アムステルダムの街並み
オランダの首都アムステルダムは、「第二次世界大戦中も自由と寛容の精神が生きていたオランダ編」でも紹介したように、寸前のところでドイツ軍の爆撃を逃れたために、昔の街並みが残っています。
列車でアムステルダムに来る旅行者が降り立つのがアムステルダム中央駅になります。 アムステルダム中央駅の建物は、東京駅のモデルとなっています。東京駅は2014年に100周年を迎えましたが、アムステルダム中央駅は150周年を迎えました。
その東京駅は太平洋戦争の東京大空襲の時に建物が焼け落ちて戦後再建されましたが、アムステルダム中央駅は150年前当時の外観がそのまま残っているのです。
アムステルダム中央駅を降りると、アムステルダムの中心、観光客で賑わうダム広場までダムラック通りが伸びています。地下鉄を使えば一駅の距離ですが歩いても15分ほどです。
さらに歩くと、へーレン運河、カイゼル運河、プリンセン運河、シンゲル運河の順に、アムステルダム中央駅とダム広場を囲むように運河が流れています。
ダム広場から東に延びるラートハイス通り(Raadhuis Straat)を500mほど行った場所に、世界的に有名なアンネ・フランク博物館があります。
アンネ・フランクの博物館を基点に戦時中のアムステルダムの面影を歩いてみましょう。
第二次世界大戦中のオランダ
アムステルダム同様に、オランダの地形は川と水路が幾たびにも連なってます。このオランダ独特の地形が、ドイツ軍、連合軍に双方側にとってもオランダでの戦いのポイントとなるのです。
1939年9月、ドイツ軍がポーランドに侵攻して始まったのが第二次世界大戦です。ドイツに宣戦布告をしたものの、戦争の準備ができていなかったイギリス、フランスは、積極的な攻撃をしかけることができませんでした。
そのためにドイツ、フランス国境がある西部戦線では双方の睨み合いが約半年間続きました。その期間は「まかやし戦争」、「奇妙な戦争」と言われています。
しかし、1940年5月10日の午前1時、約2,000機のドイツ空軍機がオランダ、ベルギー、フランスにある計70ヶ所の飛行場を爆撃します。ドイツ軍の西方攻勢「黄色作戦」の幕開けでした。同時にパラシュート部隊がオランダとベルギーの戦略要所に襲いかかります。
オランダ軍は水路が多い国土を利用して3重の防衛線を作り、堤防を決壊させてドイツ軍の進出を阻む作戦を立てますが、空挺部隊による奇襲で主要な橋、堤防を制圧されてしまいます。その後、ドイツ軍によって確保された道を自動車化部隊に突進されてしまいます。オランダの防衛線は骨抜きになり、5日後には降伏してしまいます。
ウィルヘルミナ女王とオランダ政府首脳はロンドンに亡命します。ロンドンでイギリス政府やドイツ軍に占領された各国の亡命政府と連絡を取り合い、ドイツへの反撃の機会をうかがうことになります。
大戦末期の1944年、(映画「遠すぎた橋」の舞台となった激戦地、オランダのアーネム編)でも紹介したように、オランダ解放に向けた連合軍のマーケット・ガーデン作戦も、1940年のドイツ軍のオランダ空挺作戦同様、水路や橋が多いオランダの地形を考慮して導き出された作戦でした。
しかしマーケット・ガーデン作戦は失敗し、オランダ全土が解放されたのは1945年5月4日、ドイツが無条件降伏する4日前でした。ドイツに占領された国で連合国軍による解放が一番遅かった国がオランダだったのです。
アンネフランク博物館からレジスタンス博物館までの歴史散策
アンネフランク博物館の前にある同性愛者記念碑
ダム広場から東に延びるラートハイス通り(Raadhuis straat)を500mほど行った場所にアンネ・フランクの博物館があります。アンネ・フランクの博物館には観光客が世界中から訪れて長蛇の行列ができていて、入場するのに2時間ほどかかる時もあります。
そんな長蛇の列ができているアンネ・フランク博物館の前の広場「ウエステルマーケット(WESTER MARKT)」のカイゼル運河側の前には、ひっそりと同性愛者記念碑があります。
ナチスはユダヤ人だけでなく、政治犯、ジプシー、同性愛者も迫害の対象として、強制収容所に送り込んでいました。
記念碑は、4段の階段を降りると、運河にトライアングルの形で突き出しています。 階段では観光客が休憩している姿もみられ記念碑だと気づきにくいですが、トライアングルは収容されていた同性愛者が着る囚人服に描かれていた形を現しているのです。
ドイツ軍が侵入してきた道「ラートハイス通り(Raadhuis straat)」
ダム広場からアンネ・フランクの博物館を結ぶ「Raadhuis straat」は、ドイツ軍がオランダ軍を降伏させた1940年5月15日、ドイツ軍部隊がアムステルダムの中心部に侵入してきた道です。
ドイツ軍はアムステルダム市民に勝者の象徴の威厳を見せつけるために、無傷の自動車部隊のみによる進駐でした。
当時ドイツ軍に従軍していた日本人記者の話では、アムステルダムの街はオランダ降伏の数日後には店舗の営業が再開し、日常を取り戻していたとのことです。
相手が圧倒的な力を持っていて勝てないと判断したら、無駄な戦いは諦めて白旗を上げ、また、敗戦後も身の危険がないと思ったら日常生活を再開させるのは、戦争を繰り返してきた歴史のあるヨーロッパ人の処世術です。
ダム広場の戦没者慰霊塔
5月4日はオランダ戦没者追悼記念日
ダム広場に戻ってくると、王宮とは反対側にある白い尖塔が戦没者慰霊塔です。毎年、オランダが解放された5月4日は戦没者追悼式典がダム広場で行われます。
午後8時から2分間の黙祷の後行われるのが、戦没者慰霊塔からオランダ女王、政府首脳のスピーチです。戦没者追悼記念日の5月4日は、日中からダム広場周辺で交通規制が行われるほど大混雑します。
式典は黙祷が行われる午後8時の1時間ほど前から、王宮側から慰霊塔まで、当時戦争に関った人々、その家族ら関係者の行進も行われます。見学客はその両サイドから見物することになるので、近い位置で見たいのなら数時間前から並んで場所を確保するといいでしょう。
ただし、式典近くの時間になると警備の都合上、ダム広場周辺の飲食店は閉まりますし、多くの人が集まるのでスリも多いので注意も必要です。
また、オランダ各地の主要駅には、戦時中殉職した鉄道職員の名前がプレートに刻まれています。5月4日は、そのプレートにオランダ国旗の色のリボン付けられた花が供えられている光景も見ることができるでしょう。
アムステルダム中央駅では正面から一番近いホームの中央上にプレートがあります。
ナチスから追われている人たちの隠れ家だったタバコ会社
ダム広場からはルーキン通り(Rokin straat)という大きな通りが伸びており、その1本横にはネス通り(Nes straat)と呼ばれる裏路地があります。ルーキン通りをメトロのスパ駅(Spui)まで行き、左にある道ランゲブルク通り(LANGE BRUG STEEG)へ進みます。最初の左側にある道、ネス通りを入ったすぐ右側に「TABACO」と書かれた看板があるタバコ会社の建物があります。
アンネの隠れ家は有名ですが、この建物にもナチスに追われていた人々がかくまわれていました。隠れている人々の食料の問題が深刻化していましたが、配給所から食料の配給切符を盗んでくれるレジスタンスの協力もあり、なんとか逃げ延びることができました。
そして配給切符で換えた食料は、女性が乳母車やショッピングバックに隠して運んできたそうです。
住所:Nes 118
誤爆?されたカルトンホテル
ルーキン通りに戻りムント広場まで行くと、8階建てのカルトンホテルが見えてきます。
1943年4月27日、連合軍の爆撃機がカルトンホテルに突っ込んできて、ホテルは大火災になってしまいました。
当初、カルトンホテルには当時、ドイツ空軍の将校が宿泊していたための故意の爆撃だと思われていましたが、ドイツ軍の高射砲によって打ち落とされてカルトンホテルの新館に突っ込んできたのでした。
住所:Vizelstraat 4
空襲警報の発令に使われていた建物
ムント広場からレグリールスプレー通り(Reguliersbree straat)を進むと、レンブラント広場(Rembrandt Plein)という広場の前にある6階建ての茶色い建物が見えてきます。
この建物は、戦時中は空襲警報の発令が行われていました。敵機がアムステルダムに近づいてくると、この建物から空襲警報が発令され市内の101ヶ所のサイレンが一斉に鳴り始めるようになっていました。
幸いナチス占領下のアムステルダムは、ほとんど連合軍の空襲を受けることがありませんでした。
住所:Rembrandtplein 47
旧ユダヤ人街へ足を踏み入れる
レンブラント広場からハルヴェマーン通り(Halvemaan straat)を進むと、運河に面しているアムステル通り(Amstel straat)に出ます。アムステル通りから運河にかかっている橋があります。運河を渡った橋の向こうのエリアは旧ユダヤ人街になります。
この橋がユダヤ人街と非ユダヤ人地区の境界線でした。スタール通り(Staal straat)を通ると、市庁舎とミュージックシアターがあるウォータール広場(Waterloo Plein)に出ます。ウォータール広場には、ユダヤ人レジスタンス活動家ベニー・ブルームBENNY BLUHM(1917-1986)を称えるモニュメントが建っています。
近くにはユダヤ歴史博物館もあります。その博物館前の公園には、1941年アムステルダムの港湾労働者たちがユダヤ人狩りに抗議して行ったストライキを記念した像があります。
終着地点、レジスタンス博物館へ足を運んでみたいと思います。
「第二次世界大戦中、ナチスに抵抗した歴史を伝えるオランダの博物館 編」に続きます。