農業王国十勝の繁栄を築いた先人の足跡を探ろう!依田勉三と関寛斎|トピックスファロー

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2015年6月16日
農業王国十勝の繁栄を築いた先人の足跡を探ろう!依田勉三と関寛斎

北海道の人気土産「マルセイバターサンド」の原型は依田勉三の起こした晩成社が生んだ。関寛斎は72歳にして農業の理想郷目指して陸別に入植。明治時代後半でも未開の地だった十勝で2人の開拓者が夢を追った。苦難の前に事業は途絶えたがその精神は今も十勝に生きる。

ライター
  

1万町歩の大農場開拓の夢を追って

依田勉三なくして今の北海道・十勝の農業、畜産の繁栄、観光はあったろうか?関 寛斎なくして、真の開拓者たる精神が十勝に継承されたろうか?

だが、2人は成功者ではなかった。しかし、2人の業績、精神が、現在の十勝の繁栄を築いたのである。 ジャガイモ畑

壮大な夢を十勝の大地に賭けた

依田勉三は、寛永6年(1853年)、伊豆に生まれた。なんら苦労しなくても実家の支えで暮らしていける立場にあったという。

しかし勉三は、羽ばたくことを我慢できず、若くして東京で学ぶ機会を得ると、恩師のホーレス・ケプロンの論文から、北海道開拓を夢見るようになる。

ケプロンは、北海道の恵まれた資産を活かして産業を興すべきだと説き、農業では麦の生産、水産業では加工品業を興せば、豊かな土地になると主張した。

勉三はケプロン論文に飛びつき、1881(明治14)年に単身北海道へ渡り、函館から日高、十勝を回って帰ってきた。その翌年には、伊豆で北海道開拓のための、晩成社を立ち上げる。その名前は「大器晩成」から付けた。

資金と賛同者を集め、1882年に仲間27人と北海道に渡り、政府から1万町歩の土地を払い下げを受けた。それはもちろん広大な農場経営が目的だった。1万町歩は、1億㎡の壮大な計画だった。これは、ディズニーランドとディズニーシーを合わせた広さの100個分にもなる。

「広い」というイメージがあるが、そこは農地ではなく原生林だ。それを人の手だけで伐採し、根を起こし、平地にして農地に変えていく作業は並大抵ではない。

勉三は始め、開拓の許可を得るため、札幌の県庁を訪ねた。県庁では、十勝はまだ開拓されておらず、札幌近郊や岩見沢などの空知を勧められた。

だが、勉三は実際に自分の目で見た十勝を選んだ。まったく未開であったことが、彼の心を刺激した。結果的に、それはとてつもない苦労を背負うことになったのだが・・・。

イナゴ被害、天候不順に見舞われる

1883年、晩成社開拓団は意気揚々と十勝、今の帯広に到着したものの、待ち受けていたのは想像もできない自然の驚異だった。生い茂る原生林。地中深く入り込んだ1本の大木の根を起こすだけで、数人がかりで2、3日かかり、とても耕作地を増やすことができなかった。

それでも自分たちが食べるためのアワ畑を開いた矢先に悪魔が訪れる。地鳴りのような音がしたと思ったら、急にあたりが真っ暗になった。音はイナゴの羽音だ。無数のイナゴの大群が飛来し、畑はもちろん、家の中で保管していた食料をも食い尽くされた。

絶望広がる開拓団

1884年も天候不順で、まったく作物がとれなかったが、勉三は買い入れていた開拓団の米1年分を、十勝・豊頃町に貯蔵していた。しかしそれも仲介人に騙されて失ってしまう。この頃から、離散する開拓団が増え始めた。

当時、勉三が詠んだ詩がある。「開墾の始めは豚と一つ鍋」食事がまるで豚の餌としか見られないものしかなかった、との自虐的な詩だ。

起死回生を模索

農業が難しい中、勉三は生花苗(おいかまない、現在の大樹町)に畜産業を始める。そして1885年には馬を農耕のために使うことを考案し、畜産では羊・豚を飼育、加工品としてハムの製造を試みた。

また、じゃがいもから澱粉の精製を試し、農業の効率化のために機械化も試した。しかしその全てがうまくいかず、開拓団はわずか3戸にまでに減った。そんな苦難にも勉三は諦めなかった。

十勝への思いは止まず

1892年、伊豆の兄の援助を得て、函館に牛肉店を開き、空知の当別村に畜産会社を設立するなど事業拡大を図った。さらに帯広には木工場を立て、現在の音更町に新たな牧場を開いた。

それから4年後の1902年には帯広でバター工場を始め、さらに缶詰工場、練乳工場も興した。バター「マルセイバタ」は明治時代、東京で有名だった喫茶「青木堂」(東京都文京区本郷、現在は閉店)で販売された。

森鴎外や、平塚らいてうが、買い求めたとされ、夏目漱石の「三四郎」でも、主人公が何度も青木堂を利用した記述がある。

遂に休止に追い込まれる

十勝全域に広がる事業を始めた勉三は、乳製品、牛肉など、先進的な生産を試みた。だが、当時のインフラが貧弱だったため、それらの生産物は消費地に届けるのが大きな課題となって残った。

結局、1916(大正5)年に、晩成社は帯広市南部にあった最後の農場を売ることで、精算した。1925年に勉三は亡き妻の後を追うように亡くなった。享年73歳。 耕運機

現在の十勝を支える基幹産業を育てた

勉三は死の間際、「晩成社には何も残らん。しかし、十勝野には・・・」と絶句したという。

確かに、勉三が試みた事業は今では十勝の基幹産業となっている。大規模農業に、畜産業。バター、チーズの加工品など、付加価値のある商品が十勝を支える産業に育った。

帯広の六花亭は、勉三に敬意を評し、「マルセイバターサンド」を作った。今では人気の北海道土産になっている。

勉三の銅像は、帯広市で十勝支庁のある中島公園に建てられている。晩成社の農場跡の碑は、大樹町晩成にある。ここでは、会社の名前が地名になった。勉三が住んだ住居も「依田勉三翁住居」として復元されている。

蘭方医としての実績

関寛斎はもともと徳島藩医を努めていた。札幌農学校に進んだ四男の農業計画に触発されて、72歳にして北海道陸別町の原野に入植した。

長崎で医学を学ぶ

千葉県東金市生まれの寛斎は、当時もっとも進んだ医学を行っていた佐倉順天堂で学んだ。豪商の支援で長崎に学ぶと、オランダ人医師ポンペから最新の医学を身につけた。

その後、徳島藩医となり、戊辰戦争では奥州戦争の野戦病院の院長として、敵味方なく治療した。徳島に帰ると、徳島藩医学校を創立して校長となる。開業医としても、貧しい人からは治療費を取らず、地元からは「関大明神」と呼ばれた。

また、天然痘予防のための種痘にも積極的に取り組み、無償で種痘を施したのは数千人とも言われている。

72歳で陸別へ

そんな寛斎に大きな転機が訪れる。札幌農学校に入学していた四男の又一が「学業を実践したい」と寛斎に助力を願った。今の石狩市樽川に20万㎡の農場を取得した。

又一が卒業すると、1902年に十勝・陸別町斗満(とまむ)に1377万㎡の土地貸付を受けて、寛斎自らも入植した。実に72歳で開拓を始めた。

理想郷を夢見て

今でも陸別町は、冬にマイナス30度以下になる厳寒の地。夏は、蚊、虻、ハエが人の身体に向かって襲いかかり、畑はつねにイナゴ、ネズミ、野うさぎやヒグマの驚異にさらされる。

開墾は思うように進まなかったが、寛斎は周辺住民に施療しながら、先住者の農場を訪ねた。この地での暮らし方、高齢の自分にとっての健康法を実践しながら、くじけずに農地を増やしていった。

1906年には、徳島関係の貸付地を含めて、7203.69万㎡の開拓許可を得ている。もちろん、全部原野だ。寛斎の理想は、開いた農地を小作人に開放して、自作農を育てる理想郷だった。小作人も、頑張れば自分の農地を持つことができるため、寛斎の下に集まった。

寛斎と親交のあった、徳富蘆花は1910年に関農場を訪ね、著書「みみずのたはごと」に、理想郷としての関農場を賛美している。

息子との対立、そして自殺

寛斎のやり方は次第に息子達との対立を生んでいった。自作農を育てる寛斎に対して、又一や孫などはアメリカ式の大農場経営の夢を主張した。

1912年、時代が大正となった年、孫の一人が寛斎を相手取り、土地の財産分与の訴訟を起こす。裁判所の呼び出しのあった翌日、寛斎は服毒自殺する。82歳、陸別に入植して10年目の事だった。

陸別の道の駅

関寛斎の足跡を訪ねて

廃線となったJRふるさと銀河線、陸別駅は今、道の駅になっている。その中に、「関寛斎資料館」がある。駅前の広場には、寛斎をこの地に訪ねた、徳富蘆花の文学碑も建てられている。

江戸幕末の時代背景、寛斎の医学、戊辰戦争、徳島藩医時代、陸別開拓などのコーナーに別れ、寛斎の住居などが復元されている。陸別町斗満には、寛斎が入植した駅逓跡、青龍山一帯は地元から関神社と呼ばれ、「寛翁顕彰碑」がたっている。1930年代に建てられた。

十勝のオリジナル文化を作った二人

今でも、十勝の人々は経済や文化的に、道都札幌に依存する体質を持っていない。

明治時代に十勝に入植した人たちは、札幌の開拓史(あるいは当時の県庁)の指示で場所を割り当てられたのではなかった。自主的に十勝を選んだ人たちの気質を今でも持っており、そのため自立心が強いと言われている。

依田勉三と関寛斎。2人の開拓は成功こそしなかったが、その挑戦は現在の十勝の繁栄に脈々と受け継がれている。

著者:メイフライ

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スポーツ関連や、バイオマス、太陽光などのエネルギー関連で取材、ベンチャー企業の企画室での職務経験があります。