現在のフランス政府も認めるユダヤ人の強制連行
なぜユダヤ人は迫害されたのか?
第二次世界大戦が始まった1939年にはパリに15万人ほどのユダヤ人が住んでいたといわれています。ドイツでヒトラーが政権を取ってから、ドイツ国内のユダヤ人の締め付けを徐々に厳しくしていったように、フランス国内でもユダヤ人への迫害を開始します。
「流浪の民」といわれ、国家を持たないユダヤ人は、長年ヨーロッパ各国に定住していました。ユダヤ人はその国で生きていくために勉学に勤しんで、社会的な地位を入れて財力を養っていく人たちがたくさんいる一方、現地語を話せない貧しいユダヤ人もたくさいました。
そしてナチスドイツに関わらず、ヨーロッパ各国でも、財を築いて私腹を肥やしているユダヤ人や生産性が乏しい貧しいユダヤ人を快く思わない層が一定数いたのです。
ナチスがドイツで政権を握ってドイツ国内でユダヤ人が迫害され始めると、国際世論は表向きにはナチスを批判しますが、亡命しようとするユダヤ人の受け入れには消極的でした。それはフランスも例外ではありません。
「【第55回】両大戦の転機となった軍港キールで、水兵が蜂起した痕跡を巡る」編でも説明した通り、第一次世界大戦のドイツの敗因は、ユダヤ人による背後からの一刺し論が信じられていました。それと同様に、戦間期の第三共和政のフランス社会が不安定だったのは、裏でユダヤ人が牛耳り腐敗させたという見方も多かったのです。
戦間期のフランスについては、「【第75回】2つの政権に分かれていた第二次世界大戦中のフランス」編をご参照ください。
これは時代や地域を超えて、現在にも当てはまるのではないでしょうか。
社会が不透明な時代は、官僚や政治家が悪い、公務員が悪いと共通の敵を作って叩いたり、中国や韓国が反日だと煽って、不満の矛先を隣国に向けたりしがちになります。
ナチスドイツほど過激な弾圧はできなかったとはいえ、ヴィシーフランス政府も、ナチスドイツから圧力をかけられてユダヤ人の公共機関への利用や職業選択も制限していきます。また、フランス各地の強制収容所へ連行することもフランス警察の力も借りて実施していきました。
占領2年目にあたる1942年7月16日~17日にかけて、パリ市内で大規模なユダヤ人狩りが行われ、1万3千人が検挙される事件が発生しました。子供がいる家庭は「ヴェル・ディブ」というパリ市内の冬季競技場に、独身者や家族がいない人たちは、パリ郊外のドランシー強制収容所に入れられました。
2つの収容所の現場の痕跡が残っているので紹介します。
エッフェル塔の近くにあるユダヤ人が集められた冬季競技場
検挙された子供がいるユダヤ人達は、約3日間、屋根のない冬季競技場のヴェル・ディブに収容されました。
昼間は灼熱の太陽は照り付け、夜になると冷え込みが厳しくなります。食料や水がほとんど与えられないまま、衛生状態は最悪で悪臭が酷く、生き地獄でした。4,115人の子供たちの泣き叫ぶ声は、想像に難くありません。その後、次に紹介するドランシー収容所やアウシュビッツ強制収容所に次々に移送されていきます。ヴェル・ディブは一時的な仮設の強制収容所だったのです。
冬季競技場があった場所は、現在ビル群になってしまっていますが、ヴェル・ディブ跡地の一角が小さい公園になっています。筆者が訪れた時は敷地に入ることはできませんでしたが、公園の前にはユダヤ人が収容されたヴェル・ディブ跡地を伝える説明文があります(英語、フランス語)。
公園の敷地内には、子供の像、植木をよく見ると子供たちの無数の写真が吊るされているのがわかります。ほとんどの子供たちは生きて戻ってくることはありませんでした。
ヴェル・ディブ跡地の最寄り駅は、地下鉄8号線のビルアケム(Bir Hakeim)駅になります。ビルアケム駅はエッフェル塔の最寄り駅にもなるので、多くの観光客が利用します。
駅構内には、戦後開催されたヴェル・ディブ事件の式典の写真が飾られていましたが、ほとんどの乗客はそれをみることはなく通り過ぎていきます。
また、地元の人にヴェル・ディブ跡地を聞いても、ほとんどの人がどこにあるか知らないという返答でした。ヴェル・ディブはパリの現在の喧騒の中、忘れ去られている歴史なのかもしれません。
ヴェル・ディブ跡地の場所は、ビルアケム駅を降りたら、エッフェル塔と反対側にあります。ビルアケム駅から伸びるネラトン通り(Rue Nelaton)を入ってすぐ左側にあります。
フランスの触れたくない単語、ヴィシー
ヴェル・ディブ跡地と道を挟んだ反対側に、たまたまヴィシーの美容液の広告がありました。ナチスドイツの傀儡政府だったヴィシーフランスの首都、ヴィシーは温泉街です。湧き出る天然水を使った美容液は日本にも輸入されています。
ヴェル・ディブ跡地の展示文にも、ユダヤ人の輸送はヴィシー政府が協力したという文言がりました。「VICHY」という単語は、負のイメージが先行しているのが現状です。またヴィシーの人達にとってもイメージを払拭したくて、ご当地品の売り込みや温泉保養地としての観光地を発信していきたいのが本音だと思います。
2つの側面があるヴィシーを、たまたま同じ場所で発見できました。
ヴィシーについては、「【第78回】ヒトラーに協力したヴィシーフランスの首都、ヴィシー」編をご参照ください。
ドランシー強制収容所は「その2」で紹介します。
【第77回】パリのユダヤ人強制連行と迫害の歴史。その痕跡を追う は、3ページ構成です。
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【第77回】パリのユダヤ人強制連行と迫害の歴史。その痕跡を追う-その1
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