明治維新の立役者、坂本龍馬の記念館が函館にある|トピックスファロー

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2015年2月17日
明治維新の立役者、坂本龍馬の記念館が函館にある

幕末の風雲児、坂本龍馬は北海道を訪れたことはない。しかし、函館に北海道坂本龍馬記念館がある。なぜ? 実は、龍馬は北海道開拓の夢を持ち続け、暗殺されなかったら蝦夷地に渡ったと考えられている。その夢を継いだ龍馬の子孫達が、北海道に渡って開拓の足跡を残したのだ

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函館山の麓にある坂本龍馬記念館

坂本龍馬や子孫ゆかりの品が展示

ハリストス正教会や聖ヨハネ協会など、歴史的な建造物が並ぶ函館山山麓の市街地よりに、北海道坂本龍馬記念館がある。
坂本竜馬 内部には、龍馬ゆかりの品として、龍馬直筆の書簡2通に愛用の湯呑茶碗や短刀が展示されている。勝海舟西郷隆盛の書も展示され、亀山社中や海援隊関連の資料もある。
他に、北海道に渡った坂本家の子孫の資料も並んでいる。

map ⇒ 坂本龍馬記念館

函館との縁

龍馬の姉・千鶴の長男・高松太郎(後に龍馬の養嗣子となり坂本直となる)は、龍馬に誘われ、勝海舟の門下生となり海軍術を学んだ。 太郎は龍馬の指示により、蝦夷地(北海道)開拓に向けての調査などを行っていた。蝦夷地開拓に関しては、龍馬の影響を最も受けていたようだ。

明治維新後、太郎は東京で新政府に出仕し、1868年には蝦夷地経営に関する建白書を新政府に提出。その建白書が認められ、五稜郭にあった函館裁判所の権判事となって、函館の地を踏んだ。

その後、榎本武揚率いる旧幕府軍の攻撃によって函館を一時離れた。だが、新政府軍が北海道に上陸する一員となって箱館戦争に加わり功を上げた。 そのまま函館に留まり、1869年12月まで函館府で勤務した。

1871年には朝廷の命で坂本龍馬の跡目を継ぐことになり、坂本直を名乗った。

何度も蝦夷地に渡ろうとした龍馬

相次ぐ不運で実現せず

神戸海軍操練所時代の1864年、龍馬は京都や摂津にいた浪人を幕艦「黒龍丸」に乗せて、蝦夷地へ向かう計画を立てていた。 だが、操練所の仲間が池田屋事件に関連していたことから、師の勝海舟の立場を慮って断念した。

龍馬の北海道渡航計画は何度も失敗した。
亀山社中創設後の1866年、購入した洋帆船での蝦夷地行きを計画した。しかし、同船は暴風雨によって五島塩屋崎で沈没してしまった。
また、海援隊創設後に大洲藩から借りた「いろは丸」も紀州藩の船に衝突され、これも沈没した。
さらに、薩摩藩の保証で購入した洋式大型帆船は、費用の未払い問題で運航することすらできなかった。

和船

結局、龍馬は蝦夷地に渡ることなく、近江屋で暗殺されてしまった。

龍馬は、当時の友人への手紙に、蝦夷地に渡る夢や、そのための帆船の入手に対する記述を書いている。その内容から、龍馬は死ぬ直前まで蝦夷地開拓を目指していたと思われる。

龍馬の意志を継いだ5代目・直寛

北見に開拓のために入植

坂本直の弟で、後に坂本家5代目となった直寛が、龍馬の見果てぬ夢を実現した。

高知県会議員だった直寛は1895年に北見開拓を目的とした北光社を設立した。
北光社は、1897年に高知で開拓移民を募集した。その開拓移民、112戸、約650人が高知浦戸港から網走港に上陸し、クンネップ原野を切り開いた。
直寛も合流し、北見地方開拓の先駆者となった。

続いて空知地方浦臼へ

いったん高知に戻った直寛は、家族を連れて今度は空知地方浦臼町へ移住した。
政治上の理想も持っていた直寛にとって、開拓史がある札幌から約80kmにある浦臼は好都合だった。
その後、政治、社会活動へと頭角を現していった。

石狩川大洪水の際は、民間有志の人々と被災者の救援にあたり、上京して板垣退助と面談して政府から80万円の援助を受けることに成功。
札幌のキリスト教系日刊紙「北辰日報」の主筆に迎えられると、夕張炭鉱の鉱夫で結成された労働組合「大日本労働至誠会」の会長に選ばれた。

キリスト教伝道者の道へ

まもなく直寛は牧師となって軍隊や監獄での伝道活動や廃娼運動に身を投じた。 旭川師団、十勝監獄や北見地方を精力的に動き回った。
十勝監獄の囚人達からは「キリストの再来」とまで慕われたという。

1911年、直寛は病のため札幌で永眠した。59歳。 幾多の試練にめげることなく、理想を追求した姿は叔父の龍馬の生涯を彷彿とさせるものだった。

北見市北光地区には、自由民権の思想を北見クンネップ原野に実現した直寛の功績が讃えられ、1982年に「坂本直寛顕彰碑」が建てられた。
浦臼町にも、直寛が始めた聖園農場からとった、「聖園創始記念之地碑」が建てられている。
同町には、「坂本龍馬家の墓」や、「坂本直寛屋敷跡」もある。

子孫の繁途

事業家だった7代目彌太郎

坂本直寛の娘の婿養子に入った彌太郎が7代目を継いだ。
6代目の直道は坂本直の息子だが、当時まだ20歳の学生だった。そのため、すぐ彌太郎に家督が譲られた。

商社勤めの後、彌太郎は釧路で「坂本商会」を創立する。札幌に移住後は牧場、農場の経営の他に、「北海道製鋼株式会社」を起こし、ロープ製造などの事業を行った。
事業家であり、札幌区会議員としても、地元では名士だった。

8代目は画家で有名

彌太郎の次男、直行が坂本家8代目となった。

直行は北大山岳部の創部メンバーであり、北海道の山々を愛した。 いったん東京の会社に就職するも、北海道に戻り、広尾村字下野塚の原野に入植。 酪農と農業に従事するかたわら、山へ出かけスケッチを続けた。

十勝の大自然を描き、次第に直行は山岳画家としての名声を得ていった。 帯広の銘菓六花亭の包装紙のイラストは直行の作品だ。六花亭のお菓子が北海道土産として、人気になるにつれ、直行の名前も知れ渡った。

没後、中札内村に「坂本直行記念館」が建てられている。

現在の子孫も北海道に

新しい日本国の建設のために奔走した坂本龍馬。 その子孫達も、北海道で様々な活躍の足跡を残した。

函館、浦臼、北見、中札内。 北海道には、龍馬のDNAが残る地がある。

著者:メイフライ

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スポーツ関連や、バイオマス、太陽光などのエネルギー関連で取材、ベンチャー企業の企画室での職務経験があります。