ムッソリーニとは?
ファシズムの創始者はムッソリーニ
ベニート・ムッソリーニは、1883年7月29日に生まれました。ヒトラーよりも6歳年上になります。ファシズムという概念は、ヒトラーが作ったイメージが強いですが、実際にはイタリアを統一する為にムッソリーニが作り出したものなのです。
第1次世界大戦で戦勝国であるにも関らず、イタリアは領土拡大が認められず、国民の中で不満がくすぶっていました。それを利用して1919年にムッソリーニが創設した右翼政党ファシスト党が力をつけ始めます。1922年、イタリアのあらゆる層とあらゆる地域から軍隊を編成したムッソリーニ率いるファシストが、国王のいるローマへ向かいます(ローマ進軍)。国王、エマヌエル三世にファシストの一党独裁を認めさせます。
ヒトラーが、ドイツの首相になる11年前のことです。翌年の1923年ミュンヘン一揆は、ヒトラーがムッソリーニのローマ進軍を手本にしたとも言われています。
当時、ヒトラーはムッソリーニのことをファシズムの先輩として尊敬していて、写真入のサインをねだったことがありますが、ムッソリーニに拒絶されます。元々ゲルマン民族が歴史的に、ローマを脅かしてきました。決してドイツとイタリアは歴史的に見ても友好関係にあったわけではないのです。
実際にヒトラーも政権を取った頃は、ムッソリーニとオーストリアの帰属を巡って対立していたりします。しかし、1935年のイタリアのエチオピア侵略や、スペイン戦争のヒトラーと共同でのフランコ将軍側への支援によって、イタリアは国際的に孤立していきドイツと結びついていくことになります。
イタリア降伏後はヒトラーの操り人形
フランスが降伏寸前の1940年6月、ドイツの勝ち馬に乗って、イタリアはイギリス、フランスに宣戦布告して、第2次世界大戦に参戦。しかし、ムッソリーニは、ギリシャ、北アフリカなどに戦線を広げるも、各地で返り討ちに合い惨敗してしまいます。
1943年、北アフリカからシチリア島に連合軍が上陸すると、イタリア中に厭世気分が蔓延します。1943年7月、ローマでファシスト大評議会が開催され、ムッソリーニの統帥権が剥奪され、国王は首相にバドリオを任命します。
バドリオは、9月連合国軍に無条件降伏して、その後、かつての盟友ドイツに宣戦布告します。対するドイツもムッソリーニを救出して、北イタリアのサロにドイツの庇護下の元、ムッソリーニが首班のサロ共和国を建国します。ローマはドイツ軍のイタリア駐屯軍に占領され、南イタリアは連合国側のバドリオ政権、北イタリアには枢軸国側のムッソリーニ政権とイタリアは2分されてしまうのです。
イタリア各地ではドイツ軍やファシストのムッソリーニ政権に反抗するパルチザンが結成されます。その状態は終戦まで続くのでした。
ムッソリーニの生まれ故郷
どうやって行く?ムッソリーニの生まれ故郷
ムッソリーニが生まれた家と墓が、ムッソリーニの故郷、ブレタッピオ村(PREDAPPIO)に今でも残っています。
ブレタッピオ村(PREDAPPIO)は、北イタリアのエミリア・ロマーニャ州にあります。ボローニャから列車で約1時間弱のフォルリ(FORLI)という街からバスで行きます。ボローニャへは高速列車FRECCIAROSSAでフィレンツェから約35分、ミラノから約1時間10分かかります。
フォルリの街の中心部は駅から少し歩きますが、ブレタッピオ村へ行くバスは、駅前の左側の停留所から出ています(バス路線番号は、LINEA 96A)。1時間に1本ほどあり、片道2.1ユーロ、所要30分弱です。切符は停留所奥のバスセンターで販売しています。バスに乗ったら必ず切符に刻印をするのを忘れずにしましょう。抜き打ちで検札官が乗って来て、切符不所持、刻印忘れの場合は罰金を取られてしまいます。
バスがフォルリの街の中心部を抜けると、しばらくは閑静な住宅街を通りますが、プレダッピオ村に近づくにつれて、田園風景になっていきます。
プレダッピオ村には2つのバス停がありますが、終点の「PREDAPPIO CIMITERO」まで行きましょう。バス停名にあるCIMETEROはイタリア語で墓地という意味です。その名の通り、バス停は墓地の前にあります。その墓地にムッソリーニの墓があるのです。
ムッソリーニの墓
バス停の目の前に墓地の入口があります。近隣付近の住民の墓地ですが、一番奥の建物の中にムッソリーニの墓があります。
建物に入り階段を降りていくと、地下部屋になっていて、そこにムッソリーニの遺体が安置されているのです。遺体が安置されている前にある台の上には、イタリア国旗が敷かれてその上に訪問者の記帳ノートがあります。
毎日、イタリア中から参拝者が訪問してくるのがわかります。献花も絶えない様子で、出口の階段には、崇拝者から送られたムッソリーニを称えるプレートがたくさん飾られています。
ムッソリーニ一色のプレダッピオ村
墓地を出たら、バスで来た道を戻ります。ムッソリーニの家があるプレダッピ村に向かいます。村の中心部まで墓地から歩いて15分弱くらいかかります。途中まで歩道が狭いので、車に気をつけて歩きましょう。歩いていると「PREDAPPIO」という看板が見えてきます。墓地は正確にはプレダッピオ村の隣街にあるということになります。
村の中心部に入ると、まず「PIZZA S.ATTONIO」という広場に着きます。ここにもバス停があり、帰りはこのバス停からフォルリに戻ると良いでしょう。広場には1937年のファシスト時代に建てられた建物もあります。旧共産主義的国にあるような威圧的な雰囲気のある建物ですが、現在は閉鎖されているようで人気がなく不気味なたたずまいです。
プレダッピオ村は、長い一本道がメインストリートになっており、両側にお店などがあります。メインストリートを歩いていると、看板に開催されている新聞はムッソリーニの記事になっていたり、お土産屋さんも何軒かあるのですが、全てミリタリーショップ風のムッソリーニを中心としたファシズムショップとなっています。
タブー?ファシズムショップ
ファシズムショップの1つ、後で紹介するムッソリーニの生家と「PIZZA S.ATTONIO」の間にあるお店を紹介します。
店の名は「PREDAPPIO TRICOLORE SOUVENIR」。お店のパンフレットには、店主が右手を斜めに挙げたファシストの敬礼をしています。若い時の写真もあるので筋金入りのファシスト信者なのかもしれません。中はムッソリーニグッズがたくさんあります。
カレンダー、Tシャツ、カップ、ワイン、トランクス、キーホルダー、Tシャツ・・・・
ヨーロッパの戦勝国の観光地や博物館では、このようなグッズはたくさんありますが、ムッソリーニと同盟を結んで戦ったドイツでは、当然ですがヒトラーグッズ、ナチスグッズなどは絶対にありません。
しかし、このお店にはナチスの鉤十字、親衛隊のマーク、ヒトラーマグカップなども置いてあるのです。
ドイツを初めヨーロッパでは、ファシズムを連想させることはタブーとされていますが、 実はプレダッピオ村ではその常識が通じないのです。なにせ店主がパンフレットで右手を斜め前に挙げて敬礼しているのですから・・・。
プレダッピオ村に取材に行く直前にも、日本国内で、Jリーグのあるチームのサポーターが、ナチスの親衛隊のマークに似たフラッグを掲げたことが社会的な問題になっていました。
しかし、ここプレダッピオ村では、ナチスの親衛隊のマークのカップも堂々と販売されているのです。
ムッソリーニの生家
ムッソリーニショップの更に進むと、「PIZZA G.GARIBADI」という広場に着きます。 メインストリートから見て、この広場の右横から延びている坂道(VIA VARANO COSTA)を登ると、ムッソリーニの生家が見えてきます。しかも「CASA BENITO MUSSOLINI」と生家の場所を示す案内表示もあるのです。現在、ムッソリーニの生家は空家となっているようです。
厳密に言うと、ムッソリーニが実際に産まれた家は、プレダッピオ村から少し離れた場所にあり、建物自体はありません。この家は、ムッソリーニが幼少期を過ごした家という方が正しいです。
「ヒトラーの足跡を辿ってみるオーストリアの旅 少年時代編」でオーストリアのブラウナウにあるヒトラーの生家を紹介しました。
ブラウナウにあるヒトラーの生家、ブレタッピオにあるムッソリーニの生家、共通するのは、田舎町の中心部にあるということです。
ヒトラーの父親は王室税関史、ムッソリーニの父親は鍛冶屋でした。鍛冶屋とはいえ社会主義運動にも参加して、プレダッピオ村をコミューン化しようとした政治屋でもありました。2人の独裁者の父親は共にその街の名士ということになります。
そのため、彼らの生家が街の中心にあるということは、それなりに良い暮らしをしていたことがわかります。ヒトラーもムッソリーニも幼少期はお金に不自由していたわけではありません。
しかし、彼らは自分が社会の中で生きていく上で世の中に矛盾を感じていくことになるのです。