中世のハンザ同盟の盟主だったリューベック
EUの起源?!ハンザ同盟とは?
ハンザ同盟とは、北海、バルト海沿岸の都市と都市が協定を結び、商人が取引をする12世紀に結ばれた商業同盟のことです。
その盟主であったドイツのリューベックで、ハンザ同盟の会議が開催されていました。
ブレーメン、ハンブルク、ロストックなどの都市がハンザ同盟に参加。ハンザ商人の商業活動が広がっていき、それに呼応してドイツだけでなくロンドン、ベルゲン、ブルージュ、ノブゴロドなどの外地にもハンザの商館が置かれました。
ハンザ同盟が生まれた背景には、11世紀以降、商業の復活、都市の発達があります。そのため人口が増大し、ドイツの農民たちがエルベ川以東へ移住(東方植民)、それはヨーロッパ世界と貿易圏の拡大につながりました。
ハンザ同盟の都市は、通商の安全と自由や利益をを守るため、そして海賊や国王や諸侯とも戦うために、軍隊も保有していました。
ちなみに20世紀にヒトラーが、生存圏(レーベンスラウム)と主張し東欧、ロシアの大地を狙い続けていたのは、この東方植民の歴史に由来しています。
15世紀、新大陸が発見され、大航海時代が到来。商業圏の中心が大西洋に移ります。
17世紀にはオランダが大型船を建造。海運業を発達させて、世界各地へ進出しました。その結果、ドイツの国土が30年戦争で疲弊したこともあり、ハンザ同盟は衰退していったのです。
ハンザ同盟が衰退しても大河エルベの恩恵を受けハンブルクは発展
現在のヨーロッパは、地域統合体のEUとして国家同士が結びついていますが、800年前にもハンザ同盟という、国家の枠を超えて経済的利益のために結び付くという発想をヨーロッパの人達は持っていました。
そのハンザ同盟の盟主リューベックは、20世紀にドイツ統一、ヨーロッパ統合に貢献した人物の出身地でもありました。そんなリューベックを第二次世界大戦の観点から紹介します。
ハンブルクからリューベックへのアクセス
リューベックは、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州に属して、ハンブルクから北東70キロの場所にあります。ハンブルク中央駅から快速列車(RE)で片道約45分(約14.5ユーロ)。
リューベックは海には面しておらず、バルト海から流れるトラヴェ川の河川港です。
観光客が訪れる旧市街は、そのトラヴェ川とトラヴェ運河に囲まれた中州になっていて、リューベック中央駅は中州の外側にあります。旧市街は徒歩で歩いて観光できる大きさです。
第二次世界大戦とリューベック
1942年の空襲
1942年3月28日夜、200機以上のイギリス軍の爆撃機がリューベックを襲い、街の大部分を破壊します。
この空襲でイギリス軍は、レーダーで位置を正確に把握できるGEE装置を初めて実用しました。それにより、相手に攻撃されにくい夜間による無差別空襲も可能になっていきます。
特に軍事目標もない歴史的文化都市のハンザが、港町ハンブルクや首都ベルリンより先に大規模な空襲を受けました。
ドイツ軍も1940年の夏ごろから首都ロンドンをはじめ、イギリス本土の各都市に無差別爆撃を開始したため、報復としてイギリス軍も同じようにドイツの都市に無差別攻撃を決行したのです。
リューベックの空襲は、ヒトラーをはじめドイツ国民を激怒させます。
ヒトラーはイギリスに対して、さらなる無差別攻撃を厳命。大聖堂があるカンタベリーなどのイギリスの古都も標的にされます。
このように第二次世界大戦の初期の空襲というのは、相手国の物理面だけでなく、心理面の打撃を狙う意図も大きかったのです。それは、ドイツやイギリスの古都が破壊されていく結果へと繋がっていきます。
聖マリア教会に残る、戦争の爪痕
旧市街の中心であるマルクト広場に尖塔アーチ、広い窓が特徴のゴシック建築である聖マリア教会があります(入館料:2ユーロ)。
ハンザ商人によって建てられた聖マリア教会は、バルト海沿岸都市のモデルとなりますが、第二次世界大戦で破壊されました。
現在は、修復された状態になっています。
教会の内部の一角には当時の破壊されたままの鐘が展示されています。
第一次、第二次世界大戦の碑
聖マリア教会の外側には、両世界大戦の惨事を弔う碑があります。
ヨーロッパの街中では、「1914-1918」、「1939-1945」と刻まれた碑文をよく目にします。日本人にとって、20世紀の戦争と言えば、第二次世界大戦のイメージが強いです。
しかし、ヨーロッパの人達にとって戦争は、ナチス、ヒトラーが台頭した第二次世界大戦(1939年~1945年)だけでなく、ヨーロッパ中の戦線で何百万人の兵士が亡くなった第二次世界大戦(1914年~1918年)への意識も強いのです。
ヨーロッパを訪れた時、街中で戦争の碑文らしきものを発見した時は、第一次世界大戦を表す「1914-1918」も意識して見てください。
リューベック出身のヴィリー・ブラント
ブラントの東方外交とは?
リューベックは、戦後、分断されていた東西ドイツ統一の礎を築いた西ドイツ首相、ヴィリー・ブラントの出身地です。
リューベックには博物館や生家などブラントゆかりの地を巡ることができます。
ブラントは1960年後半~1970年前半にかけて、西ドイツの首相として、ソ連、東ドイツ、ポーランドなど東欧の共産国家と積極的に話し合う東方外交を進めます。
その象徴として、「ワルシャワでのひざまづき」と呼ばれる出来事があります。
1970年12月7日、ポーランドとの国交正常化条約を調印の際、ワルシャワのゲットー記念碑(ゲットーはナチスがユダヤ人を隔離していた区域)で、ブラントは献花した後、雨上がりで地面が濡れているにも関わらず、突然ひざまずき黙とうしたのです。
ブラントは西ドイツ首相として1972年、ソ連との武力不行使条約、東西ドイツがお互いに認め合う東西ドイツ基本条約に合意。その結果、東西冷戦の緊張緩和が進むことになったのです。また、ブラントは東方外交の功績が評価されノーベル平和賞も受賞します。
リューベックの中心部にある
ヴィリー・ブラント・ハウス(博物館)
ブラントの出身地、リューベックには、2007年にオープンしたヴィリー・ブラント・ハウス(Willy-Brandt-Haus)という博物館があります。
ここでは、ヴィリーブラントの生い立ちや首相としての業績を紹介されているだけでなく、20世紀のドイツの歴史を学べます。
場所は、聖マリア教会、市庁舎などがあるリューベックの目抜き通りブライテ通り(Breite str)から、1本東側に並行しているグローセ・ブルク通り(König-Str)にあります。
周りは似たような3階建ての建物で統一されていますが、ヴィリー・ブラント・ハウスの建物の一番上にはブラントの旗が掲げられ、前の通りには看板も立っているので、すぐわかります。
展示は、ブラントが生まれた時から時代順に紹介しています。
第一次世界大戦が起こる前年の1913年に生まれ、10代、20代の頃は政治家、ジャーナリストとして活動します。しかし、1933年、ナチスが政権を取ると北欧へ亡命して、第二次世界大戦が終わるまでヨーロッパ各地を周り、ナチスへのレジスタンス活動を展開、ナチス当局に拘束されることもありました。
戦間期のリューベックの様子も紹介されています。
1930年、ブラントが17才の時、社会民主党(SPD)に入党します。
社会民主党は共産主義を理念としていた政党でしたが、過激な共産革命ではなく議会を中心とした社会改良を目指していました。第一次世界大戦後のワイマール共和国時代の中心勢力が社会民主党でした。そして当時のリューベックでも、社会民主党の勢力が大きかったのです。
王政(上)、ナチス(中)、ソビエト(下)の打倒を表現
リューベックはハンザ同盟の都市だったことからもわかるように、産業と港の街として栄え、多くの住民はそれに従事する労働者でした。
余暇としてのスポーツや音楽などレジャーも楽しんだり、自分たち労働者がより良く過ごせるための労働運動を行う程度の市民にとって、過激な共産主義やナチスのような右翼的な国家主義な政党より、社会民主党を支持するのは当然だったかもしれません。
1933年、ナチスが政権を取ると同時にワイマール共和国は終焉、社会民主党も解散させられてしまいます。これにより、労働者気質の中にも自由な雰囲気があったリューベックの街並みも、他のドイツの都市のようにナチス一辺倒となりました。
ブラントは戦後、敗戦したドイツへ戻り、ナチスの犯罪者を裁くニュルンベルク裁判に記者として取材をして政界にも復帰します。
そして、西ベルリンの市長、そして西ドイツ首相を務め東方外交を展開していくのです。
【アクセス】
住所 :König-Str 21,23552
開館時間 :11:00-18:00(4月から12月)
11:00-17:00(1月から3月、1月から3月は月曜は休館)
入場料 :無料
展示文の言語 :ドイツ語、英語
公式サイト :http://www.willy-brandt-luebeck.de/
今もリューベックに残る、ブラントの生家
リューベック出身のブラントの生家が、リューベック中央駅近くにあります。
(住所::Meire str 16)
駅前のハンゼ通り(Hanse str)を旧市街に向かう反対側の右側を進み、最初の交差点を左側(マイヤー通り(Meire str))に曲がります。そこから2つ目の交差点を過ぎた左手に生家が見えてきます。
ヒトラーやムッソリーニの生家も見てきましたが、2人の独裁者の生家同様に、現代でも街中に違和感なく溶け込んでいる印象を受けます。ヒトラーの生家は活用法に向けて長年議論されてきましたが、3つの生家の共通点として、建物には人気は感じられないということです。ブラントやムッソリーニの生家も、地元では活用法について議論されているのかもしれません。
ブラントの生家の目の前で、近隣に住んでいる雰囲気の若いカップルに、ここがブラントの生家でいいか尋ねたら、多分そうだと思う、という曖昧な返事でした。案外、地元の人達(特に若い層)は、その存在は認識していても日常すぎる光景なので、地元の歴史の偉人のゆかりの場所に興味が薄いのかもしれません。
ヒトラーの生家やムッソリーニの生家については、以下でも触れています。
ご興味のある方は、ぜひご覧ください。
▼ヒトラーの生家
「オーストリアの旅。ヒトラーの足跡を辿ってみる 少年時代編」
▼ムッソリーニの生家
「ムッソリーニの生涯を巡る北イタリアの旅 前編」
ハンザ同盟の盟主だったリューベックはヨーロッパ統合の起源?
800年前、北海、バルト海沿岸の都市が国家の枠を超えて同盟を結び、その盟主だったリューベックは、海外や他のドイツの都市との結びつきも強く、コスモポリタンな自由な雰囲気も伝統的に持っていたのではないでしょうか。
20世紀、2つの世界大戦の戦間期という混沌とした時代においても、リューベックは当時ドイツ国内で主流だった共産主義、国家主義とは一線を置く、自由な雰囲気がありました。 そんな雰囲気があったリューベックで生まれ、青春を過ごしたブラントは、ナチスを拒否し、戦後は政治家として、壁の向こうにあった東欧諸国との対話を試みます。 その後、ベルリンの壁崩壊、東欧諸国の民主化が進み、西ヨーロッパ中心で進んでいたヨーロッパ統合の中に、東欧諸国も徐々に参加していくようになります。
その礎はハンザ同盟として栄え、他国、他都市へも寛容だったリューベックが生み出した政治家、ヴィリー・ブラントの功績も大きかったのです。
そんなリューベックの伝統が、現在のEU(ヨーロッパ連合)へもたらした影響力も強かったのではと、現地で感じました。
同シリーズが「ヒトラー 野望の地図帳」として書籍化
同シリーズが書籍化され、各書店の歴史の棚の世界史やドイツ史のコーナーに置かれています。web記事とは違う語り口で執筆していて、読者の方々からは、時代背景が簡潔でわかりやすい、学者とは違うテイストが新鮮、という感想をいただいております。
歴史好きはもちろん、ちょっとマニアックなヨーロッパ旅行をしたい方々の旅のお供になる本です。
著者名:サカイ ヒロマル
出版社:電波社
価格 :1,512円(税込)