故・高倉健さんの「網走番外地」シリーズで有名
珍しい刑務所博物館
「その名も 網走番外地・・」。
主題歌も印象的だった映画「網走番外地」シリーズは、高倉健さんが一躍スターとなったヒット作だった。
映画の背景となった網走刑務所は、北海道の網走にある。
明治23年に建設され、昭和59年に現在の鉄筋コンクリート建ての舎房になった。
明治時代から実際に使用されてきた建物が「博物館 網走監獄」として保存され、一般に公開されている。
map ⇒ 北海道網走市字三眺
当時の建物、獄舎を再現
網走国定公園の景勝地天都山網走湖側に「博物館 網走監獄」はある。
赤レンガの正門は、威厳のある洋風建築で重々しさを感じさせる。
いかにも、「地の果て、最も脱走しにくい監獄」と呼ばれた当時の威容が再現されている。この正門は大正13年に建築され、昭和58年に復元されたものだ。
明治45年から昭和59年まで実際に網走刑務所で使われた獄舎が、昭和60年にこの場所に移築された。
建物は5棟が放射状に並ぶ「五翼放射状舎房」となっている。これは、少人数でも監視しやすい形として、ベルギーの監獄を参考にしたとされる。
この、実際に囚人が収容された獄舎内が見学できる。雑居房は6畳に3~5人、独居房は3畳に1人が収容され、全部で226室ある。
脱走者の姿も
脱走不可能と言われた網走刑務所も、後述するように見事脱出した囚人はいた。獄舎にある天井の梁の上に、今にも逃げ出そうとする囚人の人形がある。囚人の脱出方法を推測して、作られたのが面白い。
監獄食体験
意外に美味しい?
博物館では、現在の網走刑務所で収容者が食べている食事を提供している。
この「体験監獄食」は、実際に刑務所食堂として使われていた「網走刑務所旧二見ケ岡農場食堂棟」で食事ができる。
「網走刑務所旧二見ケ岡農場食堂棟」は明治29年に建てられ、2005年に文化庁から登録有形文化財に指定された由緒ある建物だ。
木の格子がはめ込まれた窓、会議用テーブル、中古のパイプ椅子とまさに雰囲気は刑務所内部を思わせる。
食堂の傍らでは、明治時代の服装で食事をする囚人10人の人形もあり、まるで映画のロケの中にいるかのようだ。
献立は、麦3:白米7の麦飯、さんまかホッケの焼き魚に小皿、中皿がついて、味噌汁の定食。現在の網走刑務所の昼食メニューで、これが観光客に好評という。訪れたら、ぜひ味わって欲しい変わり種グルメ!?だ。
明治政府の政策が網走刑務所を生んだ
重罪、兇悪犯が収容
明治維新で新しい世の中を作ろうとした明治政府は、廃藩置県などの政策を次々と打ち出した。これらが士族の不平不満を生み、国内の世情が荒れた。
明治政府を去った江藤新平が佐賀の乱を起こすと、相次いで神風連の乱、秋月の乱、萩の乱と次々に不平を持つ士族の騒乱が起こった。
明治10年、ついに西郷隆盛が西南の役を起こし、九州全域が内戦となった。
この戦いで国事犯が増加し、明治18年には8万9000人と過去最高の囚人数となり、全国的に監獄が足りない状況に陥った。
そのため政府は、囚人の収容地を北海道へと求めた。
明治15年、三笠市に空知集治監
明治18年、標茶町に釧路集治監と次々に建設
明治23年に釧路集治監分監として網走囚徒外役所(今の網走刑務所の前進)誕生
こうして徒刑、流刑、懲役刑12年以上の重罪の囚人が、北海道に集められた。網走刑務所に収容されたのは、当初は3割以上が無期懲役の囚人だった。
囚人自ら刑務所建設
(「博物館 網走監獄」のホームページによる)
明治当時の網走は北の小さい漁村にしか過ぎず、人口も631人しかいなかった。冬は海が凍るので開拓の進まない地域だった。
そこへある日、役人が訪れ村の周囲を見て回り、小高い丘に登ってこの地に刑務所建設を思い立ったという。
北にオホーツク海、南に網走湖、西に能取湖に囲まれた山の麓の前には、網走川が滔々と流れる場所があった。
「逃亡しにくく看視しやすい」と判断した。
1か月後には手足を鉄の鎖で繋がれ、同じ赤い着物に身を包んだ50人の男達が村に現れた。
役人看視のもと、男たちは森の大木を切り倒し、それを材料として自分たちが寝泊まりする小屋を建てた。
翌月には新たな50人が現れ、また小屋を建てる。その次の月にもまた男たちが・・・。
村人が気づいた時には、そこには1200人の囚人を収容する建物「釧路監獄署 網走囚徒外役所」ができていた。
網走刑務所の始まりは、囚人自らが造った建物だった。
労働力として囚人があてられた
北海道開拓の裏面史
明治政府の設立前後から、北海道にはイギリス、アメリカや、南方に不凍港を求めるロシアの艦船が接近し調査を行うようになっていた。
明治政府は明治2年に開拓使を東京に置き、蝦夷地を北海道と改め、開拓を進めることになる。諸外国、特にロシアからの脅威に対する国防の備えが必要だった。
そこで明治政府が目をつけたのが、労働力として囚人を活用することだった。
道路、港など主に交通インフラの整備を民間会社に発注するには予算がないという事情もあった。そこで、囚人の労働力をあてることにした。
蝦夷地と呼ばれた北海道、とりわけ網走のあるオホーツク沿岸で、いわゆる和人(本州からの移住者)が越年できるようになったのは明治12~13年頃と言われる。そのわずか10年後には囚人1000人以上が送り込まれた。
難工事の重労働で多数の死者
当時の北海道は札幌の周辺を除いては、せいぜい人一人が通れるほどの山道しかなかった。
もちろん、網走周辺は厳しい自然が立ちはだかり、難工事の連続となった。
囚人達の工事は原生林の中、道なき場所に道を開くという厳しいものだった。
特に、オホーツクと今の旭川盆地を結ぶ道路の開削工事は、険しい地形とヒグマに襲われる危険の連続だった。
1000人を越える囚人により、昼夜兼行で工事が強行された。しかも、その作業は逃亡を防ぐため、囚人は二人が鉄の鎖でつながれたままでの作業だった。
工事現場が山奥に向かうにつれて、食料の運搬も滞るようになり、栄養失調で病気になるもの、工事の怪我で命を失うものが続出した。
逃亡したところで、道はなく周囲には何もないので、結局現場に戻らざるを得ない環境だった。
劣悪な環境の中、工事は続けられ、少なくとも200人以上の犠牲者を出したと言われている。囚人の命より工事の進捗が重視されたのだ。
亡くなった囚人はその場で埋葬され、鎖を墓標のそばに置いたと伝えられる。それが次第に「鎖塚」と呼ばれるようになった。
成果も大きかった囚人労働
多くの犠牲者を出したが、北海道開拓にも大きな結果を残した。
オホーツクから旭川、札幌方面をつないだ幹線道路や鉄道、網走の港をはじめ、周辺の広大な農地も、囚人達が原生林から開墾したものだ。
今では豊かな実りを誇るオホーツクの大地は、囚人達が切り開き、切り開いた囚人はそこに眠っている。
「昭和の脱獄王」や「五寸釘寅吉」
網走監獄の伝説となった男たち
網走刑務所の有名人が、26年間の服役中に4回も脱獄をした「昭和の脱獄王」白鳥由栄だ。
脱獄の際に、看守を襲ったり、人質を取ったりなどの暴力を振るったことはなかった。白鳥は、当時の看守の間でも「一世を風びした男」と一目置かれた存在だった。白鳥が刑務所から脱獄したのは4回だが、網走から脱獄したのは自身3回目の時。その時、まさに脱獄王と呼ばれるエピソードがある。
難攻不落の刑務所と呼ばれた網走刑務所だが、白鳥は驚く手口でやってのけた。 手錠と監視口に白鳥は毎食の味噌汁を吹きかけ続けた。 味噌汁の塩分が長い時間をかけて鉄を錆びさせ、まんまと脱獄を成功させる。
白鳥は1日120kmを走り続ける、とか、網走刑務所で手錠の鎖を引きちぎったため重さ20kgの特製手錠がかけられた、と言われる超人だった。
また、身体の関節を自由に外すことができ、頭が入るスペースがあれば簡単に全身を抜け出せたという。
晩年は劇団座長となった脱獄者
「五寸釘寅吉」の異名をとった西川寅吉は、実に6回の脱獄を成功させている。
西川は3回目に秋田集治監を脱走した後、静岡の賭場でイカサマ賭博で乱闘となった。逃亡の際に板についた五寸釘を踏み抜いたが、そのまま12kmを逃走。 結局、警察に捕まったが、この時から「五寸釘寅吉」と呼ばれ、全国に知られた。
その後、北海道の樺戸集治監に送られると、3回も脱獄を成功させる。
最初は獄衣を濡らして壁にたたきつけ、一瞬の吸着力を利用して塀を乗り越えたという。
逃亡中は豪商から金を盗み、バクチで派手に使う一方で、貧しい開拓農民の家に金を投げ込むなど、庶民からはもてはやされる存在になった。
網走に送られたのは6回の脱獄後で40歳を超えていた。さすがに寅吉は静かな日々を送り、72歳で網走を出所する。
寅吉を待ち受けていたのは、興行師たちで「五寸釘寅吉劇団」として、全国を巡業した。結局、寅吉は興行師にいい様に利用され、最後は故郷の三重で静かに息を引き取っている。
刑務所にも歴史あり
時代の変遷で誕生した網走刑務所では、囚人達が開拓の裏面史を担った。
脱獄囚もいた獄舎は今、静かな環境の中、独特の雰囲気の博物館となっている。
なお、現在の網走刑務所は、博物館とは別の場所にあり、再犯者や暴力団関係者の刑期10年以下の受刑者が収容されている。