実は10ヶ月!クラーク博士の札幌滞在
「北海道にある銅像」で全国的に一番有名なのは、この人、ウィリアム・スミス・クラーク、すなわちクラーク博士だろう。札幌農学校、すなわち現在の北海道大学の初代教頭として赴任し、「少年よ、大志を抱け」とのメッセージを残し、日本を離れた。
map ⇒ クラーク博士
実はクラーク博士が札幌に居たのは、わずか10ヶ月と短かった。しかし、140年後の今でもその存在は大きい。クラーク博士の銅像は2ヶ所にあり、北海道大学の構内に胸像、さっぽろ羊が丘展望台に全身像がある。羊が丘の全身像は、小高い丘から札幌市街を望む場所にあり、右手を掲げ札幌を見下ろすように立っている。まるで、北海道の進むべき方向を指差しているかのようだ。
クラーク博士が生徒たちに示した規範は、「紳士たれ」の一言。自然科学全般、キリスト教についても英語で教え、学校内のルールはすべて博士が取り仕切った。
農学校の生徒たちは、当初、酒やタバコに明け暮れていたが、毅然として教鞭を取り続ける博士の態度に次第に傾倒していった。何事も公平で、自由を貴んだ博士の精神が短い間に浸透していく。
こんなエピソードがある。現存する北海道大学植物園を建設する際、「歩道をどこに作るか?」を問われたクラーク博士は、「初めから歩道を作ることはありません。しばらくして人が歩いてできた跡を道にすればいい」と答えたという。
規則よりも人間の暮らしを優先する、クラーク博士の自由な精神。わずか1年に満たない滞在でも、その精神は生徒の心をつかんだ。さらに、農学校の生徒に語り継がれることとなった。
「Boys, be ambitious」
後の1期生の記録によると、実はこの言葉には続きがある。
「Boys,be ambitious like this old man」(少年よ、大志を抱け。この老人のように)。老人とは、クラーク博士自身を指していた。
札幌開拓の父・島津勇
島義勇(しま・よしたけ)は佐賀藩の七賢人の一人。佐賀藩主の鍋島直正は蝦夷地開拓のため、島を蝦夷地、樺太の探検に派遣している。
島は明治新政府の許で、1869年(明治2年)、開拓史判官に就任した。当時無人の荒野だった札幌を中心とした開拓構想を進め、京都のような碁盤の目の都造りを目指した。
だが、荒れた土地と厳しい冬の気候の中、工事はなかなか進まず困難の連続だった。後任の長官と衝突したこともあり、島は1870年(明治3年)に構想半ばで解任されることになる。
島はその後、同郷の江藤新平らと1874年(明治7年)に佐賀の乱を起こす。しかし、反乱軍は政府軍に鎮圧され、島も捕らえられると、打ち首となった。
島判官の理想を受け継ぐ岩村通俊
島義勇の後を受け、1871年(明治4年)に岩村通俊(いわむら・みちとし)が開拓史判官となる。
岩村は島の構想を継承し、札幌の町割りは京都と同様、「条」「丁目」とした。だが当時、札幌は草小屋が多かったため、火災が頻発して町作りが遅れた。
業を煮やした岩村は草小屋を撤去するため、あらかじめ通知したうえで、火を点けて焼き払うという荒療治を行った。岩村にすれば辞任覚悟の処置だった。だが、結果的には札幌の火事は減少していった。
稀代の冒険家・松浦武四郎
蝦夷地6回の探検で、北海道をくまなく踏破した、松浦武四郎は「北海道」の名付け親だ。北海道の至るところに、武四郎の足跡が残されている。
銅像も3体あり、天塩町鏡沼海浜公園には、手をかざして遠くを望む像がある。小平町の「にしん文化歴史公園」には、当地で詠んだ歌碑もあり、銅像は武四郎が歌を詠んでいる姿になっている。
開拓に貢献した豪商・高田屋嘉兵衛
高田屋嘉兵衛は、北前船航路で交易を求め、蝦夷地を訪れた豪商。北方漁場の経営、国後航路を開発や択捉島開拓など、北方交易に大きな功績を残した。江戸幕府から「蝦夷地常雇船頭」を任じられ、商人でありながら苗字帯刀を許された。函館の発展にも貢献している。
江戸幕府がロシア船ディアナ号の艦長ゴローニンを捕まえた1812年(文化9年)。 その報復として、嘉兵衛は国後島で捕らえられ、カムチャッカ半島へと連行された。
だが、嘉兵衛はロシア側と交渉し、ゴローニンとの捕虜交換を成功させ、帰国している。商人ながら外交官並みの交渉術に長けていたようだ。嘉兵衛の功績を記念して、函館市宝来町の護国神社坂に嘉兵衛像が建立されている。
銅像は、ゴローニン事件で幕府の代理人として、ロシア軍艦へ乗り込んだ衣装が再現されている。仙台平の袴、白足袋、麻裏草履を履いて帯刀している。
カラフト探検の功労者・間宮林蔵
カラフトが大陸ではなく、島であることを発見し、海峡にその名が付けられた間宮林蔵。林蔵は、江戸幕府の隠密探検家として、北方探索にあたった。
カラフトのみならず、江戸幕府の海外渡航の禁を破り、海峡を渡って大陸に上陸している。探検はアムール川下流に達し、清国の支配が及ぶ町の探索や、ロシアの動向まで探って帰国した。それら探索の記録をまとめた「東韃地方紀行」には、極東にはロシアと清国が混在していると報告されている。
新撰組副長・土方歳三
函館五稜郭タワーに一人で3体の銅像がある人物がいる。幕末に京都で新選組副長として恐れられた人物、土方歳三だ。戊辰戦争では、鳥羽伏見の戦いから、東に向かい、甲州勝沼、宇都宮、会津と新政府軍と戦い、仙台沖から榎本武揚らと、蝦夷地に上陸。
五稜郭を征服し、一時「蝦夷共和国軍」として独立を図った。
フロックコートに刀を差した坐像が五稜郭タワー展望室に、アトリウムにはやはり洋装の立像がある。タワー事務所にはブロンズ彫像による胸像があり、ハンサムな面影を残している。
有名な偉人の出身地
土方とともに函館で戦った榎本武揚像も五稜郭タワーにある。明治政府役人となった榎本武揚は、江別市に農場を作った。その農場は現在、榎本公園になっている。そこにも、榎本が乗馬する銅像がある。
北海道開拓史初代長官となった黒田清隆の像は札幌市大通公園にある。
また、札幌農学校二期生で、北海道農業の発展に貢献した新渡戸稲造は、後に国際連盟事務次長を務めた。また、現在でも読み継がれている「武士道」の著作者でもある。新渡戸の胸像が北海道大学構内にある。
島義勇:肥前国佐賀城下の精小路(現在の佐賀県佐賀市精町)
岩村通俊:土佐国宿毛(現在の高知県宿毛)
松浦武四郎:伊勢国一志郡須川村(現在の三重県松阪氏小野江町)
高田屋嘉兵衛:淡路国津名郡志本村(現在の兵庫県洲本市五色町都志)
間宮林蔵:常陸国筑波郡上平柳村(現在の茨城県つくばみらい市)
土方歳三:武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市石田)
榎本武揚:江戸下谷御徒町(現在の東京都台東区御徒町)
新渡戸稲造:陸奥国岩手郡(現在の岩手県盛岡市)
関寛斎:上総国東中(現在の千葉県東金市)
北海道出身者の者はいない。この時代、日本全国から、北海道開拓、あるいは探検を目標に上陸し、大きな足跡を残したことがわかる。