ナチスの台頭に驚いたフランスが独仏国境沿いに建設した要塞、マジノ線。ドイツ軍の進撃を阻止することはできませんでしたが、マジノ線の一部が、アルザス地方にひっそりと残っています。
1945年3月、西部戦線。勝利目前の連合軍はついにドイツ領内へ進入。ライン川に迫るものの退却したドイツ軍がライン川に架かる橋を全て破壊。唯一残っていたのがレマーゲンの橋でした。
第2次世界大戦中はドイツに併合されていたオーストリア。ウィーンには、ヒトラーゆかりの場所ばかりでなく、ナチス時代のオーストリアを伝える軍事博物館や防空施設跡ブンカーもあります。地下鉄やトラムで訪れることができます。
チェコの総督だったラインハルト・ハイドリヒが、プラハでレジスタンスによって襲撃されました。その報復として全く関係ないプラハ郊外のリディエツ村の住人が虐殺され、村は地図上から消されました。リディエツ村の跡がプラハ郊外にあります。
1942年初夏、ナチスドイツ占領下のチェコで、ボヘミア総督のラインハルト・ハイドリヒが殺害される事件が起きました。その報復として、プラハ近郊のリディエツ村の住人が虐殺されてしまいます。プラハでその痕跡を辿ってみましょう。
ナチスドイツ崩壊間近の1945年4月21日、ついにソ連軍はナチスの首都、ベルリンへの総攻撃を開始。今回の記事では、ベルリン決戦に関係したテーマで、ベルリンに残る遺構を紹介します。
ウィーンは画家を目指していた青年時代のヒトラーが住んでいた街です。ドイツで政権を取ったアドルフ・ヒトラーがオーストリアを併合した際、ウィーン市民の大歓迎を受けて凱旋した街でもあります。ウィーンでのヒトラーの痕跡を巡ってみましょう。
オーストリアはアドルフ・ヒトラー(1889-1945)が生まれた国です。ブラウナウに生まれ、リンツで過ごしたヒトラー。観光名所になっているわけではありませんが、ヒトラーが少年時代を過ごした痕跡が残っています。
2度の世界大戦で戦場になったベルギーは、各地に戦場の現場が戦争遺跡として残っています。その中でもルーヴァンは、両方の世界大戦の戦場になってしまった街です。ルーヴァン大学の図書館の事件を通じて2度の世界大戦について考えたいと思います。
前編ではブランデンブルク門の西側を紹介しましたが、東側にもナチス時代の遺産がたくさんあります。ナチスの旧官庁街やホロコースト記念碑、テロのトポグラフィーなど、21世紀になって建てられたものもあります。