こんにちは!ミュージカルファン歴25年かつ、その昔X JAPAN・HIDEの葬儀のために築地本願寺へ駆けつけたライターの吉永です!
突然ですが、ミュージカルと聞いて、どんなイメージを持ちますか? なんだか敷居が高そう、突然歌ったり踊ったりして気持ち悪い。ミュージカルを見たことがない人が言う代表的な感想です。
でもちょっと待って!普段の生活で楽しいことがあったとき、無意識のうちに鼻歌を歌っていませんか?うれしいとき、スキップ気味に歩いていませんか? そうなんです。私たちの生活自体が、意外にミュージカル! 実はとっても身近な存在なのです。
ええ、強引ですね。
いいから、一度は見てみろってことです。頼みますから。
そんなミュージカルファンの私が、現在、日本一の頻度でオリジナルミュージカルの脚本を執筆していると言われている「まきりかさん」にインタビューできることになりました。
まきりかさんが、どんな人で、どんな経緯で多産脚本家となったのか?メディアサロン(当サイト)の運営者である早瀬(ミュージカル初心者)と一緒に聞いてきました。
1969年生まれ。札幌市出身。
金沢大学法学部卒業後、株式会社ハドソン入社。「桃太郎電鉄」など音楽クリエーターとして活躍。 その後「WAY OUT」で、ミュージカル作家としてデビュー。
「KACHIBUS」「DAICHI」「O.G.」など、数々のオリジナルミュージカルを発表。 2016年12月には新作「SNOW MANGO」が上演される。
株式会社ユアストーリー代表取締役。
早速ですが、先月上演されたミュージカル「O.G」。素晴らしかったですね。
とても楽しく拝見しました。
ありがとうございます。
2016年7月22日~8月3日 新宿・シアターミラクル
<キャスト>
旺なつき 阿知波悟美
<ストーリー>
閉店まであと1週間となった、昭和の香り漂うキャバレー「ミラクル」を舞台に長年店で歌い続けてきたスミ子(旺なつき)とカズエ(阿知波悟美)が互いの人生を語り合う。場末の歌手としての人生が終わろうとしていたその時、ふたりに「ミラクル」が起こる!
ベテラン女優、阿知波悟美さんと、元宝塚男役スター、旺なつきさんの二人ミュージカル。夢のような空間でしたが、どんな経緯で実現したんですか?
実は8年前のミュージカル「ジェーン・エア」で阿知波さんと旺さんが共演されたときに「いつか二人で舞台をやりたいね」と話をしていらしたそうなんです。実際に具体的な構想をいろんな方に話していらして。
2014年に上演された私のミュージカル「KACHIBUS」に、阿知波さんがお局バスガイド役で出演して下さった際にとても可愛がっていただき、毎日のように下北沢で飲んでいたんです。そのときに居酒屋で、阿知波さんからこの話を聞いて「実現したら脚本を書いてね」と言われていました。
そういう偶然のきっかけがあったんですね。
でも飲み会の席だし、正式なオファーでもないし。その時は大好きな女優さん、阿知波さんからオファーをいただいて「うれしい!」という気持ちだけでしたね。その後2015年の「DAICHI」をきっかけに、会社として作品をたくさん作っていこうということになりまして、そういえばあのときの話ってどうなったんだろうと阿知波さんに連絡しました。
今度は、まきさんから積極的に阿知波さんにコンタクトをとったんですね。
はい。それで「あの時の話は具体的に動いていますか?」とお聞きして、話が進んでいないとのことだったので、私がやります!と。そうしたら、じゃあ居酒屋に集合だ!となりまして(笑)。数々の居酒屋ミーティングを経て実現した作品なんです。
居酒屋がなければ、生まれなかった「O.G.」なんですね~(笑)。
通常、上演作品の企画は、こんなに少人数で立ち上がるものなんですか?
めったにないことですね。通常は、たくさんの人が関わって企画が進んでいきますから。こんなに「やりたい」「やろう」というストレートな思いとタイミングで立ち上がるのは珍しいです。すごいスピードでしたね。
4月に再演された「DAICHI」も拝見させていただきましたが、「DAICHI」と「O.G.」って、全くテイストが違う作品だなと思いました。どうやって作品の構想を考えていますか?
実在の人物がいて、その人の生きざまの群像劇をずっとやってきました。人生ってうまくいかないことも多いですよね。
だから時には重い内容になってしまうこともあります。でも、舞台の上に生きている人に自分を投影して、見ている人が前向きな気持ちになってもらいたいというのが、一貫している思いです。
私は「DAICHI」も「O.G.」もそんなにテイストが違う作品だとは思っていません。よく「あなたの作品は、人生賛歌だね」と言われるゆえんかもしれません。
ミュージカル「DAICHI」
2016年4月24日~4月29日 キンケロシアター
<キャスト>
五十嵐 可絵 内藤 大希(Wキャスト) 花田 雄一郎(Wキャスト)他
<ストーリー>
農家の娘として生まれた早苗は、夫とともに農業を継いだものの、経営方針をめぐり両親と対立。夫ともギクシャクしてしまう。そんな早苗に身を引き裂かれるような悲しい出来事が起こる。悲しみからどのように早苗とその家族は立ち直ったのか。北海道・洞爺湖のほとりに実在する「佐々木ファーム」に起こった奇跡の物語をミュージカル化。
ところで、まきさんのご経歴ですが、金沢大学の法学部ご卒業後、ゲームクリエーターになられたとのことで、とても異色な感じがしました。
あー、そうですよね(笑)。特に深い意味はないんですよ。実は私、3歳からピアノを習っていて、いわゆる絶対音感がありました。当時の先生がすごく力を入れて下さって「この子を音大に入れる!」と通常は1時間のレッスンなのに、2時間半ぐらい教えてくださいました。
・吉永:え~~!!
どういう気持ちで、そのレッスンを受けていましたか?
小さい頃から当たり前のようにやってきたので、これが普通かなと(笑)。その頃から、テレビで見ていた歌謡曲を耳コピーして、ピアノで弾いたりしていました。小学2、3年生になると、ピンクレディーの曲を完全にコピーして弾いていましたね。
すごい!
小学4年生ぐらいから、聴音など、音大の受験問題をこなしていました。
褒められながら、気分良くピアノを続けていたんですね。
でも中学2年生のときに「あれ?」って思って。
え!どうしてあれ?って思っちゃったんですか?
今のところ、エリートコースまっしぐらなんですけど(笑)。
思春期ですからね。「誰が音大に行かせてくれって頼んだ」という気持ちが芽生えて、親に反発しちゃったんです(笑)。
精神的にグレちゃったんですね~。「中2の反乱」(笑)。
私は音大なんかへ行かない、別に頼んでないと言ったら、先生が「私はもう教えられません」と言い出したので、じゃあピアノをやめると(笑)。
そこでピアノに、いったん一区切りをつけたのですか?
はい。高校も大学も特に音楽はやらなかったですから。バンド活動もしませんでしたし。
音楽活動をなさっていなかったんですか。
でも、大学時代に一人暮らしをしていたのですが、その時にカシオのキーボードだけは家にありました。
音楽を完全に拒絶したわけではなく、つかず離れずの存在だったんですね。
そうですね。好きだけど、音楽で何かをしようとは思っていませんでした。いよいよ就職活動という時期になって、将来どうなりたいという思いもなく、早い時期にたくさん企業から内定をもらっていました。私の世代っていわゆる売り手市場で、受けたところは内定がもらえるという感じでしたから。
いわゆるバブル期のジュリアナ→OLコースですね。
(笑)そうですね。そこで記念受験のつもりで、地元・札幌市に本社があるハドソンを受けてみました。ゲームもやったことがないし、パソコンも持っていないのに。
募集要項を見てみたら、デザイナー、営業、サウンドで募集が出ていました。絵は描けない、営業ってなんだかよくわからない。サウンドならできるかもしれないと応募しました。すると、デモテープを送ってくださいと連絡があり、そんなの作ったことがなく「デモテープってどうやって作るんですか」って逆に質問しちゃったんですよ。
勇気ある質問ですね(笑)。それに対して、人事の方の反応はどうでした?
質問したのが後の上司になる人でしたけど、ゲームなので、麻雀だったら中国風に、ダンジョンだったらエジプト風に…というように色々な民族音楽のテイストを要求されることと、15秒ぐらいの短いものと、2分ぐらいの長いものを混ぜて20曲ぐらい送ってくれたらいいですねと説明してくれました。
人事の人、上司の方優しいですね~。
あとから聞いたら、その時にゲーム音楽の作曲コンテストで優勝や入賞している人などが800人近く応募していたそうです。国立の法学部出身で、何も実績がない私を「なんだろう、この人」って思ったんでしょうね。800人近い応募者の中で、悪目立ちしたのだと思います(笑)。とりあえずデモテープは、自宅のキーボードを使って、1時間で作りました。
たった1時間で?それは、すぐに浮かんだんですか?
子どもの頃からやっていたことですからね、適当に弾くことは。中華風ってこんなの?とか、ダンジョンってこんなの?最後泣けるシーンはこう?みたいな感じで。
やっぱり小さい頃のことって、覚えているものですね。
それをカセットテープに録音して、そのまま送りました。そりゃあ、目立ちますよね(笑)。
そもそも、上司に言われた応募のアドバイス、全然守ってないじゃないですか(笑)。
結果、任天堂のコンテストに入賞した人と私の2人が採用になりました。
すごいですね~~。でも、まきさんを採用した上司の先見の明もすごい(笑)。
当時のハドソンは勢いがありましたから、面白い人材を採用したいということだったんでしょう。入社してからデモテープのことは、ずっと言われ続けました(笑)。
お前はおかしかったと(笑)。まさに「異端児」ですね。
せっかく受かったから行ってみようと思い、入社しました。パソコンの使い方を始めとして、一から十まで教えてもらいました。最初の仕事が、シリーズ2作目の桃太郎電鉄でした。PCエンジン、スーパーファミコン、ゲームボーイぐらいまで関わりました。
作曲がサザンオールスターズの関口和之さんだったのですが、関口さんはベーシストなので、ベースでデモテープがくるんです。そこにプロデューサーのさくまあきらさんから「ウルトラマン風に」とか「スターウォーズ風に」という指示のメモがあったりして。それをもとに、曲を作っていましたね。
一度は「音楽なんてやらない!」と離れたのに、仕事になって楽しかったですか?
すごく楽しかったです。桃太郎電鉄は他の方が作曲でしたけど、他はほとんどイチから作曲を担当しました。1年半で辞めるまでに、10本ほど作りました。
かなり密度の濃い1年半ですね。
そうですね。社会のことが何もわからず入社して、ただ音楽を作っているだけでしたけど、楽しかったですね。
音楽の仕事とはいえ、ミュージカルとは程遠いですが、なぜそこからミュージカル作家になられたんですか?
ミュージカル作家に行きつくまでに、まだまだ遠いですよ(笑)
まだ遠い!(笑)。
実はハドソンに入社して1年半ぐらいたったころ、ちょっと疑問に思ってしまったんですよね。音楽ばかり作っていて、あまりにも世の中を知らなすぎるなと。
あれ?「中2の乱」再び…ですか。
そうなんですよ(笑)。転職するなら今かもしれないって。音楽ばかり作っていると、他のことが何もできなくなるかもしれないと不安になったんですね。もっと世の中を知りたいと思い、地元の札幌で転職先を探し始めました。その時、当時急成長していたベンチャー・リンクという会社を見つけました。
どういう会社ですか?
平たく言うと、フランチャイズ店をたくさん作ってコンサルティングをする会社です。
どういう立場で入社されたのですか?
企画、広報、編集の仕事をしていました。ここでも面接のときに「どうして音楽をやっていた人が応募したの?」と言われましたね。でも面白そうだからと、本社で採用していただけることになりました。こういうラッキーは、ちょいちょいあるんですよ(笑)。
また異端児→面白い路線ですね(笑)。
はい(笑)。札幌にいるつもりだったのが、東京の本社へと行けと言われて「それなら行ってみようかな~」と思うところは、案外フットワークは軽いのかなって思います。
それはすごく感じますよ。
そこの会社は、例えば夕方の会議で決まったことを、その日のうちに提案書にして、翌朝から全国へ出かけて行くというスピード感がありました。ベンチャー企業ですから。私は営業部に籍を置いて、営業の方が持っていく書類や話す内容を書く仕事をしていました。当時は1年にだいたい10個ぐらい新規事業の立ち上げをしていました。
また密度の濃いお仕事ですね。
私が関わったのは、サンマルク、牛角、車のガリバーの全国展開でした。例えば牛角は、三軒茶屋の焼肉屋さんでしたが、2年で700店舗にしました。どういう手法をとっていたかというと、全国各地で経営者向けのセミナーを開催したんです。セミナーで話す内容の原稿を書いたりもしました。「いかに牛角が魅力的なビジネスか」というような内容で。広報誌も出していたので、最終的には編集長もやりました。
音楽からまた遠ざかってしまいましたね。
ミュージカルからもさらに遠ざかって…。どうやって近づいていくんでしょうか?
実は会社の企業理念が「起業家輩出」だったんです。上司と毎年個人面談があって、あなたは3年後、5年後、25年後どうなりたいか、そのためにこの会社で何をしたいのか、してきたのかということを問われていました。当時は起業したいという思いはなかったのですが、とりあえず何かやりますと宣言しなければいけない状況になりまして…。じゃあ私、音楽で起業しますと言っちゃったんですよ。
あー、そういうことですか。
それで当時の上司が、そうするには何をしなければいけないんだと言ってきたので、編曲をするときのDTMの知識は日進月歩だから、学校に通いたいですって言いました。そうしたら学費は自腹でしたけど、平日の昼間、就業時間内に学校に通わせてくれたんです。
えー、ラッキーですね。
通っていた学校の先生がプロのミュージシャンで、しばらくして私が実はプロだということが分かり「じゃあ仕事を手伝って」という話になって。それで週末起業をして、CMやゲームの音楽を作ることを細々とやっていたんです。
最初は副業で始まったんですか。それにしても、チャンスにきちんと乗りますね。
きっかけは軽いノリですけど、しっかり仕事をされるし。
でもその時は「私、何をやってるんだろう」とか「どこへ行ってしまうんだろう」という気持ちはありましたよ。
28歳で結婚をしたのをきっかけに会社を退職しました。それからフリーで、ビジネス系の雑誌のライティングや編集をしたり、CMやゲームの音楽を作ったりしました。31歳で出産をした頃、まわりから文章や曲も書けるなら、作詞もできるんじゃないかと言われ、J-POPの作詞をやりました
どなたの作品ですか?
当時はCDがとても売れる時代で、誰かが1曲出すために50曲ぐらい仮の歌を作るんです。その仮の詩を作るという、下請けのまた下請けのような仕事でした。詩を書いたものの、FAXで送った後どうなったかよく分からない状態で、忘れた頃にまわりから「あのCDに入っているらしいよ」と言われるありさまで。
いいかげん…といっては言葉が悪いですが、ずいぶんアバウトですね。
努力をしても、その方向性が見えないということもあり、私にはメジャーレーベルの世界は向いていないのかなと思いました。この時期、生後3カ月の息子とソニーの幼児教室に入ったんです。ソニーの井深大さんが書いた「幼稚園では遅すぎる」という本に感銘を受けました。
これがすごく楽しくてはまってしまいました。これをきっかけに、赤ちゃんの能力について興味を持ち始めました。私自身もどうして絶対音感が身についたのか分からなくて、ずっと疑問を持っていましたから。そこで、まずリトミックの指導資格を取りました。その後ソニー教育財団幼児開発協会の指導者資格も取得しました。
じゃあ自分で何かやってみようと「0歳からの音楽教室」というのを門前仲町に開校したんです。私は音大出身ではないので「作曲家がやっている音楽教室」「0歳からの音感教室」というのを前面に出して、ピアノを教える先生は別に採用し、子どもたちに月1回、私が作曲を教えました。そうしたら5歳以上の全員が作曲できるようになったんです。
作曲って教わってできるものなんですか。
私が小さい頃からやってきたことを、ソニーの理論とかリトミックの要素は入っているものの、完全にオリジナルでメソッド化して教えたら、落書き帳に絵を書く感覚で曲を作る子どもたちが育ったわけです。
そうなってくると、問題はピアノです。ピアノは、ある程度型にはまったレッスンを根気よくやる必要がありますから、ピアノに向かない子どもが育ってしまったんですね(笑)。
あー、そうなっちゃいますか(笑)。
クリエーティブになりすぎてしまって。こんな風なので、例えばピアノの発表会にしても、お決まりの発表会は、何も面白くないだろうと考えました。個性が発揮できませんから。
決まった曲を1曲弾いて終わり…となると、確かにそうですよね。
音大に行かないなら音楽はやめるということではなくて、音楽を一生楽しんで欲しいと思って始めたことなので。そこで考えたのが、第1部は普通のピアノの発表会をやり、第2部は子どもたちに短いオペレッタをやるのはどうかなと。歌や踊りやお芝居で、個性を発揮することができますからね。その舞台がとても評判が良かったんです。これを専門のスクールにしたらいいよとアドバイスを受けたので、ピアノの先生と生徒を分けて、新たに「東京ミュージカルキッズ」を設立しました。お稽古としてミュージカルを習うというのは、当時日本で初めての試みだったと思います。
以前の会社での宣言どおり、本当に音楽で起業しちゃいましたね。
有言実行だ~。
社会人経験を通して得た知識が役に立ちましたね。
あっち行ったりこっち行ったりしてきたけれど、それまでの経験が融合して、1本の道ができたような気がしました。「すべてに無駄はなかったな」と。
それぞれ密度の濃い道が1本になったわけですから、ものすごい力になりましたね。
最終的に上手くいったので良かったですが、どうにもならなかったら思うと…(笑)。
常に与えられたポジションで、全力投球してきたからでしょうね。真面目だと思いますよ。
そうやって言っていただけることは、少ないですけど(笑)。
作家になったきっかけは、スクールで子どもたちの舞台を作り始めたからですね。
私自身もミュージカルのことを勉強して、演技、歌、ダンス、それぞれにプロの指導が必要だと考え、また、発表の場が必要だと思いました。スタッフもプロをそろえ、客演でプロの役者を呼んで、素人は子どもたちだけという構成で、チケットを有料で売り公演しました。プロの子役に比べると下手ですが、その分生き生きと楽しくやっていることが、他にはないテイストだったと思います。そんな時「スコア!」という子役のための作品を書き、すごく面白いと言っていただきました。これをプロの子役を使って上演しようという話になり、実現したのが2012年です。ここで子役のオーディションを初めてやりました。
ようやくミュージカルの世界に入ってきましたね。
ここまで5~6年、子どものスクールをやってきましたが、別に子どもの教育をやりたいと思っていたわけではなかったんです。そこに違和感を感じるようになって…。
また第3の「中2の乱」が…(笑)。
「私違うんじゃないか」が出てきましたね(笑)。
いつも急にやさぐれるんですよ(笑)。「人間的に暖かい先生」みたいに言わるのが、むずがゆくて仕方がなくて。作品もハートフルなものを書いていて、それは私の中から出てきているものですから正しいのですが、そもそも高尚なことを考えて始めたことではなかったですから。「子どものことをやっている人」というイメージが、嫌で嫌でしょうがなかったんです。
実際には、どんな子どもでもかわいい!というわけには、いかないでしょうしね。
正直、すべての子どもが好きというわけではなく、自分が関わった子どもだけに愛着がわく、完全なえこひいき型でしたから(笑)。「子育てキャラ」から脱出したかったんです。当時、女性企業家としてメディアに出たこともありましたけど、やっぱり「育児も仕事も」みたいな感じイメージでとらえられていて。
あまり言われ過ぎると、うんざりしてしまいますよね。
そうなんですよ。私自身は希望していないのに、暖かいイメージで見られるのがちょっと…。イメージを変えたくて「スコア!」とは違うものをやりたいと「WAYOUT」を上演することにしました。シアターグリーンBigTreeを2週間借りて、最初の1週間を「WAYOUT」、次の1週間で「スコア!」をやったんです。2012年10月のことです。
「スコア!」と「WAYOUT」は、真逆ですよね。子どもの話とサラリーマンの話で。
自分がやりたいものといえば、ビジネス経験を生かしたものかなと思いました。この時は企画から、作詞、作曲、上演台本、プロデュースを手掛けました。この2本を見に来てくださった人たちの中に業界の方もたくさんいて、その後「KACHIBUS」や「新幹線おそうじの天使たち」をやらせてもらい、ミュージカル作家として出発のきっかけになりました。
この2作品をきっかけに、人脈が広がったわけですね。
当時は「あいつは誰だ!劇団四季にもいなかったし、小劇場にもいなかった」って思われていました。
ミュージカルの世界は、役者をやっていた人が脚本を書いたりプロデュースしたり…というのが多いですからね。ここでも「誰だ、誰だ」って異端児扱い(笑)。
そうです。「あの「まきりか」4文字なんだ!って」(笑)
4文字!(笑)
計算して異端児になっているわけではないですけど、私ってそういう感じなんだなと47歳にして自覚しました。
最初は何も分からないまま、手探りでプロデュースをして、とても大変でしたけど、私の舞台を望んでくれる人がいるならやってみようと。その時に頑張ったおかげで今があります。
それで現在に至るということですね。
まだ4年ですけどね。
4年にしては、たくさんの作品を生み出していますね。
実は「今、日本で一番ミュージカルを書いている作家」と言われていますから。
<キャスト>
福井晶一 野田久美子 高橋卓士 多岐川装子 三戸大久 他
年末には、新作「SNOW MANGO」が上演されます。どんな内容の作品ですか?
「KACHIBUS」「DAICHI」に続く北海道3部作の締めを飾る作品で、北海道の十勝でマンゴーを作っている人の話です。マンゴーといえば宮崎の名産「太陽のたまご」が頭に浮かびますが、実はフルーツって12月に出荷すると高く売れるそうなんです。でも宮崎は冬が暖かすぎて、それができないんですね。北海道ならできるかもしれないと、宮崎の方の協力を得て、苗木を提供してもらい、実現しました。でも南国のマンゴーを北海道で作るって言われても、最初は頭がおかしいって思われてしまいますよね。
そうですね。確かに「ん?できるの?」って思いますね。
冬の間に雪を地中にためて、それを溶かしながら夏は冷やし、十勝地方では、てんぷら油を回収しているので、それを使って冬は温める方法をとりました。それに十勝は日本でも日照時間がものすごく長いんですよ。1年の4分の3は晴れるので。
え!そうなんですか。雪国のイメージがある北海道なのに意外ですね。
確かに真冬はマイナス30度まで下がる時がありますけど、それでも晴れるので、ビニールハウスにすれば、冬でもポカポカです。北海道でそれだけ日照時間が長いところはないので結果的に成功しました。「白銀の太陽」は、初値5万円がついたんです。
5万!
今では「太陽のたまご」より糖度が高いものができて、うまくいっています。それで、この話をミュージカルにしないかと話がきたわけです。
こういう実話があるからどうですかという意味で?
そうですね。ただ、確かに面白い話だけど、ミュージカルになるかなあと最初は思いました。そこで子役を大勢起用して、実話とファンタジーを融合させた作品にしようと思っています。雪の恵みや太陽の光の恵み、土地の恵み、そこに生きる人たちの営みすべてが宇宙の一部なのだと。
素敵な作品になりそうですね。すごく楽しみです。
演劇界の通常ルートとは違う方法で入ってきたので、大変なことがあったのではないですか?
はい。とまどいはありました。日本では演劇はビジネスとしてやっていくのは非常に難しいです。ある程度の規模にならないと利益を出しにくい。だから私は今、数をこなして、来年の夏までは新作を上演しようと思っています。その後ロサンゼルス公演を実現させ、ブロードウェー進出を目指しています。そこまでやって国内でどういう評価を受けるかが、ひとつの目安になるかなと思います。最終的には、海外で上演した作品を日本に逆輸入できるものを作れたらいいなと。それができた人は、日本にはまだいませんから。
期待しています!
でも正直言うと、実はそんなに先のことまで考えていないんですよ。子育てから解放されて、自分に余裕がでてきたら、あと1回や2回、転機があるかもって思っています(笑)。
webライター、演劇ライター
ミュージカルを中心に、さまざまな舞台観劇をすること25年。
観劇のために全国各地を飛び回り、東京⇔大阪日帰りもいといません。
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