最後の地に今でも絶え間ない人々が
馬上で孤軍奮闘するも
土方歳三が命を潰えた最後の地、現在の住所は北海道函館市若松町になる。JR函館駅から500mほど離れた若松緑地公園に、「土方歳三 最後の地碑」がある。今でも年中、人が訪れ、花やお酒、線香が絶えない。
map ⇒ 土方歳三 最後の地碑
ちょうど五稜郭から函館山に向かう直線上にあり、当時土方は五稜郭から出陣してこの最後の地、一本木関門に到達した。海岸にある味方の弁天台場が新政府軍に囲まれ、孤立したところを救出に向かったのだ。
弁天台場に到着することができず、多勢の新政府軍に味方は敗走を余儀なくされた。土方はこの一本木関門にあって、「退く者は斬る!」と敗走する自軍に叱咤激励するも、新政府軍の流れ弾を馬上で浴びて落馬。ほぼ即死と言われている。
明治2年(1969年)5月11日のことだった。劣勢の中、五稜郭籠城が最後の策となりつつある中、少ない手勢を率いて味方の救出に飛び出した土方。
果たしてばん回の自信があったのか、ひたすら駆け抜ける想念のみに突き動かされたのか――。
最大の戦いは二股口
激烈な白兵戦
さかのぼること1ヶ月前の4月9日、新政府軍が箱館(函館の旧名称)を迂回して日本海側の乙部に上陸。海岸線を陸路南下し松前へ、陸路を箱館の裏側へと二手に分かれて進軍する。
土方は陸路軍を迎え撃つべく、山中を進む相手と大野川の二股口で激突する。土方軍300名に対し、新政府軍800人。
両側を急な崖に挟まれるため、敵軍からは一度に総攻撃をかけることができない。相手より少ない手勢で迎え撃つには絶好の地だった。
大軍を相手に消耗戦を繰り広げる
天然の要塞を最大限に利用して、山中に布陣する土方軍と新政府軍は、壮絶な銃撃戦を展開する。
記録によれば4月13日午後3時頃から始まった戦いは、数に勝る新政府軍が次々と交替して攻撃するのに対して、土方軍は2小隊が交替で小銃を撃ちまくったとされる。
14日午前7時までに新政府軍は銃弾を撃ち尽くし、疲労困憊で撤退。この16時間の戦闘で土方軍だけで3万5000発の銃弾を撃ち尽くしたと記録にある。
その後、十数日間に及ぶ激戦で土方軍は二股口を守りきり、新政府軍は迂回して戦線を奪回する策を取らざるを得なくなる。
だが、海岸線を進むもう一つの新政府軍に、函館から約20kmの木古内まで迫られる。
背後につかれると孤立することを怖れ、土方軍は29日にやむなく撤退。五稜郭に帰還している。
蝦夷共和国つかの間の夢
僚友榎本 武揚との短い平穏
新政府軍が迫る4ヶ月前の明治元年(1868年)の12月15日、土方は榎本武揚らと箱館五稜郭で「蝦夷共和国」の成立を祝った。
箱館は江戸幕府が諸外国の寄港を許した港の一つであり、外国の領事館が並んでいた。榎本は領事を招待して、蝦夷地の平定を宣言する。
選挙で榎本が総裁に就任し、土方は幹部として陸軍奉行並となり、箱館市中取締や陸海軍裁判局頭取も兼ねた。
新しい組織で新しい国を造る高揚した仲間の中で、土方は一人冷静だったとも言われている。
7ヶ月間の蝦夷地に何を見た
蝦夷地へ
土方が榎本らの旧幕府海軍と合流したのは仙台だった。 旧幕府側の奥羽越列藩同盟に参加したが、すでに同盟は崩壊しつつあった。徹底抗戦派の中心だった二人は、幕臣を中心に約3000人と船で仙台沖から蝦夷地に向かった。
軍艦開陽丸の沈没で暗転
榎本らと蝦夷地に上陸したのは、明治元年(1868年)の10月20日だった。
現在の森町鷲ノ木の浜に上陸した土方は、新政府の箱館奉行所が置かれた五稜郭を目指して南へ進軍する。
上陸からわずか6日後の26日に五稜郭を占拠すると、土方はさらに新政府軍側の松前藩を攻撃するために、松前・福山城を目指す。
ところが、暴風雨にあって開陽丸は座礁、なすすべもなく沈没する艦を見守る土方がこぶしを叩いて悔しがった「嘆きの松」が今も残る。
「もしも・・」を感じざるを得ない
「開陽丸」は江戸幕府が諸外国に対する抑止力として、オランダに発注した木造フリゲート艦。全長72.8m、全幅13.04m、蒸気エンジンで410馬力、最新鋭のクルップ砲18門他の破壊力を誇る、当時の最新鋭艦だ。
直前の1867年に横浜で進水式を行い、榎本の率いる幕府海軍旗艦として、徳川慶喜の大阪城脱出を助けた。江戸城明け渡しから新政府軍の手に渡るのを嫌い、仙台沖へ、そして蝦夷地へと渡る。
―もし、座礁しなかったら。新政府軍の上陸に対し、強烈な阻止力として存在できれば。
榎本の交渉手腕によって、蝦夷共和国が存続する可能性があったかもしれない。土方はどんな思いで沈みゆく船を見つめていたのか。
連戦連勝の土方
旗艦を失ったにも関わらず、土方軍は松前藩の福山城を落とし、江差、乙部、熊石と海岸線を陸路、松前藩軍を打ち破り、五稜郭に凱旋する。 ここに4ヶ月間存在した蝦夷共和国が誕生した。
京都から蝦夷地まで
激動の1年間
1868年は慶応4年で明治元年。江戸幕府の終焉と新政府誕生の年になる。
この年の1月、土方らは鳥羽・伏見の戦いで新型銃を用いる新政府軍に敗れ、逃避行が始まる。
3月は山梨・甲州勝沼で新政府軍の江戸入りを防ぐために戦うが敗戦。
新選組隊長、近藤勇はここで投降するも、土方は一部の新選組隊士と宇都宮城の攻防、壬生の戦い、会津戦争と参加して同年10月には蝦夷地に入った。
あきらめずに駆け抜けた土方の胸に去来していたものはなんだったのだろう。
戦いの後をたどる
上陸した森町鷲ノ木浜、蝦夷共和国本拠地の五稜郭、陥落させた松前城、激戦の二股口と、最後の地となった一本木関門と半年余りで各地に戦いの後を残した。
土方戦死から7日目の5月18日、榎本は新政府軍に降伏する。蝦夷共和国の閣僚で戦死したのは、土方歳三ただ一人だった。
埋葬されたのは五稜郭?
土方の遺体がどこに埋葬されたかは定かではない。一説には五稜郭とも言われている。共和国軍の遊撃隊長、伊庭八郎の隣に埋葬された、との証言があるが未だに証明はされていない。
今では五稜郭に約1600本のソメイヨシノが植えられ、毎年、蝦夷地の春を彩っている。
土方の思いを訪ねて
鷲ノ木浜、二股口、そして一本木関門にそれぞれ戦いの後を示す碑がある。レンタカーが必要な二股口以外は公共交通機関が利用できるので、訪れやすいのだろう。
五稜郭には旧箱館奉行所が再現され、開陽丸も松前で復元された。
江戸侠客の心意気
最後に函館山の麓にある「碧血碑」を紹介する。
箱館戦争終了後、新政府軍は戦死者の遺体を収容し、盛大な葬儀を行ったが、共和国軍の死体はそのままで放置されていた。
この事態に憤ったのが柳川熊吉だった。料亭経営のかたわら、子分600人を抱える口入れ業を営む親分。江戸では新門辰五郎に繋がる侠客だった。
熊吉は新政府に逆らうと打ち首になることも覚悟し、子分全員と縁を切り、深夜に僧侶の手を借りて腐敗した遺体を収容。
そのうち、名乗らず顔を隠した町人も手伝いに現れ、数日かかって800人もの遺体を葬った。
打ち首を免除
新政府に連行され、尋問された熊吉は「全部自分一人で行った」と命乞いもせず堂々と申し開きした。いったん打ち首を言い渡されたものの、新政府軍監が「そんな男を死なせてはならん」と無罪放免となった。
その後、熊吉は私財で函館山麓2400坪の土地を購入し、碑を立てた。
「碧血」の意味は、中国の故事「義に殉じて流した武人の血は、3年経つと碧(みどり)に変わる」に由来する。