1942年10月 北部の工業地帯が戦場に
9月27日、ドイツ軍はスターリングラード北部の工場地帯や、ソ連軍の司令室が置かれていたママエフの丘へ総攻撃を開始します。
北部へのアクセスはトラムが便利な工業地帯
ヴォルゴグラードの街は、レーニン大通りと並行してトラムが走っています。市街地では地下の中を走っていて、北部の工業地帯では地上を走っています。ママエフの丘など、北部に行く場合はトラムの利用が便利です。
乗り方は簡単です。切符は停留場ではなくトラムの中で購入します。トラムの中には、切符売りの青い制服を着た女性の車掌さんが必ず乗務しています。乗客が乗るたびに、車掌さんが1人1人声をかけてくれるので、そこで買えばいいシステムです。
料金は一律20ルーブル(約40円)。ちなみに市内を走るバスは一律10ルーブル(約20円)。
旧共産主義の国なので、公共交通機関の料金が安いのが、旅行者にはありがだいです。
トラムや地下鉄は、自動改札などがありません。他のヨーロッパの都市の駅の券売機で切符を買い、車掌さんの検札があった場合のみ、切符を提示する信用乗車システムではないのです。
しかし、車掌さんが各車両に必ず乗務しているにも関わらず、時々、私服の女性の職員が2人組で、検札するために抜き打ちで現れます。効率性を無視した人件費の無駄なシステムのような気もしますが、そこも旧共産主義の国らしいです。考え方によっては、国内の女性の雇用を促進するという意味では良いのかもしれません。無賃乗車の罰金は、500ルーブル(約1000円)です。
ソ連軍の司令部が置かれたママエフの丘
南部の商業地域と北部の工場群の中間地点にあるママエフの丘。ママエフの丘の標高は102メートル。14世紀にこの土地を支配していたタタール王の墓と言われています。
スターリングラードの戦いが始まり、ソ連軍の第62軍司令室は南部の商業地域にありましたが、第一停車場が陥落する寸前に、ママエフの丘に移動させます。
8月からドイツ軍の爆撃を受けていたママエフの丘は、周りは遮るものがありません。見晴らしが良いこの立地条件が両軍を苦しめさせるのです。
例えば、一時的にドイツ軍がママエフの丘を占領しても、保持するのが難しく、ヴォルガ川の東側のソ連陣地の歩兵部隊の集中砲火の対象となりました。反対にソ連軍が奪い返しても、今度はソ連兵がドイツ軍の急降下爆撃機シュツーカの餌食になったのです。
10月20日、ドイツ軍は手負いの傷を負いながらも、ママエフの丘を占領し、3ヶ月間支配します。
ヴォルガ川を背にして右側がヴォルゴグラードの北部になります。ママエフの丘へは、北部側方面の地上に出てから「ママエフクルガン」という4つ目の停留場で下車します。
トラムの停留場には駅名表示がないので、地上に出てから何駅目と覚えていた方が良いかもしれません。
駅を降りてレーニン大通りを渡り、階段を上るとポプラ並木の石畳の道となっています。駅前やママエフの丘に向かう途中には、飲み物やアイスを売っている売店がいくつかあります。夏のロシア南部は日本の夏以上に暑いので、冷たいものでも買っておくと良いでしょう。
石畳の道は、途中、列車の線路の上を通り、ヴォルゴグラード市街を見渡せます。
やがて見えてくるその池には、右手に手榴弾、左手に銃を持った「死守の像」が建っています。死守の像の表情は険しく固い決意がみなぎっているようです。
死守の像の後ろは階段になっていて、両側の崖は、スターリングラードで戦っているソ連兵士の姿が掘られています。階段を上がると長方形の池があり、線対称にソ連軍兵士の彫刻が飾られています。
ベルリンのソ連軍戦勝記念公園の作りと似ているのがわかります(詳しくは、1945年、独ソのベルリン最終決戦の跡地を散策 編)。共産主義の国の戦勝の記念碑というのは、線対称だったり、巨大な兵士の彫刻だったりすることが多く、訪れる者をビジュアルで圧倒させる感じがヒシヒシと伝わってくるのです。そして、戦いを描いた絵や彫刻には、スターリングラードの戦いやベルリン最終決戦には直接関係ないのに、ソ連の創始者レーニンの姿も描かれていたりします。
さらに抜けると、丘の中腹に建物の入口があります。そこが「戦没者慰霊堂」です。壁には英霊の名前がぎっしりと刻まれ、中央には永遠の炎が燃えています。永遠の炎の前には直立不動の衛兵がいて、毎時0時には衛兵の交代式が見られます。
戦没者慰霊堂を出て少し急な丘を上がっていくと、右手に剣を持った高さ51メートルの「母なる祖国像」がそびえたっています。母なる祖国像は、死守の像と違い、表情がどこかゆるやかで癒される感じです。
母なる祖国像の足元から、ヴォルゴグラードの街を見下ろすと、ヴォルガ川と挟んだソ連陣地だった東側も一望できて、軍事上重要拠点でもあり、敵に狙われやすい場所だったかがわかります。
母なる祖国像の隣には、教会もあり、新郎新婦や新生児が洗礼を浴びている姿も見られます。
ヴォルゴグラード市内ではあまり観光客の姿は見られませんが、ママエフの丘は国内外からの観光客で賑わっています。景観が良いので、丘に寝そべって一休みしている人たちの姿も多くみられます。
今でも現役で稼動するトラクター工場
10月14日、ドイツ軍はソ連兵が立て篭もる「トラクター工場」、「赤いバリケード工場」、「赤い10月」工場と、3つの北部の工場を襲います。
ママエフの丘からは、北部へ向かって、赤い10月工場、赤いバリケード工場、トラクター工場という順になりますが、実際の戦闘は、最北部のトラクター工場から火ぶたが切られます。時系列に沿ってトラクター工場から紹介します。
「ジェルジンスキー」トラクター工場は、ソ連軍の主力戦車「T-34」を生産していました。
他の工場同様、度重なるドイツ軍の爆撃によって、工場は破壊されていました。ソ連軍はその破壊された地形を利用して、要塞地帯に作り替え、ドイツ軍を向かい討ちます。
工場地帯での戦闘は、「ソ連軍の狙撃兵 vs ドイツ軍の突撃工兵」という図式になります。
ソ連軍は、建物の残骸に狙撃兵を配置して、下水道等を駆使してドイツ軍の後方へ周って狙撃するなど、ドイツ軍をかく乱させます。ドイツ軍の突撃工兵は、火炎放射などを使いながら、1件1件の建物を潰して、陣地をメートル単位で拡張していきました。爆薬と粉塵が舞う中での一進一退の白兵戦で、両軍の兵士は時間の感覚がなくなっていたと言われています。4日間の大接近戦の末、ドイツ軍が多大な損害を出しながらもかろうじて、トラクター工場を占領することができました。
トラクター工場の最寄り駅は、トラムの終着の停留場です。停留場を降りてそのまま真っ直ぐ進むと、巨大なショッピングモールが見えてきます。
そのショッピングモールの隣にあるのが、「ジェルジンスキートラクター工場」です。現在でも「ヴォルゴグラード・トラクター工場」として装甲車両の生産工場として創業しています。
ソ連の第2次五か年計画の一環として、建設が開始され1930年に創業を開始します。
入口の門には、操業開始した1930年の文字も記されています。独ソ戦で活躍したT-34戦車の記念碑も工場の前にはあります。
今、国内だけではなく、海外でも巨大ショッピングモールはトレンドになっています。 第1次世界大戦の最大の激戦地、フランスのヴェルダンの駅前もショッピングモールがありますし、アウシュビッツ強制収容所の前にもショッピングモールを建設する話が出たほど(さすがに反対の声が多くて建設は中止)です。
ショッピンググモールは戦争の激戦地だった街や、戦場の現場でも堂々とオープンしています。ジェルジンスキートラクター工場よりも、大きく派手な建物の隣接するショッピングモール。現代の家族連れの買い物客で賑わう商業施設とのギャップに戸惑ってしまいますが、悲惨な歴史があった場所も時代の波には逆らえないのを痛感します。
大砲を生産していた赤いバリケード工場
トラクター工場を陥落させると、10月21日、ドイツ軍は「赤いバリケード工場」と「赤い10月工場」に襲い掛かります。2日間の戦闘で、赤いバリケード工場は3分の2、赤い10月工場の大半がドイツ軍の手に落ちました。ソ連軍の組織系統はほぼ消滅しますが、各部隊が粘り強い抵抗を見せて、工場の一角を奪うのに、1日以上戦闘を交えることもありました。
赤いバリケード工場の最寄りは、トラクター工場がある終着駅から3つ目の駅が最寄り駅になります。
赤いバリケード工場は、大砲などを生産する工場でした。今でも工場として稼動しています。赤いバリケード工場の裏手の石油貯蔵庫にソ連軍の第62軍司令部も置かれていました。その近くには北船渡場もあり、中央船渡場がドイツ軍に奪われてからは、対岸からのソ連軍の補給路となっていました。
工場の入口前には、独ソ戦70周年を祝う広告もありました。
治金工場から武器工場になった赤い10月工場
赤い10月工場は、戦前は治金工場で、開戦後は銃兵器を製造する武器工場になります。赤い10月というのは、この工場群でのスターリングラードの戦いを称えて付けられた愛称です。トラムの駅名も「Plant Red October」となっています。ここも現代でも工場として稼動していて、鉄道の駅もあります。
戦闘の時系列順に紹介しましたが、実際のアクセスは、南側からママエフの丘を見学した後、赤い十月工場(ママエフの丘から4つ目の停留場)→赤いバリケード工場(赤い10月工場から3つめの停留場)→トラクター工場(終着駅)の順に訪れると良いと思います。
当然、3工場とも現代でも工場として稼動しているので、従業員以外は中に入ることができません。当時の戦いに想いを馳せながら、外から見学しましょう。
そして、ドイツ軍は、あとスターリングラードの9割を支配下にいれ、完全占領まであと一歩でした。しかし、戦いを決める焦点は別の場所に移っていたのです。