ヒトラーにとって栄光の3時間だったのかもしれない
第二次世界大戦の初期、ナチスドイツは、破竹の勢いでヨーロッパを制圧。1940年6月14日、宿敵フランスをも屈服させます。21日には、パリの郊外、コンピェーニュの森でドイツとフランスの休戦条約が結ばれ、パリがドイツ軍に占領されることになります。その2日後の23日、ヒトラーは、お忍びでわずかな側近を従い、滞在3時間という駆け足でパリの観光名所を周ります。それでは、ヒトラーが見物したコースを辿ってみましょう。
パレ・ガルニエ(オペラ座)
ヒトラー一行は、夜明け前にパリに着いて早々、オペラ座に向かいます。
パリの中心部にある通称、オペラ座と呼ばれている「パレ・ガルニエ」は、1875年、シャルル・ガルニエの設計で完成したバロック形式の劇場。そのオペラ座の前はいつも観光客で賑わっています。最寄り駅はメトロのOPERA駅。
ヒトラーは政治家になる前は、芸術家を目指していたので、パリを訪問することは若い頃からの憧れでした。
ヒトラーは先頭に立ち、子供のように目を輝かせながら、誰もいないオペラ座の内部を見て周ったといいます。オペラ座の沿革、設計図面を完全に覚えていたヒトラーは、劇場の案内人よりも詳しく、案内人を驚かせたほどでした。オペラ座を見学して感動したヒトラーは、戦争が終わったら、ベルリンにもパリに負けない荘厳なオペラ座を作りたいと思うようになります。
コンコルド広場
ヒトラー一行は、オペラ座を後にして、マドレーヌ教会を経てコンコルド広場に向かいます。
コンコルド広場の最寄り駅は、メトロのCONCRDO駅、オペラ座の最寄り駅OPERAから2駅の距離です。オペラ座からマドレーヌ通りを真っ直ぐ歩けば、マドレーヌ教会に着き、そこからロワイヤル通りを歩けば、コンコルド広場に着きます。30分も掛からない距離なので、ヒトラーのパリ観光のルートを肌で体験してみましょう。
コンコルド広場は、フランス革命時、処刑場となり、18世紀にルイ16世、マリー・アントワネットなど、1000人以上の命が奪われました。パリが混乱を極めた時代の血なまぐさい舞台となったコンコルド広場を見て、ヒトラーは何を感じたのでしょうか。
シャンゼリゼ通りから凱旋門
コンコルド広場から北西に、ヨーロッパの道の中で最も有名なシャンゼリゼ通りがあります。
ヒトラー一行は、コンコルド広場からシャンゼリゼ通りを通り凱旋門に向かいます。
ヒトラーは参加しませんでしたが、1940年6月14日パリを陥落させたドイツ軍が、凱旋門からシェンゼリゼ通りを勝利の行進をします。それから4年後の1944年8月、パリが連合軍によってドイツから解放された際に、連合軍がシャンゼリゼ通りで凱旋パレードを行います。
パリの象徴である凱旋門は、ヒトラーが尊敬していたナポレオンの命令によって、戦争に勝利した軍隊が凱旋する門として建設されました。ヒトラーは、ベルリンにもパリを上回る凱旋門を作る計画を持っていましたが、実現することはありませんでした。
シャイヨー宮からエッフェル塔
ヒトラー一行は、凱旋門からクレベール通りを行き、トロカデロ広場に行きます。
トロカデロ広場の前にあるシャイヨー宮は、1937年、バリ万国博覧会で建設されたものです。内部は海洋博物館、人類博物館、建築・文化材博物館になっています。
シャイヨー宮からセーヌ川を挟んでエッフェル塔が見えます。シャイヨー宮からエッフェル塔をバックに撮影されたヒトラーと側近の写真も残っています。
最寄り駅はメトロのTROCADERO駅は、凱旋門の最寄り駅、CHARLES DE GAULLE ETOILE駅から3駅です。凱旋門からクレベール通りを真っ直ぐ行けば着きますが、オペラ座から凱旋門まで歩くと結構な距離になりますので、この区間は地下鉄を使った方がいいでしょう。
シャイヨー宮からセーヌ川に架っているイエナ橋を渡れば、凱旋門と並んでパリの象徴であるエッフェル塔に着きます。
アンバリッド ナポレオンの墓
エッフェル塔の前にあるシャン・ド・マルス公園を抜けると、1671年にルイ14世が負傷廃兵の収容所として建てたアンヴァリッドに着きます。現在は、ナポレオンの墓がある場所として観光地となっています。
ヒトラーは、尊敬するナポレオンの墓の前に立ち尽くして、最愛の息子、ライヒシュタット公と離ればなれに埋葬されているのを気の毒がります。
そこで、ヒトラーは、当時ウィーンに葬られていたライヒシュタット公の棺を、アンヴァリッドに移すように命じます。当時、パリとウィーンを支配していた絶頂期のヒトラーだからこそできた計らいでした。
ラストはモンマルトルの丘
ヒトラー一行のパリ観光のラストは、パリで一番高い丘、モンマルトルでした。
モンマルトルの丘は、エッフェル塔近辺からは少し遠いので、地下鉄で行くのをオススメします。最寄り駅はメトロのBLANCHE駅。
ヒトラーは、モンマルトルの丘に登り、朝の光を浴びたパリの全景に心を奪われます。
そして、ベルリンもパリのように美しい都市に大改造するのだと誓います。その計画をパリを一緒に周った側近の1人、ヒトラーのお気に入りだった建築家、シュペーアに託すことになります。実際には、ベルリン大改造計画は実行に移されませんでした。しかし、戦争末期、戦局が悪化し、空襲によって瓦礫と化していくベルリンの地下壕でも、ベルリン大改造計画の話になるとヒトラーは目を輝かしていたと言われています。
午前10時には、パリ観光を終え空路で旅立ちます。
現代の観光ルートと変わらないヒトラーのパリ観光
3時間でパリの観光名所を周ったヒトラーですが、1日かけてゆっくりと地下鉄と徒歩でヒトラーの観光ルートを巡ってみましょう。
現在、世界中から怒涛のごとくパリへ押し寄せる観光客と変わらないルートなのです。当時、ヨーロッパ大陸を支配していた独裁者ヒトラーも、現代の観光客と何ら変わらず、パリの芸術、歴史、文化に憧れていて、そして、感動して帰っていったのです。
レジスタンスやユダヤ人の強制連行などの痕跡を巡った2度目のパリ取材
2012年~2013年の年末年始、「ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡シリーズ」の初めての取材が本記事のパリとその周辺でした。パリ以外では、ノルマンディーとコンピエーニュの森を訪問しました。
該当記事
「【第7回】両大戦の休戦条約調印の舞台、コンピエーニュの森 ~独仏因縁の場所~」
「【第9回】パリから日帰りで行けるノルマンディー上陸作戦の戦跡」
パリへは2019年の9連休で話題になったGWに再訪して取材しました。
取材2度目のパリでは、第二次世界大戦中のフランスの闇部分である、ユダヤ人への迫害、レジスタンスの暗躍の痕跡を巡ってきました。下記の記事は、豊富な写真と共に拙著「ヒトラー野望の地図帳」(電波社)でも触れていない内容ですので、ぜひご覧ください。
敗戦国でもあり戦勝国でもある第二次世界大戦中のフランスについて。
「【第75回】2つの政権に分かれていた第二次世界大戦中のフランス」
第二次世界大戦中、ドイツの占領下にあったフランスでは、レジスタンス活動が密かに行われていました。パリでその痕跡を巡ってきました。
凱旋門から徒歩圏内のレジスタンスの痕跡を紹介しています。
「【第76回】パリの街角に残るレジスタンスの悲劇の痕跡-その1」
パリ郊外のレジスタンスが処刑された丘を訪問。
「【第76回】パリの街角に残るレジスタンスの悲劇の痕跡-その2」
ユダヤ人への迫害はフランスでもありました。パリの中心部と郊外にアウシュビッツの控えの間と言われた場所があります。
エッフェル塔のすぐそばにユダヤ人の子供たちが収容された競技場がありました。
「【第77回】パリのユダヤ人強制連行と迫害の歴史。その痕跡を追う-その1」
パリ郊外のドランシー強制収容所跡、現在でも当時の建物が使われています。
「【第77回】パリのユダヤ人強制連行と迫害の歴史。その痕跡を追う-その2」
ドランシー強制収容所の近くにはヒトラーのパリ観光の際に使用された空港があります。
「【第77回】パリのユダヤ人強制連行と迫害の歴史。その痕跡を追う-その3」
第二次世界大戦中、ドイツの傀儡政権のヴィシーフランスの首都だったヴィシー。パリから片道約3時間、日帰りも可能です。
ヴィシー政府のペタン元帥の住まいや官庁だった建物が残っています。
「【第78回】ヒトラーに協力したヴィシーフランスの首都、ヴィシー-その1」
郊外のレジスタンスの墓をヴィシーから歩いて行ってきました。
「【第78回】ヒトラーに協力したヴィシーフランスの首都、ヴィシー-その2」
同シリーズが「ヒトラー 野望の地図帳」として書籍化
同シリーズが書籍化され、各書店の歴史の棚の世界史やドイツ史のコーナーに置かれています。web記事とは違う語り口で執筆していて、読者の方々からは、時代背景が簡潔でわかりやすい、学者とは違うテイストが新鮮、という感想をいただいております。
歴史好きはもちろん、ちょっとマニアックなヨーロッパ旅行をしたい方々の旅のお供になる本です。
著者名:サカイ ヒロマル
出版社:電波社
価格 :1,400円(税抜)