【第67回】ミュンヘンでヒトラーの面影を追う旅4 ~ヒトラーの挫折編-その1~|トピックスファロー

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2019年1月24日
【第67回】ミュンヘンでヒトラーの面影を追う旅4 ~ヒトラーの挫折編-その1~

ドイツ労働者党(後のナチス)に入党したヒトラー。1920年代、ミュンヘンを舞台に次々と行動を起こしますが、それは早急であり、一度失敗して停滞してしまうことに…。1930年代に政権を取るまでミュンヘンでひっそりと政治活動をしていました。その痕跡を巡りたいと思います。

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ヒトラーが失脚するキッカケとなった「ミュンヘン一揆」

ヒトラーのパフォーマンスでナチスがミュンヘンで勢力を増す中、1923年、ドイツ経済に大打撃を与える事件が起こりました。

1月、ドイツがヴェルサイユ条約の賠償金の支払いが滞っているのを理由に、フランスとベルギーは軍を使って、ドイツ西北部の工業地帯、ルール地方を占領してしまいます。

ルール工業地帯の中心都市、エッセンの中央駅前ルール工業地帯の中心都市、エッセンの中央駅前

ドイツ経済の中心部を占領してしまった、フランス、ベルギーに対して、ドイツ国民はストライキなどで反発、そのおかけでドイツマルクは大暴落して、凄まじいインフレーションが発生して、国内は大混乱となってしまいました。

ヒトラーはこの混乱を利用します。夢だった大ドイツ帝国統一に向けて、ヒトラーと同じく右翼派の指導者がいるバイエルン政府と共に、ベルリン進軍を行い中央政権の奪取を試みました。

しかし当時のバイエルン政府は、バイエルンを中央政府(ワイマール共和国)から独立する選択肢も考えていました。元々ドイツは統一されるまで、各地域の諸邦(自治権を得た君主を中心とした国家)の集まり。その中でもバイエルンは特に、保守的、国粋主義的な気質であったことが影響しています。

バイエルンのヴィテルバッハ家は、中央政府のベルリンがあるプロイセンのホーエンツォレルン家より、歴史が古いこともあり、バイエルンの人達はプライドが高く、反プロセイン的な感情を持つ人が多かったのです。そのため「中央政権を奪取=プロイセンをバイエルンの配下にする(バイエルンの一部とする)」という意見と同じくらい、「独立する=プロイセンとは一線をひく(一切の関わりを持たない)」といった意見が根強かったといえます。

ヒトラーはその保守的なバイエルンの世論を変える必要があったのです。そこでバイエルンの高官と武力をちらつかせて直接交渉する強硬手段にでます。

バイエルン地方はドイツの中でも保守的な地域だったバイエルン地方はドイツの中でも保守的な地域だった

1923年11月8日、ヒトラーは突撃隊を引き連れて、バイエルン政府の代表団が集会を開催していた酒場ビュルガーブロイケラーに乗り込みます。しかもこの時ヒトラーは、自分と同じく中央政府に反対していた、第一次世界大戦中の国民的英雄エーリヒ・ルーデンドルフ将軍も仲間に連れていました。

ルーデンドルフもヒトラーと同じく、先の大戦で負けた原因は、背後からの一刺し説を唱えていたのです。ルーデンドルフは主張が同じであるヒトラー率いるナチスという新興勢力、ヒトラーはルーデンドルフの威光を利用することによって、国民の支持を得ようとしました。その結果、お互いの利益が合致して彼らは戦闘同盟という同盟を結んだのです。

背後からの一刺し説は、「両大戦の転機となった軍港キールで、水兵が蜂起した痕跡を巡る」編を参照してください。

これが「ミュンヘン一揆」といわれる事件の始まりです。事件の顛末と共にそのルートを紹介します。

関連動画
11月8日はヒトラーにとって欠かせない日
11月8日はヒトラーにとって欠かせない日(@YouTube)

ヒトラー一行が行進したミュンヘン一揆のルート

酒場(ビュルガーブロイケラー)からの出発

バイエルン政府が集会を開いていたビュルガーブロイケラーは、現在、ガイタイク文化センターとなっています。

ビュルガーブロイケラーがあったガイタイク文化センタービュルガーブロイケラーがあったガイタイク文化センター

ヒトラーは、まずそこで演説をしていたバイエルン総督カール、陸軍司令官ロッソウ、警察長官ザイサーを人質にとります。一旦はヒトラーの説得に応じるものの、ヒトラーが席を離したすきに、ルーデンドルフ将軍が彼ら3人を信頼して解放してしまいます。

劇画「ヒットラー」(ちくま文庫)から転載劇画「ヒットラー」(ちくま文庫)から転載

解放されたバイエルン政府の3人は、ヒトラーを鎮圧する行動に出ました。しかしそれでもヒトラーは、翌日の11月9日強硬手段に訴えてミュンヘンの中心部まで行進。バイエルン政府と対決しようとしたのです。 11月9日午前11時30分、ヒトラーとナチス党員、ルーデンドルフ将軍を携えた約3,000人はビュルガーブロイケラーを出発します。

ヒトラーとナチスが出会った場所

ヒトラー一行は、目の前の緩やかなローゼンハイム通り(RosenheimStraße)を下り、信号を左に進みます。

ローゼンハイム通り。遠方に見えるのはフラウエン教会ローゼンハイム通り。遠方に見えるのはフラウエン教会

目の前にイザール川にかかる橋を渡ります。イザール川の真ん中は島になっていて、島の上にあるドイツ博物館が左手に見えてきます。当時からある博物館で現在では第二次世界大戦中の航空機などが展示されています。

ドイツ博物館が見えてくるドイツ博物館が見えてくる

ドイツ博物館が見えてくるイザール川

橋を渡り、そのまままっすぐローゼンハイム通りを進むと、右にカーブすると、イザール門が見えてきます。イザール門の手前右手にある、トラム(路面電車)が走っているティールシュ通り(ThierschStraße)は、ヒトラーが後に出版する著書「我が闘争」を発行した出版社の建物(後述)や、ヒトラーが1920年代に住んで家があります。

イザール川を渡った対岸イザール川を渡った対岸

奥に見えるのはイザール門奥に見えるのはイザール門

イザール門を潜ると、タール通り(Tal)となり、ヒトラーがナチスと初めて出会った酒場(シュテルエッカーブロイ)がすぐ左に見えてきます。ヒトラーはこの時、どのような気持ちで4年前のナチスに入るきっかけとなった場所を眺めながら行進していたのでしょうか?

イザール門を潜るとタール通り。イザール門を潜るとタール通り。
シュテルエッカーブロイは左から5番目の建物。
奥の尖塔は旧市庁舎。

旧王宮方面へと進む

彼らはタール通りを進み、旧市庁舎の建物の潜るとマリエン広場が見えてきます。新市役所があるマリエン広場は群衆で溢れ、当時走っていたトラムも立ち往生していたそうです。そのため、マリエン広場には入らず、新市庁舎の右側のディナー通り(DienerStraße)をヴィテルバッハ家がいた旧王宮方面に向かいます。

マリエン広場。新市庁舎と右側の建物の間がディナー通りマリエン広場。新市庁舎と右側の建物の間がディナー通り

ディナー通りディナー通り

ディナー通りを進むと、旧王宮のレジデンツが見えてくるディナー通りを進むと、旧王宮のレジデンツが見えてくる

【第67回】ミュンヘンでヒトラーの面影を追う旅4 ~ヒトラーの挫折編-その1~
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【連載】ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡(第1回~第100回)

著者:ヒロマル

戦争遺跡ライター
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1979年神奈川県生まれ、神奈川県逗葉高校、代々木ゼミナールで1浪、立教大学経済学部卒業。

大学在学中からヨーロッパ、アジアなどを海外放浪してハマってしまい、そのまま新卒で就職せずフリーターをしながら続ける。その後、会社員生活をしながらも休み、転職の合間を利用して海外放浪を続ける。50ヶ国以上訪問。会社の休暇を利用して年に数回、渡欧して取材。

2012年からライター業を会社員との二足のわらじで開始。
2014年からwebメディア(株)フォークラスのTOPICS FAROで2つのシリーズを連載中。

▼もんちゃんねる(You Tube)
https://www.youtube.com/channel/UCN_pzlyTlo4wF7x-NuoHYRA

▼「ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡」シリーズ
https://topicsfaro.com/series/warruins
ヨーロッパ各地を取材し、第二次世界大戦に関する場所を紹介。
軍事用語などは極力省き、中学レベルの社会の知識があれば楽しめる記事にしています。
同シリーズが2017年に書籍化。
「ヒトラー 野望の地図帳」(電波社)から全国書店の世界史コーナーで発売中。

▼「受験に勝つ!世界史の勉強法」シリーズ
https://topicsfaro.com/series/wh
2018年から主に世界史を中心とした文系の勉強方法について執筆。
大学受験だけでなく、大学生や社会人の大人の教養としての世界史の勉強方法にも触れて、
高校生、大学生、社会人とあらゆる世代を対象としています。

世間の文系離れを阻止して、文系の学問の復権に貢献することが、2つの連載の目的です。

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