1938年5月9日と1940年10月28日、ヒトラーはイタリアのフィレンツェを訪問しています。2回とも目的はムッソリーニと会談するためでした。フィレンツェでのヒトラーの痕跡を追います。
前編ではムッソリーニの生まれた起源を探究する旅でしたが、後編ではムッソリーニの最期を追いかけます。処刑されたスイスとの国境近くのコモ湖、遺体が吊るされたミラノを巡ります。そして、現地で感じたムッソリーニに対する地元の人達の反応は?
ドイツのアドルフ・ヒトラー、日本の東条英機と並び、独裁者と言われているベニート・ムッソリーニ。しかし、現代のイタリアでは、ムッソリーニはドイツにおけるヒトラーのように絶対的な悪というわけではありません。
アドルフ・ヒトラーとフランシスコ・フランコが会談したフランス国鉄のアンダイエ駅は、国境の駅です。会談当時のアンダイエ駅を想像できようにアンダイエ駅構内を歩いてみます。また、駅近くにはビダソア川を挟んで国境があり、気軽にスペインを行き来できます。
スペインは第2次世界大戦中は中立国でした。スペインの参戦を巡って、アドルフ・ヒトラーとフランシスコ・フランコが会談したスペインとの国境のフランスのアンダイエ駅があります。その会談の舞台と鳴ったアンダイエ駅とその周辺を紹介します。
ゲルニカは小さい街です。ゲルニカの町を歩いていると、こんなに小さい街によく無差別爆撃を加えたものだと思ってしまいます。そんなゲルニカの街を紹介します。また、市街地への無差別爆撃、スペイン戦争についても触れます。
スペイン戦争の無差別爆撃の苦悩を描いたピカソの「ゲルニカ」は、マドリードのプラド美術館に展示されています。その絵の舞台となったゲルニカの街は、フランスとの国境にも近い西北部のバスク地方にある小さい街です。
プロイセン時代、ナチス時代、2つの世界大戦、東西冷戦時代・・・、20世紀のベルリンは激動の時代でした。ナチスの施設跡の隣にはベルリンの壁跡!ということも、そんなダークツーリズムの宝庫とも言えるベルリンを紹介します。
本シリーズでも紹介したヨーロッパの戦跡で辿りつくのが困難だったフランスの3つの戦跡を、エピソードを交えて紹介します。それぞれの記事と共に訪問する際の参考にしていただければと思います。
中東の紛争地域を取材をしている戦場ジャーナリストが、武装勢力に拘束される事件がよくニュースになります。戦争遺跡ライターに危険はあるのか?旅行者の戦跡巡りの際の安全性にも参考になるように検証してみたいと思います。