『日本の夜明けぜよ~』が日本の保険制度の夜明けとなった?
以前放送されていたテレビドラマ『JIN 仁』の中で、坂本竜馬が『生命保険』について話をするというシーンがありましたが、生命保険は幕末の混乱の中、坂本竜馬によって提唱されたものなのでしょうか?
日本の保険制度は坂本竜馬の発する『日本の夜明けぜよ~』という言葉と共に産声をあげたのでしょうか? 日本の保険制度は誰が提唱したのか歴史を紐解いてみましょう。
当初の生命保険は近代的生命保険とは、かけ離れていた。
日本の生命保険の誕生を探るのに先立ち、海外においての誕生をすると良いでしょう。
生命保険が産声をあげたのは1400年代とされています。場所はイタリアとされています。
その主な目的は奴隷達に対する海上保険としてかけられていました。今現在存在する近代的生命保険とは違い、あまりクリーンなイメージは抱きにくいものだったようです。
それから300年後イギリスにおいて別の形の生命保険が誕生しました。葬儀の代金をまかなうために牧師達が積立金をするという形で再登場しています。しかし、不興をかったためにすぐに幕を下ろす形にりました。
一体、生命保険は誰が誕生させたの?
海外では学者が生命保険のルーツとなった?
問題だらけの生命保険を再検討し始めたのは、なんと天文学者だったのです。この学者はハレー彗星の名付け親となった『エドモンド・ハリー』です。
彼は生命保険の基盤となる統計表を作りました。(現在の生命表となるものです。)
これにより、死亡率が断定しやすくなり、各年齢毎に支払う金額の人数と受け取る額の人数が計算しやすくなりました。
この死亡率によって保険料の差をつける制度ができました。
その後1762年イギリスにおいて『エクイタブル生命(The Equitable Life Assurance Society)』によって生命保険会社が設立されました。これは数学者の『ジェームズ・ドドソン』により設立されたものでした。
年齢の増加に比例する死亡率と保険料の増加をなくし、契約した期間で平均する『平準保険料』という方式を採用したものでした。
産業革命が起きるまで、生命保険は一部の富裕な人達のものであって、一般市民には受け入れられていませんでした。
産業革命後、労働者達の訴えにより生命保険は一般市民にも浸透していきました。
日本では一万円が生命保険のルーツとなった?
日本の生命保険は“一万円札”が産み出したという訳ではありません。
『天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず』と語った福沢諭吉(一万円に印刷されている人)が伝えました。1868年のことです。福沢諭吉は西洋での自身の経験を綴った『西洋旅案内』という書物の中で生命保険の事を語っています。
(それより5年くらい前にも福沢諭吉の門下生により保険会社は存在していたようなのですが、周囲からの誤解や反感が強く日本では受け入れにくかったようです。)
その後も福沢諭吉は保険制度について教え続けました。
その後の生命保険はというと、『戦前』は徴兵制度に伴う保険を扱い、被保険者が徴兵にいった際に支払いをするというものがありました。
『戦後』になると、今の保険スタイルの片鱗を徐々に見せ始めました。徴兵制度に伴う保険から定期保険特約付養老保険への鞍替えがされるようになりました。セールスレディの誕生もこの頃とされています。
歴史と共にシフトチェンジをしてきた生命保険
テレビドラマ『JIN 仁』の中では坂本竜馬が生命保険について語っていましたが、日本においての近代的生命保険は福沢諭吉がルーツだという事がわかりました。福沢諭吉が西洋で経験した事が日本の生命保険誕生の礎になったのでしょう。
生命保険の誕生には偉人と背景にあった歴史の動きが密接に関係しているという事がわかります。
さらに、生命保険は歴史にあわせて形態を変えてきているという事も理解できます。
海外においては、『奴隷達への制度~学者による論証~産業革命による需要』というシフトチェンジ。 日本においては、『明治~戦前~戦後~現在』と、激動の時期を潜り抜けてのシフトチェンジになっています。
一つの生命保険という大樹から何本もの枝がわかれ、私達の生活を加味した生命保険が誕生しています。今後も幾多の枝分かれをするか、さらなる新しい形態の生命保険が誕生するかはわかりません。
しかし、私達の生活スタイルの変化に伴って、生命保険も変化してきたという事実は変わることは無いでしょう。