【第105回】ヒトラーが独ソ戦を指揮した前線基地、ヴォルフスシャンツェ-その3|トピックスファロー

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2024年2月1日
【第105回】ヒトラーが独ソ戦を指揮した前線基地、ヴォルフスシャンツェ-その3

ヒトラーは、1941年6月に独ソ戦が勃発して以降、ドイツの首都ベルリンを離れます。そして、戦場に近い東部の東プロセイン領の街の郊外、森の中にある作戦指令本営に籠り、戦争の指揮を取りました。そこはヴォルフスシャンツェ(狼の巣)と呼ばれて、その跡地は現在も残っています。

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巨大なブンカー跡が不気味に残る、ヴォルフスシャンツェ(狼の巣)

独ソ戦が始まる前の1940年、ヴォルフスシャンツェの建設が開始されます。その後、何段階かの工事期間が設けられ、建物が建築され、補強されていきました。現在、跡地として残っているのは最終段階に建設されたブンカー(爆撃にも耐えられる防空施設)が中心です。

ヴォルフスシャンツェの敷地内は、3つのエリアに分かれています。総面積約250ヘクタール、80個くらいの建物が様々な用途で使用され、2,000人程度のスタッフが働くなど、ちょっとした一つの街のようでした。

現在公開されているのは2つのエリアで、下の地図にある、通りを挟んだ上部分を紹介したいと思います。

ヴォルフスシャンツェの地図ヴォルフスシャンツェの地図

ヴォルフスシャンツェの玄関口、総統専用駅

入口を入ると駐車場になっていますが、すぐ左側に引き込み線路があります。そこは総統専用駅、ゲルリッツ駅があった場所です。ゲルリッツ駅の開業はヴォルフスシャンツェができる前の1907年、同地近くの高級保養地を訪れる観光客のために開業されたのでした。

1941年6月23日午前1時30分、ヒトラーは総統専用列車「アメリカ号」で初めてヴォルフスシャンツェにやってきた時、降り立ったのがゲルリッツ駅でした。

そして、ソ連軍が迫りくる1944年11月20日の午後3時15分。ベルリンへ戻るためにこの駅から旅立ちます。それ以降、ヒトラーがヴォルフスシャンツェに戻ってくることはありませんでした。しかし、ヒトラーがいつ戻ってきてもすぐに指揮をとれるよう、ヴォルフスシャンツェの補強、耐久工事は続けられていました。

ゲルリッツ駅のホームとヒトラーゲルリッツ駅のホームとヒトラー

この期間内でヒトラーは何度か、静養、式典などでヴォルフスシャンツェを一時的に離れて、ベルヒデスガーデンの山荘やベルリンに戻ったりしますが、その際に降り立ったのもゲルリッツ駅です。

また、枢軸国の同盟国の首脳達が、ヒトラーと会見するためにヴォルフスシャンツェ詣出にやってきますが、ヒトラーが彼らを迎えたのもゲルリッツ駅になります。まさにヴォルフスシャンツェの玄関口と言える場所です。

ルーマニアのアントネスク首相を迎えるヒトラールーマニアのアントネスク首相を迎えるヒトラー

筆者が訪れた時は冬で、雪に覆われていたので、駅のホーム跡までは確認できませんでした。引き込み線の少し先は木で覆われていて、雪のない季節でもホーム跡が確認できるのか疑問ですが、駅があった旨を紹介する案内板が引き込み線の前に建てられています。

雪と森林で覆われる引き込み線と駅跡雪と森林で覆われる引き込み線と駅跡

筆者は今回の取材旅行でモバイルの鉄道パスのポーランドレイルパスを使っていました。ニックネームのようなIDを自分で作成して入力する必要があるので、ヒトラーの総統専用列車「アメリカ号」の名前の由来は謎ですが、ヒトラーになった気分でIDを「AMERICA」として使っていました。

アメリカ号の車内アメリカ号の車内

くつろぐヒトラーくつろぐヒトラー

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軽食やお土産も楽しむことができる

ゲルリッツ駅があった引き込み線の先には、ヴォルフスシャンツェの案内板、その前には、親衛隊の隊員の詰め所だった2階建ての灰色の建物(地図上①)があります。現在、1階部分はレストランになっていて、アルコール類、コーヒー、軽食などを楽しむことができます。

1階部分はレストラン1階部分はレストラン

店内店内

その前にはヴォルフスシャンツェグッズやガイドブックを販売しているお土産屋で、スタッフも常駐しています。トイレも併設されていて、レストラン、お土産屋と共にクレジットカード使用可能です。

お土産屋の前にいた猫がいました。おそらくヴォルフスシャンツェ内でスタッフに飼われている子たちでしょうが、彼らがヴォルフスシャンツェでも重要な史跡を取材している時もひょっこり現れ筆者をエスコートしてくれました。この後の動画にも登場します。

全ての跡地を紹介するのは大変なので、本記事の一番上の地図上の順路順に主だったものを紹介していきます。

12日間しか暮らさなかったヒトラーブンカー

地図上①とお土産屋の2つの建物の間を抜けると、地図の順路通り地図上②の建物、そして右手側に軍ブンカー跡(地図上③)の廃墟が見えてきます。

1944年7月22日、ヒトラー暗殺未遂事件の現場ですが、ここは最後に紹介します。

軍ブンカーを抜けると、廃墟ではなく大きな建物がゲストブンカー(地図上⑥)になります。ここは1944年7月16日から11月8日まで、後に紹介するヒトラーブンカーを補強工事している間、ヒトラーが暮らしていました。ゲストブンカーには、大きな会議室がなかったため、代用で隣の軍ブンカーを利用した会議中の最中、ヒトラー暗殺未遂事件が起こったのです。

ゲストブンカーゲストブンカー

ゲストブンカーを後にして、しばらく進むとヒトラーの個人秘書マルティン・ボルマンのブンカー(地図上⑪)が見えます。

マルティン・ボルマンブンカーマルティン・ボルマンブンカー

そこから100mほど行くと見えてくるのが、ヒトラー専用ブンカー(地図上⑬)です。

当然、ヒトラーブンカーということで特に頑丈に作られており、最終段階の補強工事で二重の補強がされています。

ヒトラーブンカーヒトラーブンカー

しかし、記述の通り、ヒトラーが最後にヴォルフスシャンツェに最期に滞在した1944年7月から11月まで、補強工事のためゲストブンカーで過ごしていました。そのため、ヒトラーは11月8日から11月20日まで12日間しかリニューアルされたブンカーには過ごしませんでした。

ヒトラーブンカーヒトラーブンカー

関連動画
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【真冬の雪の中潜入レポ④】各国独ソ戦を指揮したヒトラーの総統本営、ブォルフスシャンツェ 狼の巣〜ヒトラー専用ブンカー〜(@YouTube)

ゲーリング写真展開催中のゲーリングブンカー

ヒトラーブンカーを後にして進むと、ドイツ国防軍最高司令部(OKW)総長、ヴィルヘルム・カイテル元帥のブンカーが見えてきます(地図上⑲)。カイテルはヒトラー暗殺未遂事件の時はヒトラーの横にいて、負傷したヒトラーを運び、1945年5月8日、ベルリンで連合国に無条件降伏の文書に署名をした人物です。

カイテルブンカーカイテルブンカー

参考記事
【第12回】1945年5月8日、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線が終結した場所

更に進むと、一番奥にあるゲーリングのブンカー(地図上⑯)に着きます。

ヘルマン・ゲーリングは、ヒトラーの後継者にも指名され、ナチス党の最高幹部で軍人としても空軍総司令官で国家元帥の肩書を持っていました。

ゲーリングゲーリング

性格は貴族趣味を好み、ど派手な華美な生活をしていたことで有名です。1923年のミュンヘン一揆で重傷を負い、その治療でモルヒネを投与し続けました。それによって大巨漢になってしまいますが、それ以前は端正な顔立ちであり、ナチス時代に興味があるマニアな?日本人女性でも惹かれる人たちもいるようです。

ゲーリングブンカーも当然、ヒトラーブンカー同様、分厚いコンクリートで守られていました。また天井には対空機関銃も設けられていましたが、貴族趣味のゲーリングはあまり好まなかったようです。

ゲーリングブンカーゲーリングブンカー

ゲーリングブンカー跡地の特徴として、ヴォルフスシャンツェにある数あるブンカー跡地の中で唯一、内部に入れるようになっています。数分もあれば周れる広さですが、メインの廊下とそこから無数の行き止まりの廊下が伸びており、マジノ線やエバンエマール要塞を思い出してしまいます。

当時のゲーリングブンカー当時のゲーリングブンカー

参考記事
【第39回】ドイツ軍に敗れたフランスが誇る難攻不落の要塞、マジノ線
【第90回】半日で陥落したベルギーが誇った、エバンエマール要塞-その1
【第90回】半日で陥落したベルギーが誇った、エバンエマール要塞-その2

そしてメインの廊下の両サイドには無数のゲーリングの写真が飾られているなど、ゲーリング写真展が絶賛開催中です。ゲーリング自身は好まなかった住居ですが、世界で唯一?ゲーリング関連の跡地で開催されるゲーリングの写真展。華美な生活を送りその優雅さを他人に見せつけるのが好きだったゲーリングですが、21世紀でもヴォルフスシャンツェの一番奥で、ひっそりと自分の写真展が開催されていることをどう感じているのでしょうか。

ゲーリングブンカーの内部ゲーリングブンカーの内部

関連動画
【真冬の雪の中潜入レポ⑤】各国独ソ戦を指揮したヒトラーの総統本営、ブォルフスシャンツェ、狼の巣〜ゲーリング専用ブンカー、ゲーリング展開催中〜
【真冬の雪の中潜入レポ⑤】各国独ソ戦を指揮したヒトラーの総統本営、ブォルフスシャンツェ、狼の巣〜ゲーリング専用ブンカー、ゲーリング展開催中〜(@YouTube)

日本では考えられないブンカー跡地散策

本シリーズでもベルリン、ウィーンといった大都市に残るブンカーを度々紹介してきました。戦後、取り壊そうとしても頑丈すぎて、破壊を強行しようとすると、周囲にも影響が出る恐れがあるため、再利用されたり、放置されたりしています。ヴォルフスシャンツェは街中ではありませんが、歴史の負の遺産として公開されています。

しかし、いくら当時のナチスドイツが誇ったトート機関による、最新技術で建設されたものとはいえ、80年程前の建築物の廃墟が残されていることに、日本から来た筆者は改めて驚かされました。

ヴォルフスシャンツェを訪れる前日、2024年1月1日、ケントシンへ向かう列車に乗り込もうとするグダンスク駅でスマホでSNSをみたら、北陸地方を襲った大地震で能登半島が壊滅的な打撃を受けたニュースを知りました。多くの建物が半壊、全壊して、耐震性の基準を満たした建物でも被害にあったようです。

ヨーロッパではイタリアなど地中海付近でなければ、地震はほとんどありませんが、もし日本に当時のナチスドイツの技術で建設されたブンカーがあっても、地震の多い日本では耐震性の安全面の問題から、21世紀まで残ることはなかっただろうと思います(トート機関も外からの攻撃には耐えられても、地震による耐震性は考慮してなかったでしょうが)。

日本だったら、安全面の問題からこの時代に建設された建物をそのまま利用、観光資源にすることはできなかったでしょう。

「【第105回】ヒトラーが独ソ戦を指揮した前線基地、ヴォルフスシャンツェ」編は5部構成です。

<【第105回】ヒトラーが独ソ戦を指揮した前線基地、ヴォルフスシャンツェ-その1
<【第105回】ヒトラーが独ソ戦を指揮した前線基地、ヴォルフスシャンツェ-その2
【第105回】ヒトラーが独ソ戦を指揮した前線基地、ヴォルフスシャンツェ-その3
>【第105回】ヒトラーが独ソ戦を指揮した前線基地、ヴォルフスシャンツェ-その4
>【第105回】ヒトラーが独ソ戦を指揮した前線基地、ヴォルフスシャンツェ-その5

【連載】ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡(第1回~第100回)

著者:ヒロマル

戦争遺跡ライター
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1979年神奈川県生まれ、神奈川県逗葉高校、代々木ゼミナールで1浪、立教大学経済学部卒業。

大学在学中からヨーロッパ、アジアなどを海外放浪してハマってしまい、そのまま新卒で就職せずフリーターをしながら続ける。その後、会社員生活をしながらも休み、転職の合間を利用して海外放浪を続ける。50ヶ国以上訪問。会社の休暇を利用して年に数回、渡欧して取材。

2012年からライター業を会社員との二足のわらじで開始。
2014年からwebメディア(株)フォークラスのTOPICS FAROで2つのシリーズを連載中。

▼もんちゃんねる(You Tube)
https://www.youtube.com/channel/UCN_pzlyTlo4wF7x-NuoHYRA

▼「ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡」シリーズ
https://topicsfaro.com/series/warruins
ヨーロッパ各地を取材し、第二次世界大戦に関する場所を紹介。
軍事用語などは極力省き、中学レベルの社会の知識があれば楽しめる記事にしています。
同シリーズが2017年に書籍化。
「ヒトラー 野望の地図帳」(電波社)から全国書店の世界史コーナーで発売中。

▼「受験に勝つ!世界史の勉強法」シリーズ
https://topicsfaro.com/series/wh
2018年から主に世界史を中心とした文系の勉強方法について執筆。
大学受験だけでなく、大学生や社会人の大人の教養としての世界史の勉強方法にも触れて、
高校生、大学生、社会人とあらゆる世代を対象としています。

世間の文系離れを阻止して、文系の学問の復権に貢献することが、2つの連載の目的です。

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