第2次世界大戦当初は勢い良く、ヨーロッパ大陸を制圧していたドイツでしたが、アメリカ軍が参戦した連合軍に対して、劣勢になっていきます。 連合軍は1944年の北フランス、ノルマンディー上陸、パリ解放と、順調にドイツの支配からヨーロッパ各地を解放していきます。 1944年12月、ドイツ本国決戦へと迫られたドイツは、最後の
不定期に改装中で閉館している日もありますので、事前にホームページなどで確認しておくと良いです。(タイトルの博物館名の英語表記を検索すると、一番上にホームページがでてきます) 語学力が乏しくてもヨーロッパの戦争遺跡を楽しむ方法 編も参考にしてみてください。 [statpost posti
アムステルダムの街並み オランダの首都アムステルダムは、「第二次世界大戦中も自由と寛容の精神が生きていたオランダ編」でも紹介したように、寸前のところでドイツ軍の爆撃を逃れたために、昔の街並みが残っています。 列車でアムステルダムに来る旅行者が降り立つのがアムステルダム中央駅になります。 アムステル
イに整備されていますがテーマパークのようなエンターテイメント性はなく、ナチスやユダヤ人の迫害の負の歴史を淡々と伝えています。 戦勝国、敗戦国、それぞれの側の博物館も共通しているのが、年配の方たちだけでなく、小さい子供を連れた家族連れや若い人も目立つことです。 国土が戦場にならなかった日本と違って街中が戦場の舞台
門からでも手の届きそうな範囲にあります。イギリスの方が日本より皇室と国民の距離が近いのを感じることができます。 第二次世界大戦中のロンドン空襲の際、バッキンガム宮殿も被弾します。イギリス国民は烈火のごとく怒りました。しかし、エリザベス女王はこう言いました。 「これでイーストエンド(空襲で被災した地域)の住民に顔
この小国へ杉原氏は赴任したのでしょうか? 1940年当時、ドイツとソ連は不可侵条約を結んで中立状態ではあったものの、独ソ戦が近いと噂されていました。杉原氏は、その独ソ戦の開戦時期を予測して日本へ報告するために、リトアニアの領事代理に就任したのです。 ドイツとソ連の間というリトアニアの地理的な位置が、情報を収集し