1940」と書いてみました(1918は第1次世界大戦終結した年、1940は第2次世界大戦でフランスが降伏した年)。 ましこれを見せた瞬間に、職員も「わかった!わかった!」という仕草をしてくれた。 食堂車がある場所は街の中心部ではなかったのです。地図を見る限り駅を出て線路沿いに左側にひたすら歩いていけば着くという
なノリでした。 ノルマンディーにあるレプリカの対空砲、本物ではないのでやられる可能性0 戦跡や博物館は観光地化が進むヨーロッパ ヨーロッパの戦跡というと、アウシュビッツ強制収容所、アンネ・フランクの家をイメージしてしまいます。そのため、ユダヤ人の迫害、虐殺という負の歴史なので重たいイメージを持たれ
す。それも、現地まで足を運ぶことによって得られる感動の一つだと思います。 何気ない街角も知識を付けるだけで立派な観光地になる 1945年、独ソのベルリン最終決戦の跡地を散策編では、ベルリンのど真ん中にある2008年まで使用されていたテンペルホーフ空港跡地を紹介しました。 テンペルホーフ空港には、ナチス時代
】シニア旅行者 ヨーロッパを周遊している日本人の旅行者で、一番多いのがシニア旅行者です。 ヨーロッパの一般的な観光地は当然、東欧のマニアックな都市にもいます。団体ツアーで参加している方々が多いですが、夫婦などで旅行しているケースも多いです。 特徴として、若かりし頃は現代ほど海外旅行が一般的ではなかった世代です
の博物館の展示をじっくり見学していると、それだけで1日が過ぎてしまいます。当然、海外旅行には時間に制限があります。他の観光地を周る兼ね合いも考えて、効率的に周ることが必要です。ですから、博物館は一部分だけを重点に見学するという方法を勧めます。 ②大英帝国戦争博物館の前で開門を待つ人々 博物館オリジナルのコー
ッツ強制収容所には、近年韓国人の見学者が増えています。彼らは戦争中、他国に支配されていた母国の歴史をポーランドに重ね合わせるようです。もしかしたら、韓国人の方々は、イギリスやドイツよりも、ドイツに占領されつつも最終的に戦勝国なった、これらの国々の戦争遺跡に親近感を持っているかもしれません。 第1次世界大戦
した。20代の頃は、純粋に海外の行ったことない未知の国、都市へ行くことが目的でした。旅行スタイルもガイドブックを片手に観光地を周るごく普通の旅行スタイルだったのです。 その旅行の中で、特に何に興味を持っていたかというと、戦争遺跡でした。 旧ユーゴスラビアの国々の都市の生々しい内戦の跡、イラク戦争直後の中東の国々
た。ドイツ国民よ今こそ立ち上がれ!」 ミュンヘン大学の医学部で組織された白バラ通信は、地味なビラ活動で、反ヒトラー運動を行ってきました。世論を誘導することはできず、線香花火のように終わってしまいます。しかし、スターリングラードの敗北によって、その想いが爆発。意を決し校内で白昼堂々ビラをまく強硬手段に訴えでます。
場所は中央駅近くの戦没兵士広場(旧赤の広場)になります。駅方面を背に戦没者兵士広場の左側は、ホテル・インツーリスト、アエロフロート航空のオフィスの建物が並びます。 その裏側の路地に博物館があります。広場の角にあるホテル・インツーリストの左側の道になります。 写真の通り外観は地味ですし、博物館の存在を示す看板の類もな
母なる祖国像の隣には、教会もあり、新郎新婦や新生児が洗礼を浴びている姿も見られます。 ヴォルゴグラード市内ではあまり観光客の姿は見られませんが、ママエフの丘は国内外からの観光客で賑わっています。景観が良いので、丘に寝そべって一休みしている人たちの姿も多くみられます。 教会 今でも現役で稼動するトラクタ