている産物と交換した。その中には、熊皮、黒てんやラッコの毛皮など、本州では珍重される品が含まれた。

藩主、家臣とも北海道の海岸中を巡り、松前藩はまさしく船による交易によって成り立った。
最盛期には北海道のほとんど全周、今の宗谷地方、知床半島から、北方領土の国後島の場所を支配した。

搾取で不平等の交易

まるで紀元前12~8世紀に地中海から、大西洋、紅海まで進出して貿易を独占したフェニキア人の都市国家のような姿だった。

しかし、アイヌとの物々交換は、例えば干した鮭100本に対して米1俵で始まったものが、徐々に米の量が減らされ、最終的には半分以下になるという、アイヌにとっては一方的に不利なものだった。

1630年ころには、アイヌ人が直接、津軽や他の和人と交易することを禁じ、松前藩の家臣だけが交易の利益を独占するようになった。

武士から商人の手に

18世紀になると、松前藩の家臣は場所の交易を商人に任せる、場所請負制をはじめ、運上金をとるようになった。

商人達はさらに交易の規模を拡大し、場所ごとに運上屋を設けた。北海道全体で運上屋の数は80にも上り、栄えた。

この制度は実質的に交易の実権が、松前藩から商人の手に移ることを意味した。
松前の繁栄の主役も、北前船で西日本との交易に携わった商人に変わっていった。
商人達はさらに漁業にも進出し、漁師としてアイヌ人を酷使するようになった。

こうした不満が、後にクナシリ・メナシの戦いとなってアイヌの反乱につながっていった。

松前藩の凋落

18世紀中頃、千島を調査したロシア人がアイヌと接触し、日本との通称を求めた。
これを幕府に報告しなかった松前藩は、北海道のほとんどを幕府に取り上げられ、一時は伊達郡梁川(今の福島県)に9000石で転封となった。

この際の藩主、松前道広に永蟄居が命じられた理由は、密貿易を隠した、との説と、遊女を囲って放蕩したとの説があった。

北海道復帰も時代の波にもまれる

幕府が北方警備を重要視する政策をとり、松前藩は1821年に再び北海道支配を始めたが、幕末の変動にほんろうされた。

日米和親条約によって函館が開港されると、再び領地が減らされた。

さらに明治維新当時、いったんは旧幕府側の「奥羽越列藩同盟」にくみしていた松前藩は寝返って、新政府側についた。

結局、1868年土方歳三率いる「蝦夷共和国」軍によって、松前城を攻め落とされ、藩主も青森に逃亡。実質的に消滅した。

江戸にない五月の松前の今

北海道の桜といえば、函館五稜郭が有名だ。
現在の松前は、日本海からの海風が静かに吹き抜ける中、1万本の桜が5月に咲き誇る。

函館を訪れた際、松前に足を伸ばして、遠い昔の江戸の繁栄に思いをはせてはいかがだろう。
2016年3月には、北海道新幹線の青森―函館が開業する。

著者:メイフライ

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スポーツ関連や、バイオマス、太陽光などのエネルギー関連で取材、ベンチャー企業の企画室での職務経験があります。