北海道の名付け親松浦武四郎は一人で探査を繰り返した稀代の冒険家|トピックスファロー

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2015年5月8日
北海道の名付け親松浦武四郎は一人で探査を繰り返した稀代の冒険家

江戸時代末期に北海道の蝦夷地(えぞち)を探検した人物は何人かいるが、民間人の立場で蝦夷地に分け行ったのは松浦武四郎ただ一人。それも、アイヌ人と交わりながら共に踏破すること6回。今でも北海道に数多くある記念碑は、武四郎の人柄をうかがわせる。

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「北海道」の命名者は一人の冒険家

摩周湖

音威子府村に、「命名の地」がある

旭川から稚内方面に120km進んだ先に音威子府村がある。
ゆったりとした流れを抱く天塩川河川敷には、大きく「北海道命名の地」と書かれた木碑がある。

map ⇒ 音威子府村

1857年、この地を訪れた探検家・松浦武四郎は、アイヌコタンの長老アエトモを訪ね、話を聞いた。

「この地に生まれた者を『カイ』と言う」。

この言葉がこの大地が「北海道」と名付けられるきっかけとなったのである。

後の1869年、開拓史の3番目の役職、開拓判官についた武四郎は、「蝦夷地(えぞち)」に代わる新たな名称として、「北加伊道」とする案を提出した。
その上申書には、熱田大神宮縁起の記述に「東の方に住む人々は、自分たちの国のことを加伊と言う」とある。

武四郎の著述「天塩日誌」には、アイヌ長老から聞いた「カイ」の話が記されている。武四郎自身は、「北加伊道」の意味は「アイヌ民族の大地」である、と考えていた。

この「北加伊道」が後、「加伊」が「海」と変えられ、「北海道」と呼ばれることになった。

武四郎は、「北加伊道」道の名前だけでなく、国名、郡名も同時に提出している。その中ではアイヌ民族が使っている呼称を尊重しており、今でも北海道の地名にアイヌ語由来が多い理由となっている。

三重・松阪の出身

松浦武四郎は1818年、現在の三重県松阪市となる三雲町で生まれた。
今も残る生家は、伊勢神宮にお参りする「御陰参り」の人々が行き交う参宮街道にあり、小さい頃から諸国の事情に通じていたようだ。

16歳で単身江戸に出るなど冒険心が強く、当時は中国・インドまで目指すことを考えていたようだ。19歳で四国八十八ヶ所の霊場を巡り、20歳で九州を尋ねている。
長崎・平戸でさまざまな知識を身に付けるにつれ、ロシアが蝦夷地(北海道)を狙っていることを知る。そんな蝦夷地とはどんな場所なのか・・・?
蝦夷地に武四郎は引き付けられた。

当時の人々もよく分からない蝦夷地。
それなら自分で調査するしかない。
そう思い立った武四郎は、28歳で初めて蝦夷地(北海道)に渡る。
以降、41歳までに6回蝦夷地を探索し、地図や調査報告書を出版した。
そんな評判を聞きつけた江戸幕府が武四郎を雇入れ、調査を依頼した4回目以降を除き、初めの3回は民間人として単身で渡った。

蝦夷地を含む北方の探検者は、間宮林蔵最上徳内近藤重蔵がいる。だが、すべて幕府の役人として探検を命じられ、お供もついた調査隊として派遣されている。

蝦夷地でたった一人、アイヌ人と交わりながら踏破した武四郎。驚くべき行動力だ。

蝦夷地を踏破した記録が各地に

北海道に残された武四郎の足跡は、現代の交通機関や、自動車をもってしてもたどるのが難しい。

例えば、「北海道命名の地」のある天塩川流域を訪れた時の記録を見てみよう。

天塩川

1857年の天塩川流域調査の出発地、現在の天塩町鏡沼海浜公園には、紹介文が刻まれた「松浦武四郎像」と歌碑が立っている。

天塩川流域調査1日目の野営地の案内板が、天塩町作返川河口付近にある。

次に、2日目の野宿したオンカンランマでの説明が、「松浦武四郎オンカンランマ・タカヤシ」として、天塩町国道40号の雄信内川の交差付近にある。

また、「松浦武四郎休息地 稚咲内の止宿跡」が豊富町稚咲内ドライブイン近くにある。武四郎は3度この地を通過し、利尻山の雄大な姿と建物、井戸があったことが紹介されている。

美深町のびふかアイランド内びふか温泉には、「松浦武四郎踏査之地碑」として、標柱と歌碑がある。武四郎がアイヌのエカシテカニの家に泊まったとされ、その時に詠んだ歌が刻まれている。

現在の名寄市日進には「松浦武四郎宿営推定地ナイフト」の説明看板が設置されている。
それによると、アイヌのアルヘイカの家に、天塩川流域調査の9日目、14日目、20日目に宿営した様子が記されている。

このように、天塩川流域の河口から源流部まで、ゆかりの記念碑、案内看板が現在12カ所ある。これらをすべて回るのは、自動車を使っても1日や2日でできるものではない。

これだけ足跡がはっきりしているのは、武四郎が調査後に著した、「天塩日誌」(1862年)に場所や地図が詳細に書かれているからだ。
さらに、アイヌ人と親しく交流した武四郎は、アイヌ民族の生活様式や習慣、文化なども自筆のイラスト入りで紹介している。

こうした武四郎の精神が、現在の北海道人にも共感を受け、各地に無数にあるゆかりの記念碑、看板につながっているのだろう。

主だったものでもまだまだある記念碑

手元に北海道の地図があれば、ぜひ場所を確認して見ていただくと、武四郎のスケールの大きさが分かる。

武四郎の足跡が、今の北海道の各地に残る。主なものを紹介すると、

  • 武四郎坂駐車公園(洞爺村)
      洞爺湖の北側から国道230号に上る坂道にある。春はタンポポが敷き詰めたように開花し、夏は緑一面の景色が美しい。
  • map ⇒ 洞爺村

  • 松浦武四郎歌碑(京極町)
      「名水ふきだし公園」の京極温泉前にある。「蝦夷富士」羊蹄山を望むこの地に4ヶ月も滞在した武四郎は「一生住みたい」と記した。
  • map ⇒ 京極町

  • 松浦武四郎像と歌碑(小平町)
      日本海に向かったトワイライトアーチの下に像があり、「松浦武四郎歌詠みの地」とある。
  • map ⇒ 小平町

  • 松浦武四郎蝦夷地探検像(釧路市)
      幣舞公園に武四郎像がある。北海道内の武四郎像の中では一番古い。
  • map ⇒ 釧路市

  • 松浦武四郎顕彰碑(斜里町ウトロ)
      武四郎没後100年を記念して建てられた。羅臼岳を背景に立つ。
  • map ⇒ 斜里町ウトロ東

  • 松浦武四郎歌碑(弟子屈町)
      1858年に武四郎は屈斜路湖畔にたどり着いた。湖畔には7軒の家があったと記されている。
  • map ⇒ 弟子屈町

  • 松浦武四郎浜(摩周湖)
      摩周湖を訪れた武四郎は、「夕日が湖面に輝いて、金鳥が東海に浮かんでいるようだった」と現している。現在、摩周湖畔に降りることはできない。
  • map ⇒ 摩周湖

  • 室蘭地名発祥の地説明版(室蘭市)
      北海道の名前を提案した上申書に、室蘭も入っていた。モロは小さい路、ランは下りの意味で、「モロラン」が「室蘭」となった。
  • map ⇒ 室蘭市

  • 開拓神社(札幌市)
      北海道神宮の横にある開拓神社に、北海道開拓に功労のあった37柱がある。高田屋嘉兵衛、最上徳内、近藤重蔵、間宮林蔵とともに、武四郎の名がある。
  • map ⇒ 開拓神社

  • 松浦武四郎野宿の地(新得町)
      十勝に入っての最初の泊地が道を迷っての野宿だった。この碑は、新得町の中心部からはるか山の上にあるサホロダムの、さらに林道を車で1時間ほど進んだ奥地の林道の横を100mほど切り開いた枝道にある。まさに深山幽谷にあり、地元新得の人々の武四郎への尊敬の念をうかがわせる。

map ⇒ 新得町

これらは、北海道にあるゆかりの碑、地のほんの一部だ。

温泉の発見の功績

くまなく北海道を踏破した武四郎は、温泉も発見した。

札幌市の奥座敷、定山渓温泉には由来の説明板がある。
それによると、 「安政5年(1858年)1月松浦武四郎がアイヌの人を案内人として中山峠を越えてこの地に到着。岩間に浴槽を掘り旅の疲れを癒やして一泊した。これが温泉のはじめである」とある。

また、阿寒湖温泉も武四郎がこの地を訪れた時、アイヌの人々が利用していた温泉があることを知った。

登別温泉は、武四郎の前に、最上徳内がこの地にさまざまな源泉が合流する「川」があると記述した。
その後に訪れた武四郎は、アイヌの人々が湯治を行っていることや、大怪我をした青年が温泉につかることで数日のうちに治癒した話も紹介している。
さらに、その先に「硫黄を似たる釜」があると、今の地獄谷の存在まで記している。
武四郎の訪問から、10数年後には道路が開かれ、湯治場として知られていった。

アイヌ民族を思って

武四郎は「初航蝦夷日誌」、「再航蝦夷日誌」、「三航蝦夷日誌」などで、蝦夷地の紀行風土を記し、アイヌの人々の暮らしぶりを紹介していた。

ともに、原野を旅することで、アイヌの人々の生き生きとした素晴らしさを知り、彼らの文化を守るべきだと考えた。

さらに「蝦夷漫画」、「知床日誌」などで、松前藩が不平等の扱いを強いる実情に触れていった。
「近世蝦夷人物誌」では、和人の商人のアイヌへの扱いのひどさを訴え、明治政府のアイヌ政策についても批判を重ねた。
そのため、開拓史の職も半年で辞し、北海道を離れた。

以後、武四郎が北海道を訪れることがなかったのは、自身がアイヌのために何もできなかった事を悔いてと思われる。

武四郎ルートを尋ねて

この稀代の探検家が、北海道を歩いた足跡は、現在の観光地との関係もあって興味深い。
北海道観光の折り、武四郎の碑があったら、ぜひその由来を見て欲しい。

可能ならば、その足跡を少しでもたどることができれば・・・。

なお、武四郎は70歳になって富士山登頂を達成させている。

著者:メイフライ

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スポーツ関連や、バイオマス、太陽光などのエネルギー関連で取材、ベンチャー企業の企画室での職務経験があります。