決して一枚岩ではなかったフランスのレジスタンス
1940年6月、フランスがドイツと休戦条約を結び、パリはドイツ軍の軍靴に踏みにじられます。しかし、パリに入城したドイツ軍は規律が正しく、市民に対しても丁寧に振舞ったので、最初はドイツ軍を恐れおののいていたパリ市民も安堵します。その一方、ドイツはフランスを属国と位置づけ、食料を始めとした物資を徴発していき、パリ市民の生活は苦しくなっていきました。
当初は、ロンドンへ亡命したシャルル・ド・ゴールを首班とした「自由フランス」による徹底抗戦への呼びかけにも、あまり反応することがなかったパリ市民。しかし、徐々に反独感情が強まります。
フランス国内には、ドイツや傀儡政権の「ヴィシーフランス」に対して、レジスタンス(対独抵抗運動家)活動をする団体がいくつも誕生。しかし、「2つの政権に分かれていた第二次世界大戦中のフランス」編でも紹介した通り、フランス国内は様々な政治思想が渦巻いている時代だったため、レジスタンス内でも対立がありました。そのため、一丸となってドイツに立ち向かうことはできませんでした。
次に、パリのレジスタンスの痕跡を紹介します。
凱旋門の近くにあるレジスタンスの受難の地
レジスタンス活動は、死と隣り合わせの大変危険なものでした。
パリにドイツ軍の兵士が入城すると共に、ドイツ本国からは、ドイツに対して反抗する不穏分子を摘発するために、ナチスの親衛隊の指揮下にあったゲシュタポ(秘密警察)も入ってきました。
ゲシュタポは、レジスタンスを捕まえたら、最初は丁寧に扱い、ドイツ側のスパイに寝返るように促します。しかし、それを拒否されると一転、徹底的な拷問で痛めつけるという手口でした。それによって虐殺されたレジスタンスがいる一方、ドイツ側に寝返るレジスタンスもたくさんいました。
数ある拷問の中でも常用の手口に「浴槽の刑」というものがありました。
膝と手を縄で縛り、浴槽の冷水に頭から漬け込んで、気絶するまで抑えておきます。意識が戻り水を吐くまで、顔面を何度も殴打するといった拷問を、何度も繰り返したのでした。
観光客で賑わうシャンゼリゼ通りと凱旋門の周辺には、レジスタンスが拷問を受けた建物がいくつか残っています。
高級住宅街のゲシュタポの拷問施設
パリで最も恐れられていたダネッカーというゲシュタポがいました。凱旋門から放射状に延びる道の中で、各国の大使館などが置かれる閑静な高級住宅街であるフォッシュ通りに、ダネッカーが拷問に使った建物がありました。
凱旋門から見て、フォッシュ通り(Avenue Fosh)の左側、31番地にありましたが、住所の番地まで赴いていたら、当時の建物は残っていないようでした。
ダネッカーの拷問施設
住所:Avenue Fosh 31
住宅密集地のゲシュタポの拷問施設
ダネッカーの拷問施設から更にフォッシュ通りを進むと左側に伸びるポンプ通り(Rue de la Pomp)があります。ポンプ通りには、「ポンプ街のゲシュタポ」といわれたフリートリヒ・ベルガーの拷問施設がありました。こちらは当時の建物がそのまま残っています。
ポンプ通りは、高級住宅街だったフォッシュ通りから一変、下町風の住宅や商店が立ち並んでいます。
ベルガーが拷問に使った建物は、フォッシュ通りからポンプ通りに入り、最初の左側に伸びる道(ラステリー通り Ru de lasteyrie)との角にあります(180番地)。現在はアパートとして使われているこの建物の2階に、ベルガーは部屋を借りていました。
ゲシュタポの中でも、ベルガーは拷問方法が残忍で、他の機関と比べても死者数が多く、拷問されたレジスタンスの悲鳴がポンプ通りに聞こえたそうです。確かに建物が密集しているポンプ通りを歩くと、周囲の建物には悲鳴が聞こえてきてもおかしくないと感じます。
残忍極まりないゲシュタポの拷問で、裏切ってドイツ側に寝返るレジスタンスも後が絶ちませんでした。彼らはスパイとして、レジスタンスの情報をゲシュタポに密告します。それによってレジスタンスの活動も一網打尽にされることもありました。
ベルガーの拷問施設
住所:ue de la Pomp 180
レジスタンスの大物が逮捕された地下鉄駅
ゲシュタポの拷問施設があったポンプ通りを更に歩くと、ドイツ側に寝返ったレジスタンスの裏切りによって、レジスタンスの大物が芋づる式に捕まるきっかけとなった場所があります。それは2つの地下鉄の駅でした。
ラ・ポンプ(Rue de la pompe)駅とラ・ミュエット(La Muette)駅です。
ゲシュタポに寝返ったレジスタンスが、ラ・ミュエット駅で、レジスタンスの軍事組織「フランス秘密軍」の総司令官であるシャルル・ドゥレストラン将軍と、リヨンのレジスタンスの活動家が密会する情報を密告します。
1943年6月9日午前9時、ゲシュタポはラ・ミュエット駅で彼らを逮捕するのと同時に、その隣駅であるラ・ポンプ駅で、ドゥレストラン将軍と密会することになっていたレジスタンスの退役陸軍大尉と大学生を逮捕します。
ドゥレストラン将軍はイギリス軍からも信頼が厚く、自由フランスのド・ゴールからも最高指揮官を直接任命された人物でした。ドゥレストラン将軍と密会する予定だったリヨンのレジスタンスの活動家も寝返り、ゲシュタポにレジスタンスの情報を提供します。それによって、フランスレジスタンの最高司令官、ジャン・ムーランの逮捕にまでつながったのです。
ベルガーの本拠地からそのままポンプ通りを進んで、5つ目の十字路がラ・ポンプ駅になります。また、ドゥレストラン将軍らが捕まったラ・ミュエット駅は、そのままポンプ通りを進めば着きますが、一駅なので地下鉄を使うことをオススメします。2つの駅とも地下鉄9号線の沿線になります。
100年以上の歴史があるパリの地下鉄。両駅とも駅構内は、東京の地下鉄よりも浅く、地上の入り口から階段を降りるとすぐにホームがあります。両駅ともパリの中心部とはいえ、他の路線との乗り換え駅(ラ・ミュエット駅はRER(近郊鉄道列車)の駅とつながっている)でもなく、閑静な住宅街の中にあり、利用客もそれほど多くありません。
そのような状況を利用して、レジスタンスの活動家は密会に利用したのかもしれません。
しかし、ゲシュタポの拷問施設から徒歩で行ける距離の場所が密会の場所に選ばれたというのは、それだけ当時のパリでは、ゲシュタポ、レジスタンスが至る所ですれ違い、暗躍していたということを示しています。
逮捕されたドゥレストラン将軍は沈黙を守り続け、ドイツに送られて銃殺刑になります。ジャン・ムーランは拷問の末、ドイツに送られる途中でその後遺症によって亡くなっています。2人とも想像を絶する拷問の中、最後まで威厳を保ったのでした。
【第76回】パリの街角に残るレジスタンスの悲劇の痕跡-その1
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