北海道・稚内に古代ローマ・テルマエロマエの遺跡が?まるで神殿|トピックスファロー

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2015年6月12日
北海道・稚内に古代ローマ・テルマエロマエの遺跡が?まるで神殿

稚内港に古代遺跡を思わせる北防波堤が圧倒的な存在感を見せる。70本の太い柱に半円形のアーチ。まさに古代ローマ軍の閲兵式が行われるかと思わせる威厳を備える。かつて、日本から樺太の移住者40万人が旅立った防波堤。26歳の意欲あふれる建築家の傑作だ。

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長さ500mにも及ぶ圧倒的な存在感

太い柱と半円アーチの美しいフォルム

日本最北の市、稚内。JR宗谷本線で、札幌から特急で約5時間。人口4万人弱の町に、思わず目を見張る光景がある。まるでタイムスリップ!ここは、日本なのか? 防波堤ドーム

JR稚内駅から、稚内港へわずか5分ほど歩くと、一瞬錯覚を覚える建物が目前に広がる。半円ドームの滑らかな曲線が美しいフォルムを描く。全長472mのドームを支えるのは、70本の太い円柱だ。

ギリシャのパルテノン神殿に、こんな建物がなかったか!?ローマのコロッセウムだったろうか!? ローマ軍の兵士がまるで行軍する場所?これが北防波堤ドームと呼ばれるアーチ型の防波堤だ。

高さは13.2m。サハリンから届く強風や荒波を支える防波堤は、まるで紀元前の時代からここにあったかと思わせる。

ドームの内側を歩くと、さらに異国感がせまってくる。天井に連続するアーチ形状のデザインは、悩ましいほどの曲線が目の前で繰り返される。まるで古代寺院。これが防波堤とは思えない情緒を感じさせる。

map ⇒ 北防波堤ドーム

26歳青年の意欲的なチャレンジ

北防波堤が完成したのは1936年、設計者は当時26歳の土谷實だ。北海道帝国大学工学部土木工学科の第1期生でコンクリート工学を学んだ若き技術者が、日本の港湾土木史に残る建造物を作ってのけた。

当時、サハリン南部の樺太は日本の領土だった。豊富な森林資源や海産物に恵まれ、炭鉱も開発された。これらの生産物を、サハリン南部の港から稚内に運ぶため、定期航路の開設が急務だった。

当時の稚内北防波堤は高さ5.5mしかなく、海がしけると荒波が簡単に防波堤を乗り越えた。乗船客が海に転落する事故も多発していた。北からの強風と高い波にさらされる防波堤を、新しく整備する必要があった。

1931年1月に防波堤の改築が決まり、その着工は同年の4月と急がされた。そこで白羽の矢がたったのは、1928年に稚内築港事務所に派遣されていた若い土谷だ。

当時、最先端技術だったコンクリート工学を土谷が学んだことから抜擢されたものの、経験が豊富なわけではなく、相談者が周囲にいない中で荷が重い任務だった。

堤防2

必要性から生まれたアート

土谷は短い期間の中ですべて一人でこなさなければならなかった。波浪条件の解析、波力を逃がすアール形状、地盤に適する形状、強度計算、製図から、現場での工事監督まで、すべて担当した。

波の力を受け止めるデザインを追求した結果、土谷が下した決断は、アーチ形状の屋根を持つ古代ローマを思わせる回廊形状だ。これは、現代でも港湾建築として世界でも例を見ない美しさを誇る。

土谷は1996年に亡くなっているが、生前のインタビューで、ドーム建築に至った考えについて答えている。それは、北海道帝国大学時代の恩師によるヨーロッパ建築の資料の影響があった、と。

北の過酷な自然条件と、若い技術者の斬新な発想、それを見守った周囲によって、アーチドームが生まれた。

北防波堤を通った40万人の移住者

戦争による悲しい記憶

1936年、5年かかって完成した「北防波堤ドーム」には、内部に稚内駅からの線路も延長された。「桟橋駅」も作られ、稚内―サハリン航路の乗客は、外に出なくても港の連絡船に乗り込むことができた。

日本から、この北防波堤を通ってサハリンに渡った日本人は40万人と言われている。しかし、第二次世界大戦で戦況が悪化し、終戦を迎える。

1945年8月20日、終戦直後にも悲劇は起こった。サハリンの真岡郵便局で、電話の交換業務を果たしていた9人の女性は、迫るソ連軍の脅威の中で、仕事を辞めなかった。稚内への帰郷を急ぐ日本人達への電話をつなぐことを全うした。

彼女たちの最後の言葉は、「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら・・」。ソ連軍の攻撃の中、彼女たちは自決を選んで、サハリンに散った。

北防波堤にもサハリンから混乱の中で引き上げる人達が溢れた。家族が散り散りとなって、稚内港に付いた人達が多かった。彼らによる連絡先や居場所を書いた紙が、ドームの柱に多く貼られた、という。

同年8月末には、サハリン航路は廃止となる。ドーム完成からわずか9年。美しいアーチ防波堤は、たった9年でその役目を終えた。 北防波堤2

今でも荒波から守る防波堤

1978年から全面改修を行った北防波堤は、現在も北の海の荒波や、強風から稚内港を守っている。また、かつてのサハリン航路時代を伝える貴重なシンボルとなっている。 そして、現在は斬新なデザインを背景にしたコンサートやイベント会場として、地域で利用されている。

稚内のシンボルとグルメ

稚内のシンボルとなっている「北防波堤」。他にも、稚内には宗谷岬、ノシャップ岬など、日本最北の岬がある。日本最北端の地、宗谷岬では天気のいい日であれば、遠くサハリンを望むこともできる。

また、江戸幕府の密命を受けて、日本からサハリンに渡った間宮林蔵の立像もある。

サハリンが島であることを発見し、世界地図で日本人ただ一人、「間宮海峡」として日本人名を残している。林蔵はさらに、ロシア大陸の内部にまで足を伸ばし、江戸幕府に報告書を表している。

たこしゃぶ

たこしゃぶ人気

新鮮な海産物が豊富な稚内で、地元グルメとして注目されているのが、「タコしゃぶ」だ。稚内は、特に大きな水ダコが収穫される。1匹10~15kgの大きなタコの足の繊維に沿って、透きとおるほどに薄切りにする。

昆布ダシの鍋でしゃぶしゃぶにすると、タコの甘味がたっぷり味わえる。食感も上質の牛肉のような柔らかさと、コリコリした食感がリピート客が多い理由だ。カニしゃぶに並ぶ、稚内の人気メニューとして定番になっている。

鮮度の高い海産物

厳寒の北の海で育まれた豊富な海産物の味わいは文句なし。

毛ガニ、たらばガニ、ズワイガニから、ウニ、ホタテ、ホッキ貝、ツブ貝から、ボタンエビなど、秋から冬、春にかけて旬を味わえる。

夏も、イカやツボダイ、カレイに始まり、秋からはサンマ、ヒラメ、ソイと新鮮な魚が揃う。

著者:メイフライ

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スポーツ関連や、バイオマス、太陽光などのエネルギー関連で取材、ベンチャー企業の企画室での職務経験があります。