ロンドン市民の避難所となった地下鉄の駅
ロンドン空襲当時は、ロンドン市内のあらゆる地下鉄の駅がロンドン市民の避難所となっていました。ロンドン市民が地下鉄の駅へ避難している写真が帝国戦争博物館のパンフレットの見開きページにも載っています。
その写真の舞台は、帝国戦争博物館から歩いて数分の地下鉄駅ELEPHANT CASTLEです。
実際にELEPHANT CASTLE駅のホームに足を運んでみると、なんと、当時の写真とそのままの駅のホームの光景がそこにあります。駅表示、ホームのタイルの模様、広告の大きさ、貼っている位置が当時と変わっていないことに驚かされます。
私自身は12年ぶりのロンドン訪問でした。ヒースロー空港から乗ったロンドンの地下鉄の雰囲気は、12年前に乗った時と変わらないと思っていたら、戦前から雰囲気が変わっていなかったのです。
常に街がリニューアルされ、変化し続けているのが日本の大都市、一方、ゆっくりと時間が経つのがヨーロッパの大都市。
例えば、ロンドンやパリといったヨーロッパの大都市の地下鉄に乗っていると、時々一瞬だけ照明が切れて暗くなります。
彼らからしたら「運行に支障がなければいいじゃん」という感覚なのかもしれません。
10年前のパリ旅行で未使用のまま持っていた地下鉄の切符を、パリの地下鉄の改札に入れたら通れたというエピソードもあります。
東京の銀座線や大阪の御堂筋線も戦時中の空襲時には避難民を運んだと言われていますが、駅表示やタイルの模様が戦時中と変わっていないなんてことは絶対に考えられません。
当時の面影が残る地下鉄の駅のホームのベンチに座りながら、1940年のロンドンにタイムスリップしてロンドン空襲時の情景を黄昏してはいかがでしょうか。
イントロダクション
地下鉄ノーザンライン、ベーカールーライン ELEPFANT & CASTLE駅
一言:帝国戦争博物館とセットで見学するのがオススメ(帝国戦争博物館は、20世紀の大英帝国の戦争の歴史がわかるロンドンの軍事博物館 編 参照)。
ロンドン空襲で被災したバッキンガム宮殿
チャーチル戦時内閣執務室(CABINET WAR ROOMS)(20世紀の大英帝国の戦争の歴史がわかるロンドンの軍事博物館 編 参照)の前の通りBIRDCAGE WALKを1キロ弱歩けば、英国王室のバッキンガム宮殿に着きます。バッキンガム宮殿の前で繰り広げられる衛兵の交代式はロンドン観光のハイライトです。
バッキンガム宮殿の正門の前には、いつもたくさんの観光客が群がり、宮殿を覗いています。
東京にも天皇陛下の宮殿である皇居があります。バッキンガム宮殿、皇居どちらも首都の中心部にあり広大な公園に囲まれているのは同じです。
皇居はバッキンガム宮殿のように平地ではなく、川を挟んだ向こう側にかろうじて見ることができます。
しかしバッキンガム宮殿は、正面の正門からでも手の届きそうな範囲にあります。イギリスの方が日本より皇室と国民の距離が近いのを感じることができます。
第二次世界大戦中のロンドン空襲の際、バッキンガム宮殿も被弾します。イギリス国民は烈火のごとく怒りました。しかし、エリザベス女王はこう言いました。
「これでイーストエンド(空襲で被災した地域)の住民に顔向けができます。」
ロンドン市民はこの言葉を聞いて奮い立ちます。女王はロンドンの被災した地域に積極的に足を運び、国民を鼓舞します。
また、首相のチャーチルもロンドン空襲下でも毎日ラジオ演説して、空襲の翌日は被害にあった地域に精力的に足を運び、消火活動している消防士に声をかけました。空襲翌日にも関らずチャーチルの姿を見て喜んだたくさんのロンドン市民は手を振り、その中にはちゃっかりサインまで貰いにいくおばちゃんもいるくらいでした。その時の動画は、チャーチル戦時内閣執務室で見ることもできます。
当時全体主義だった日本やドイツでは考えられない政府と国民の関係。この時点でイギリスが戦争に勝つことは決まっていたのかもしれません。
アメリカ大使館のルーズベルト大統領の像
バッキンガム宮殿の北東にあるハイドパークの近くには、アメリカ大使館があります。そのアメリカ大使館の敷地内にあるクロブナー・スクエアには、第二次世界大戦が始まった時、在任していたアメリカの第32代大統領フランクリン・セオドア・ルーズベルトの記念碑があります。
白い大理石に刻まれた「FRANKLIN DELANO ROOSEVELT 1882-1945」の上に、マントのようなコートを着て立っているルーズベルト大統領の銅像。
中立の立場だったアメリカがついに参戦
ヨーロッパで戦火の火蓋が切られた第二次世界大戦が始まった当初、アメリカはヨーロッパの争いごとには顔を突っ込まない孤立主義の立場を取っていました。
イギリスが単独でヨーロッパ大陸を制圧したドイツと戦っていた時、首相のチャーチルが待ち望んでいたのはアメリカの参戦でしたが、当時のアメリカ国内の世論の反対もありアメリカは参戦することはできませんでした。
しかし、第二次世界大戦が始まる2年前、太平洋の向こうでは日本が中国を侵略します。ヨーロッパ大陸でもドイツが徐々に領土を拡大している情勢の中、ルーズベルトは、
「ドイツと日本を世界の平和を虫食む病人として、隔離する必要がある」
という演説を世界に向けて発表します。
そしてルーズベルト大統領は、1941年3月、武器貸与法を成立させ、ドイツや日本と戦う国に武器の輸出を解禁します。さらに8月には大西洋上でチャーチル首相と米英首脳会談を行います。そこで領土の不拡大、民族自決、侵略国(ドイツと日本)の武装解除などが宣言されました。
実際にアメリカ軍は正式に戦争には参加していませんでしたが、大西洋上ではアメリカの軍艦がイギリスの船舶を護衛し、ドイツの潜水艦Uボートと撃ち合うこともありました。アメリカ海軍とドイツ海軍は事実上、戦争状態になっていたのです。
1941年12月8日、太平洋上で日本軍によるハワイへの真珠湾攻撃のニュースが世界に伝えられます。日本軍のだまし討ちに、戦争に消極的だったアメリカ世論に一気に火がつき、アメリカもついに参戦することになります。
アメリカが参戦を表明する報を聞いた時、チャーチルは、
「これで戦争に勝てる。」
と確信したというのは有名な話です。
イギリスが20世紀最大のピンチに陥っていた時、救世主として現れたのがアメリカであり、当時のルーズベルト大統領でした。そのルーズベルト大統領の記念碑がロンドンのアメリカ大使館の庭園に建てられているのも納得できます。
アメリカ大使館の周辺は世界各国の大使館街ですが、その中で一際目立つデパートかコンサート会場のホールのような建物がアメリカ大使館です。
地球の裏側の日本にいると見えにくいですが、大西洋を挟んで現代でも続くイギリスとアメリカ両国の絆の強さがアメリカ大使館の建物の大きさにも現れているのではないでしょうか。
イントロダクション
最寄り駅:地下鉄Bond Street駅かMarble Arch駅
バッキンガム宮殿からも徒歩で行ける距離にあります。
住所:43-48 UPPER BROOK STREET
ロンドン市内の第二次世界大戦ゆかりの地を巡るモデルコース
帝国戦争博物館→(徒歩)→地下鉄ELEPFANT CASTLE駅→(地下鉄または徒歩)→チャーチル戦時内閣執務室(WESTMINSTER駅下車)→徒歩→バッキンガム宮殿→(地下鉄または徒歩)→アメリカ大使館
上記は本シリーズの記事で紹介したロンドン市内にある第二次世界大戦ゆかりの地のモデルコースです。ガイドブックの地図を片手に全行程を歩いても十分周れます。チャーチル戦時内閣執務室の前にはロンドンの象徴ビックベンも建っています。ロンドン散策をしながら戦争の歴史にも触れてみましょう。
近現代史を知ってロンドンを訪れてみよう
フランスのパリはヨーロッパの首都に相応しい統制の取れた整然とした街並みです。
ロンドンの街並みにパリのような整然さはありませんが、歴史博物館の多さからも分かるように一度も他国に侵略されたことない大英帝国の首都の威厳が感じられます。
ハリーポッター、くまのプーさん、機関車トーマス、ビートルズ、シャーロックホームズ・・・世界的に有名なエンターテイメントを生み出しているイギリスの文化に憧れた旅行者が世界中から訪れます。
その一方、物価の高さ、島国という地理的関係上、ヨーロッパを周っている旅行者でイギリスを渡航先から外してしまう人が多いのも現状です。
ロンドンの物価は高いですが、記事でも紹介した通り多くの博物館は無料ですし、入場料がかかっても学割で割引になるところがほとんどです。歴史の小ネタをちょっと知っていれば、何気ない場所も立派な観光地になります。
19世紀、世界で最初に産業革命が起こり、鉄道、保険、旅行代理店、銀行・・・といった現代の社会システムの基盤が生まれたイギリス。世界史では絶対に外せない国です。
大学受験で世界史を選択して受験した人は勿論ですが、内定を貰って卒業旅行でヨーロッパ周遊する人も、自分が4月から働く業界が誕生した国かもしれないので、ロンドンだけでも訪れてはいかがでしょうか。
パリからドーバー海峡の海底トンネルを通る新幹線ユーロスターに乗れば、日帰りでロンドンを訪れることも可能ですよ。