維新の会が提唱する相続税100%化は何をもたらす?
相続税は本来すべての国民に対して掛けられる税金ですが、控除額が大きいために実際に納税することになるのは課税対象のうちの数パーセント程度といわれています。
つまり、実際に相続税を払うのは本当のお金持ちの人たちであるということです。
このちぐはぐな課税状況のせいか、「相続税をもっと増やすべき」という考え方をしている人は少なからずいるようです。
そして橋下徹大阪市市長が率いる政策集団「大阪維新の会」によって提唱された「維新八策」では、「不動産を含む遺産全額を徴収する」という相続税100%化への指針が示されました。「一生涯使い切り型人生モデル」というキャッチフレーズが付けられていて、老人がため込んでいる財産を市場に流れやすくするため全部持っていこうというのが狙いのようです。
相続税が100%になるとどうなる?
基本的に民衆は税率のアップに反対するものですが、法人税や相続税のような「富める者」に掛かる税金だとどういうわけか幾らでも上げていいと諸手を挙げて喜ぶものです。 相続税がもしも税率100%になった場合、私たちの生活はどうなるのでしょうか?
家の名義人を喪うと同時に家を失う
相続は家柄や資産総額に関係なく、すべての家庭で発生しうるものです。
例えば、昨年念願のマイホームを建て、家族四人で暮らし始めたばかりの男性が不慮の事故にあって急逝したとします。
現在の税制なら遺された奥さんと子供二人で基礎控除額は5000万円+1000万円×3=8000万円で、家・土地の資産価値が8000万円以下なら家も土地も売らずに済むでしょう。
しかし、相続税率100%で控除がない場合、貯金も家も土地も物納という形で徴税されます。そして遺された家族は全員路頭に迷うことになってしまいます。
海外脱出者が増える
どんなに一生懸命にお金を稼いで家族を楽させたいと考えていても、相続税率100%の時点でもしものことがあっても家族には一銭も残せないことになります。
特にお金持ちは相続税のターゲットにされているからこの法案が通った時点で、日本で暮らし続ける必然性はなくなったものといえます。
ではお金持ちはどうするのかというと手持ちの財産をすべて売却して金銭に変えたうえで相続税のない国に移住します。
相続税ゼロの国としてはカナダ・オーストラリア・マレーシア・香港、期間限定でアメリカなどがあげられます。
農業・漁業・畜産業が壊滅
「不動産を含めて税率100%」ということは、宅地も山林も農業用地も関係なく物納徴税されるということでもあります。
つまり、広大な土地が必要な農業や畜産業は一家の大黒柱であるお父さんが、例えば台風の日に川の様子を見に行くなどして帰ってこなかった時点で、農地が徴税されて終了するということになります
農業や畜産業だけでなく、漁業も例外ではありません。魚を獲るために必要な漁船も課税対象として物納徴税されてしまう可能性があります。 このように、食料供給の要である第一次産業が壊滅的な打撃を受けてしまう可能性がきわめて高いものといえます。
生前贈与で済ませるための小細工が蔓延
財産を遺産として遺せば全部税金として持って行かれるのであれば、生前贈与で相続させようと考える人は少なくないでしょう。
しかし、贈与という相続が名義人の存命中にできるのであればまだしも、遺産相続を生前贈与にするために死亡届を出さないなどの一時期話題になった「高齢者所在不明問題」のような小細工をする家族の増加が懸念されます。
格差解消にはつながらない
相続税100%を持論にする人は大抵「お金持ちとそれ以外の格差」を問題にするのですが、法律には特定の集団だけに適用されるものと社会すべてに適用されるものがあります。
そして、相続税を規定する相続税法は後者にあたり、「お金持ちだけが相続税率100%」ということにはならず、いわゆる庶民も巻き込まれることになります。
つまり、格差社会の解消を税制の変更で行おうという発想からして間違っている上に、根本的な解決策になっていないのです。
共産主義社会への強制的なかじ取り
相続税率100%ということは、「死んだ時点で財産全没収」であり「財産の所有権そのものが個人に帰属するものではない」ことを定義することでもあります。
つまり、相続税100%化は「個人に財産は不要であり社会に還元されるべき」という共産主義的な発想を敷衍させるものであると解釈することができるのです。
20世紀に乱立した共産主義国家の大半は、21世紀現在では崩壊するか資本主義にシフトしているという状態で、グローバリゼーションが広まった現代にそぐわない思想となっているのにも関わらず、です。
相続税100%化は論議にすら値しない
率直に言って、相続税率の100%化は時代に逆行した一顧だに値しない、愚かな考えです。
相続の対象となる財産は親から引き継いだものだけでなく、個人ごとの頑張りの成果として得られたものも含みます。
財産権を否定するということは成果の否定であり、無数の成果の積み重ねによって成り立っている社会全体を否定することにもつながります。
成果の象徴でもある財産は幾ら蓄えても無駄になる、そんな世界で誰ががんばろうと思うのか。そういった当たり前のことから考えるべきではないでしょうか。