【第43回】独ソ戦の転換期となった街、スターリングラードを歩く その3|トピックスファロー

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2016年9月13日
【第43回】独ソ戦の転換期となった街、スターリングラードを歩く その3

スターリングラード市街地の約9割を手に入れたドイツ軍、完全占領するのは時間の問題と思われていました。しかしその時、戦闘の焦点は別の場所へ移っていたのです。それに彼らはまだ気づいていなかったのです。

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ドイツ第6軍包囲される、そして降伏

スターリンの事情

「ヴォルガの背後に我らの土地なし!」

ソ連第62軍のスローガンです。

ヴォルガ川は「母なる河」としてロシア人から愛されていました。

ヴォルガ川の湾曲部にあるスターリングラードは、海上交通の要所でもあり、南ロシアと首都のモスクワを結ぶ鉄道の接続地点でもありました。

スターリングラードが陥落することは、モスクワと南ロシアの資源地帯と遮断さることは意味します。ソ連軍は国民の心理的な面と軍事的な戦術面においても、スターリングラードを死守しなければなりませんでした。

スターリン「ここが正念場だ、スターリングラードの戦いに、       国の命運が掛かっているだろう。」
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スターリン

ヒトラーの事情

「スターリングラードを全面占領することを望む」

ヒトラーの第6軍への向けての電文です。

1941年12月にアメリカが連合国側に参戦。スターリングラードの戦い当時、アメリカ軍の主力は太平洋戦線で戦っていましたが、北アフリカではイギリス軍が攻勢に出始めていました。ドイツとしては、アメリカ軍が本格的にヨーロッパ戦線に参加する前に、ソ連を屈服させて、早急に大西洋と地中海の防御を固める必要がありました。それゆえに、ソ連の最高指導者、スターリンの名前を冠した街と、ソ連の物資や兵力輸送ルートの要所を押さえることが必要でした。ヒトラーは、軍事的な戦術面と体裁的な政治的宣伝を考え、スターリングラードの完全占領にこだわりました。

ヒトラー「アメリカ人がヨーロッパにやってくる前に、ソ連を片付けるのだ。」
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ヒトラー

ソ連軍の大反抗作戦とドイツ軍の救出作戦

ソ連軍の天王星(ウラン)作戦

ソ連軍は大規模な反抗作戦の準備を進めていました。ドイツ第6軍がスターリングラードの市街戦で完全消耗するのを待っていたのです。その間、ドイツ軍は後方の予備隊が次々、市街戦に投入されていました。そのため、ドイツ軍の両翼は伸びきってしまい、第6軍の側面を守るのは貧弱なルーマニア軍でした。

ソ連軍はその時を待ち構えていたのです。

スターリングラードのドイツ第6軍の背後にいる、戦意の乏しいルーマニア軍に総攻撃をしかけて、第6軍を遮断し、包囲して袋のねずみ状態にする計画を立てていたのでした。 これがソ連軍の「天王星(ウラン)作戦」です。

11月19日、ソ連軍の「カチューシャ」と呼ばれたロケット砲(ドイツ軍には「スターリンのオルガン」と恐れたれていた)を含む3500門ほどの火砲が、一斉に両翼のルーマニア軍に襲い掛かります。

ルーマニア軍はパニックに陥り、一瞬にして敗走してしまいます。その後もソ連軍は前進を続け、4日後の11月23日には、ソ連軍は包囲網を完成させ、ドイツ第6軍、26万人の兵士が鉄の扉に閉じこめられたのです。

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ソ連軍の軍服

ドイツ軍の「冬の嵐作戦」

ドイツ軍は、包囲された第6軍を救出するために、知将マンシュタイン元帥を招集して、救出部隊を編成させます。また、空軍による輸送機からの補給物資の空輸も開始させます。

この一連の救出作戦を「冬の嵐作戦」と呼びます。

しかし、救出部隊の進軍はソ連軍の膨大な予備兵力によって阻まれ、空輸はソ連空軍に妨害され、満足に行えませんでした。そこでドイツ第6軍司令官、パウルスは全滅を回避するために、脱出の許可をヒトラーに仰ぎますが、ヒトラーは一歩の撤退も許さなかったのです。

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ドイツ軍の軍服

ドイツ軍の空輸が行われた空港、グラクム飛行場

ドイツ第6軍の命綱であった補給物資の空輸が行われたグラクム飛行場が、現代ではヴォルゴブラード空港になっています。また、後方へスターリングラードの戦いで負傷した兵士や、祖国の家族や友人への兵士の手紙を輸送したのもグラクム飛行場でした。

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グラクム飛行場

ヴォルゴグラードを飛行機で訪れた旅行者が、最初に降り立つのがそのヴォルゴグラード空港です。空港のターミナル自体はそれほど大きくなく、飛行機を降り立つと小さいカウンターを抜けたらすぐに外に出られます(モスクワ乗り継ぎの場合、入国審査はモスクワで行われるため)。また、搭乗する時もゲートの荷物検査が1ヶ所しかなく、狭い待合室とその奥に軽食が取れるバーがあるだけです。

お土産屋も数ヶ所しかなく、品揃えもよくないですが、モスクワの空港より、飲食物やお土産類が安いので、ここで買っておくとよいかもしれません。

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待合室

包囲されたドイツ軍はソ連軍の降伏勧告を黙殺します。1942年1月10日、ドイツ軍の止めを刺すソ連軍の鉄環(コリフォー)作戦が発動。ドイツ軍は最後の抵抗を試みますが、1月21日、グラクム飛行場がソ連軍の手に落ちると、ドイツ軍は補給物資が壊滅的な受け、命運は尽きたのでした。

ドイツ第6軍、パウルス将軍、降伏時の司令室跡

ドイツ第6軍司令官パウルスは、脱出命令を出すこともヒトラーに拒否され、当然ソ連軍の降伏勧告の拒否を厳命されます。1月30日、ヒトラーはドイツ軍人最大の名誉である元帥に、パウルスを昇進させます。歴代のドイツ軍人の中で元帥自ら降伏した人はいませんでした。

元帥の地位をパウルスに与えることは、最後の1人まで戦えというヒトラーの命令なのでした。

しかし、包囲網の中の弾薬、燃料、食料などの物資がない中では、戦闘は事実上不可能でした。翌日の1月31日、パウルスは司令室を出て、部下を引き連れてソ連軍に投降します。

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真ん中がパウルス将軍

そのパウルスの最後の司令室跡が、ヴォルゴグラードの中心街の一角で、博物館として公開されています。

場所は中央駅近くの戦没兵士広場(旧赤の広場)になります。駅方面を背に戦没者兵士広場の左側は、ホテル・インツーリスト、アエロフロート航空のオフィスの建物が並びます。 その裏側の路地に博物館があります。広場の角にあるホテル・インツーリストの左側の道になります。

写真の通り外観は地味ですし、博物館の存在を示す看板の類もないので、見つけにくいかもしれません。

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インツーリスト、アエロフロート航空のオフィス
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司令室跡の博物館入口

パウルスが降伏した当時は、第6軍司令室はウニヴェルマグという百貨店の地下にありました。その地下が今では当時を記録する博物館として公開されています。

この後、紹介する、スターリングラードの戦いの全体を展示した派手なパノラマ戦争博物館よりも、館内は狭く、ドイツ軍の降伏時に絞った地味な展示になっています。また、表記もロシア語、ドイツ語、英語とあります、ロシアの世界大戦系の博物館ではロシア語表記しかないことが多いので、英語表記は大変助かります。

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司令室跡の写真
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博物館の中

入口を入って左側に行くと、破壊される前の戦前のスターリングラードの街の動画、赤の広場の周囲を解説した写真などがあります。街を歩く小奇麗にしている貴婦人達、中心部の立派な建造物など、この動画や写真を見る限り、戦前のスターリングラードは裕福な街だったのがわかります。共産主義革命で時の主導者、スターリンが解放した街として優遇され、工業化を推進する第5ヵ年計画によって工業都市として潤っていたのです。

当時の写真を見ると、今のホテル・インツーリストの場所に司令室があった百貨店があり、その隣が当時はホテル・インツーリストだったのがわかります。

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当時のスターリングラードの上空写真

同じ地下にあったドイツ軍の野戦病院、第6軍将校達のミーティングルームが再現され、降伏調印時のソ連軍将校とドイツ軍将校の様子を描いた絵なども展示されています。 また、別の部屋にはドイツ軍の装備や戦跡を紹介したコーナーもあるのです。

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野戦病院
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ミーティングルーム
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降伏調印時の絵

そして、博物館で一番の見どころ、パウルス将軍の寝室兼書斎が再現されています。 旧ソ連国の世界大戦系博物館の場合、ロシア語表記しかないのからもわかるように、ソ連側からの歴史観が強いです。「侵略者のドイツ軍を撃退した正義のソ連軍」という構図が一般的です。

しかし、この博物館の場合、ソ連色はあまり強くありません。パウルスを初めとしてドイツ軍の展示が多く、比較的、ドイツに対して趣きをおいた博物館になっているのです。

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再現されたパウルス将軍の部屋
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当時の写真

それはなぜか?

降伏後、パウルスはソ連で反ナチスの活動を開始

ソ連軍の捕虜になったドイツ軍将校の多くがそうであったように、パウルスもソ連で反ナチス、反ヒトラーを掲げる「ドイツ将校連盟」に加わったからだと思います。

パウルスの場合、戦後もしばらくソ連に抑留され、1953年にドイツへ帰国しますが、選んだのはソ連の衛星国家だった東ドイツでした。パウルスは亡くなるまで東ドイツで、執筆、講演活動などをしていました。スターリングラードの戦いでソ連の捕虜になってからは、スターリン、ソ連へ従順な忠誠をしていたのです。

そのため、パウルスはスターリングラードへ進撃した悪者ではなく、ソ連によって救出され浄化された人なのです。

まさに、その瞬間がこの降伏時の司令官室だったのです。

博物館の情報
入場料:50ルーブル(約100円)
表記:ロシア語、ドイツ語、英語
開館時間:10:00-18:00(月曜は休館日)

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博物館のチケット売り場
【連載】ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡(第1回~第100回)

著者:ヒロマル

戦争遺跡ライター
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1979年神奈川県生まれ、神奈川県逗葉高校、代々木ゼミナールで1浪、立教大学経済学部卒業。

大学在学中からヨーロッパ、アジアなどを海外放浪してハマってしまい、そのまま新卒で就職せずフリーターをしながら続ける。その後、会社員生活をしながらも休み、転職の合間を利用して海外放浪を続ける。50ヶ国以上訪問。会社の休暇を利用して年に数回、渡欧して取材。

2012年からライター業を会社員との二足のわらじで開始。
2014年からwebメディア(株)フォークラスのTOPICS FAROで2つのシリーズを連載中。

▼もんちゃんねる(You Tube)
https://www.youtube.com/channel/UCN_pzlyTlo4wF7x-NuoHYRA

▼「ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡」シリーズ
https://topicsfaro.com/series/warruins
ヨーロッパ各地を取材し、第二次世界大戦に関する場所を紹介。
軍事用語などは極力省き、中学レベルの社会の知識があれば楽しめる記事にしています。
同シリーズが2017年に書籍化。
「ヒトラー 野望の地図帳」(電波社)から全国書店の世界史コーナーで発売中。

▼「受験に勝つ!世界史の勉強法」シリーズ
https://topicsfaro.com/series/wh
2018年から主に世界史を中心とした文系の勉強方法について執筆。
大学受験だけでなく、大学生や社会人の大人の教養としての世界史の勉強方法にも触れて、
高校生、大学生、社会人とあらゆる世代を対象としています。

世間の文系離れを阻止して、文系の学問の復権に貢献することが、2つの連載の目的です。

▼ご依頼、ご質問はこちらのメールまたはツイッターから
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