ヒッチハイクして行った休戦条約の場所(仏、コンピエーニュの森)
「両大戦の休戦条約調印の舞台、コンピエーニュの森 ~独仏因縁の場所~編」でも紹介した両大戦の休戦条約が結ばれた食堂車は、コンピエーニュ郊外にあります。コンピエーニュはパリの郊外にある街です。
私は詳しい場所はわかりませんでしたが、食堂車が記念館として開館されている情報は得ていました。コンピエーニュに行けば、パリのように大きい町ではないし、すぐ分かるだろうと気軽に考えていました。
街の中心部にコンピエーニュの宮殿があります。コンピエーニュの森というのだから、その敷地内の庭園の中にあるだろうと、勝手に思い込んでいたのです。しかし、庭園を散策しても食堂車らしきものは発見できない、そこで宮殿のインフォメーションで場所を聞くことにしました。
とはいっても、フランス語でその休戦条約の記念館の名前などわかりません。
「ヒトラー、ナチス、ウォーエンド(戦争終結)」・・・・・
とりあえず休戦条約の食堂車が連想できそうな単語を発音してみました。 それでも首をかしげるインフォメーションの職員。
しびれを切らして紙に「1918、1940」と書いてみました(1918は第1次世界大戦終結した年、1940は第2次世界大戦でフランスが降伏した年)。
ましこれを見せた瞬間に、職員も「わかった!わかった!」という仕草をしてくれた。
食堂車がある場所は街の中心部ではなかったのです。地図を見る限り駅を出て線路沿いに左側にひたすら歩いていけば着くということがわかりました。
なので、駅を背に左側の道を歩いてみることにしました。すれ違う人たちに、記念館の方向は合っているか?と尋ねながら数キロほど歩いても、着く気配がありません。ふと道路の表示を見ると・・・・
記念館まで6キロ
それを見た瞬間に歩くのを諦めました。
路線バス、タクシーも通っている気配もありません。仕方ありません。
人生初のヒッチハイクをすることにしました。
私が高校生の時、テレビ番組「進め!電波少年」で猿岩石のユーラシア大陸横断ヒッチハイクをやっていました。私の世代は猿岩石のヒッチハイクを見て旅に出たバックパッカーが多いです。しかし、テレビ番組同様に簡単に乗せてくれるとは思いませんでしたが、すぐに中年の方が運転する車が止ってくれました。その方のご好意のおかげで無事記念館に着くことができたのです。
思わず乗車する時に、猿岩石がヒッチハイクしていた時と同様に、「ノーマネー、オッケー?」と言ってしまいそうになりました。
コンピエーニュの森の記念館は、最初から駅でタクシーを拾うべし。
公共アクセスが皆無の要塞跡(仏、マジノ線)
「ドイツ軍に敗れたフランスが誇る難攻不落の要塞、マジノ線編」のアクセスを紹介する章でも軽く触れましたが、地元の方々の好意に甘える結果となりました。
アルザス地方に残る見学ができるマジノ線跡を探していました。検索していたら記事でも紹介した、ストラスブールの北にあるSCHONENBOURGのマジノ線が見学できるとのことがわかりました。マジノ線公式サイトにメールして、アクセス情報を問い合わせたところ、公共機関はなく、最寄り駅も5キロ離れているという返答がきました。もしかしたら、その駅からバスが出ているかもしれないという、曖昧なものでした。ただバスが出ていなかったら、多少出費してでもタクシーで行けばいいかな?そんなノリでした。
初夏の天気が良いアルザス地方の午前中、マジノ線から5キロと思われる最寄り駅に降り立ちます。
駅員にバス停の場所を聞きますが、ここは駅だからバスは通っていないと言われます。 まあ、これは予想通り、ならタクシーを呼んでもらおうと思って駅員に聞いてみたら、 この辺ではタクシーも滅多に走っていないとのこと。
その返答に思わず答えを失ってしまいました。
街中にはツーリストインフォメーションもない。
観念して5キロの道のりを歩くことにしました。マジノ線跡までは駅の入口を背にして真っ直ぐあるけば着くとのこと。
街中にいる地元の人にも道のりを聞きながら、街の郊外まで歩き、広大な畑の向こうにマジノ線があると言われる街並みをかすかに望むことができました。さすがに気が遠くなって、コンピエーニュの時のことを思い出し、一か八かヒッチハイクに挑戦します。
しかし、全くといっていいほど止ってくれない。
コンピエーニュの時が奇跡だったのか。
その時、「プッ!プッ!」とクラクションの音がして自分の横に車が止ってくれました。 その運転手は先程、マジノ線までの道を教えてくれた地元のおじさんだったのです。 わざわざ車を出して、見かねた私をマジノ線跡まで送ってくれたのです。
「帰りは何時くらいになる?」といわれたので、さすがに迎えに来ていただくのは悪いと思って、お礼を述べて気持ちだけいただくことにしました。
マジノ線跡に着いたのが、オープン1時間半前。
オープン直前に見学客がポツポツと現れますが、全員自家用車でのご来場でした。
帰りはマジノ線の職員の方にタクシーを呼んでもらって駅まで戻ろうと考えていました。 しかし、電話帳で各タクシー会社に電話してもらったのですが、マジノ線周辺を走っているタクシーは見つかりません。
そうしたら、1人の女性職員の方が、自家用車で駅まで送ってくれると名乗り出てくれたのです。業務中に大変申し訳なかったのですが、お言葉に甘えて駅まで送っていただきました。
降りる時に、「メルシー」というお礼の言葉と財布に入っていた20ユーロ札を渡しました。
マジノ線跡には、ストラスブールからの団体ツアーで行くべし (詳細は情報収集中、分かり次第、記事にアップいたします。また情報もお待ちしております。)
山の中にある記念碑(仏、ブリュィーエル)
「米軍日系人部隊VSナチスドイツの戦いがあった街 ブリュィエール編」でも紹介した、日系人部隊第442歩兵部連隊の記念碑は山奥にあります。
私は街の郊外にある山道を歩いてすぐに記念碑が見つかると思っていました(実際に街中の地図にもそのように記載されていました)。
しかし、10分、15分・・・と歩いても中々、記念碑が見えてこないのです。
しかも、私が訪れたのは雪が積もっている冬でした。雪道で行き交う人もいませんでした。道は真っ直ぐなので遭難する可能性は少ないにしろ、だんだん不安になって、一度下山して正確な情報を集めてから再チャレンジしようと思ったのです。
山道を引き返して麓の集落まで戻ると、ソリをして遊んでいる親子がいました。お父さんに記念碑までの道のりを聞いたら・・・
なんと片道45分くらいはかかるとのこと。
「車で送ってあげたいけど(実はそれを少し期待していた甘い考えの私)、この雪じゃ車を出すのは難しい。」
と言われました。
ちょっとがっかりしましたが、この道を真っ直ぐ行けば記念碑があることはわかりました。
時間を見ると、「14時半」、この時期のアルザス地方の日没は16時頃。
「片道45分なら、なんとか日没前になんとか帰ってこれるかな。」
再び往復してきた山道を行くことにしたのです。ひたすら同じ景色の山道・・・。
この日は大晦日(2014年)でした。日本時間ではちょうど年明けのカウントダウンが始まる直前です。
日本では、紅白歌合戦、初詣、SNS上では今年を振り返っている投稿が賑わい、家でゆっくり年越しを迎えていたりする時間。そんな時、自分はこんなフランスの雪山で何をやっているんだろうかと・・。
これで遭難して死んだらバカらしいな、いや自分らしい死に方だなと自虐的なことを考えながら、歩くこと約30分で記念碑に到着。
ついに求めていた目的地は、誰もいない雪に覆われた殺風景な記念碑が1つあるだけだったのです。それでも記念碑まで着けば、胸が一杯になるもので、夢中で雪をどかして写真撮影に必死になります。
日没までそんなに余裕がないのに、15分くらいはいたでしょうか。泣く泣く来た山道を戻り始めます。
それでも目的地まで到達してしまえば気が楽になるものです。帰りは雪がちらつき始めてきました。そんな中、記念碑に向かうおじさん1人とすれ違いましたが、人と出会えて安心したというより、ちょっと怖かったというのは本音です。それくらい人気がない山道だったのです。
往復1時間、1回目のチャレンジを合わせれば、合計1時間半も孤独に山道をさまよっていたことになります。
麓の村に戻ったら、行き方を教えてくれたお父さんがいました。
「記念碑見ることができたか?そうかよかったな、どこから来た?日本かよく来たな」
と、労ってくれてすぐ街中の喫茶店で温まりました。日没ギリギリでした。
日系人部隊第442歩兵部連隊の記念碑は、冬ではなく夏にハイキングしながら行くべし。
ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争シリーズでは、旅行記的な要素は省いていますが、 取材記事とは別に、旅行中のハプニングなどの小ネタも書いていく予定です。