【第28回】第二次世界大戦の火ぶたが切られた街、ポーランドのグダンスクを歩く|トピックスファロー

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2015年10月14日
【第28回】第二次世界大戦の火ぶたが切られた街、ポーランドのグダンスクを歩く

ダンチヒと呼ばれていたポーランドの北部の港湾都市、グダンスクはドイツとの帰属を巡って第二次世界大戦が勃発しました。街中には第二次世界大戦のドイツ軍による最初の攻撃が行われた場所が残っています。

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第二次世界大戦が開始されるまでの経緯

戦間期は、国際管理下に置かれていたグダンスク

ポーランド人が「グダンスク」と呼び、ドイツ人が「ダンツィヒ」と呼ぶバルト海沿岸のこの都市は、港湾の戦略的価値から古来より、ポーランドとドイツの間で争奪の的となってきました。

1308年 チュートン騎士団(後のドイツ)によって支配される
1454年 ポーランド王国が奪回
1734年 プロイセン王国(後のドイツ)が併合

1918年の第一次世界大戦が終わるまで、ドイツ領となりました。
第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約によって、ポーランドが独立を回復して際、住民の98%はドイツ人でした。そのため、主要戦勝国の間で、ポーランド領に編入するのは適切ではないと判断され、どの国にも属さない国際連盟の管理下にある「自由都市」という特例的な地位に置かれることになりました。
国際連盟から派遣された高等弁務官が統括責任者を務め、現地のドイツ住民、ポーランドが実質的な主権を分担していました。しかし、市内の外務、税関、交通の運行管理はポーランド側に委ねられており、ヒトラーが政権を握る前からドイツは、ダンツヒィのドイツ人の地位に公然と抗議していました。

ヒトラーによるポーラン回廊の要求

ドイツでヒトラー率いるナチスが政権を握ると、ヴェルサイユ条約で失った失地を回復させ、ドイツ系住民が住んでいる地域を次々に併合していきます。
失地回復のヒトラーの最後の要求は、ドイツ本国とダンチヒィを結ぶポーランド回廊のドイツ主権下の鉄道と高速道路を建設することでした。そのポーランドは過去何度も周辺国から侵略され、地図上からポーランドという国名が消滅させられました。
そのため、領土の損失は当時のポーランド人にとって屈辱だったので、譲歩できない条件でした。
また、ポーランドで唯一の海港都市であるダンチヒィを手放すわけにはいかなったのです。

世界中を驚かせた独ソ不可侵条約、そして開戦

ポーランドはイギリス、フランスと同盟を結び、ドイツの侵攻に備えます。

民主主義のイギリス、フランス、全体主義のドイツの3国は、共産主義国家のソ連を敵視するという共通の認識は持っていました。ドイツは地理的にフランスとポーランドに挟まれている位置にあります。戦争になった場合、二正面の挟み撃ちを避けるために、ポーランドの向こう側のソ連を味方につけておく必要がありました。

イギリス・フランス側、ドイツ側もイデオロギーを越えて、ソ連を味方につけようと画策します。しかし、イギリス、フランスは共産主義国家であるソ連に対して、本気で交渉する気はなく、ソ連の国家主導者スターリンの不信感を買っていました。
一方、ヒトラーは、ポーランドを屈服させた後、ソ連がヴェルサイユ条約で失った北欧、東欧の失地の回復させるという餌を条件に水面下で交渉を進めます。

そして、1939年8月23日、「独ソ不可侵条約」が結ばれ世界中を驚かせます。
条約の秘密議定書にはドイツとソ連の勢力圏が決められていました。
ソ連の後ろ盾を得たドイツは、9月1日、ポーランドへ侵攻します。
2日後には、イギリス、フランスがドイツに宣戦布告、第二次世界大戦の始まりです。

その銃声はポーランドのグダンスクからでした。

どうやっていく?ポーランドのグダンスク

ポーランドへは日本から直行便がありません。
日本からポーランドへ行く場合は、欧州系の航空会社でヨーロッパの都市から乗り継ぐ手段しかありません。乗り継ぎ便次第ではその日のうちに首都のワルシャワまで辿りつくことが可能です。
ワルシャワからグダンスクまでは鉄道やバスが1日10本程度出ています。
鉄道ならグダンスクまでの所要時間は3-4時間半ほどになります。値段は高めになりますが、インターシティ(IC)を使えば3時間で着くことができます。インターシティはポーランドの最新の特急車両を使っており、無料のコーヒーサービスがあり乗り心地も快適です。(ワルシャワ~グダンスク間 150ゾロティ(日本円で4500円ほど))

グダンスクの街並み

長年、国際都市として栄えてきた港湾都市のグダンスクには、中世を彷彿とさせる美しい街並みです。
グダンスク本駅の道を南へ500M進むと、「高い門」がみえてきます。この門を潜ると、市庁舎、街の象徴、ネプチューン噴水を経て、ドゥウーギ広場に着きます。この辺り旧市街一帯になり、観光客、で賑わっています。ドゥウーギ広場の緑の門を越えると、モトワヴァ運河があります。運河沿いの道はカフェやお土産屋さんが並び風情があります。


ドイツがポーランドを屈服させた時は、ヒトラーもグダンスクを訪れ、市庁舎で演説して、ドゥウーギ広場では、戦勝パレードも行われました。緑の門を潜りドゥウーギ広場を行進するドイツ軍の写真も残っています。


市庁舎の中は、グダンスク歴史博物館となっており、戦間期の国際管理下のグダンスクの様子も展示されています。市庁舎の上は展望台となっており、グダンスク市内が一望できます。

グダンスク博物館
入場料:10ゾロティ
言語:英語、ポーランド語

第二次世界大戦発祥の地、ヴェステルプラッテ

ヴェステルプラッテは、大半を森で覆われた長さ2キロ、最大の場所で600メートルというグダンスク港の突端の細長い半島です。
1939年9月1日午前4時45分、ポルトヴィ運河に停泊していたドイツの戦艦、シュレヴィッチ・ホルシュタインがヴェステルプラッテのポーランド守備隊に攻撃を開始します。

第二次世界大戦の火ぶたが切って落とされた瞬間でした。

圧倒的な優勢な兵力のドイツ軍に対して、孤立無援の中、守備隊長スハルスキ率いる205人のポーランド守備隊は1週間持ちこたえます。
対戦車砲が3門、数ヶ所の機関銃陣地、豊富な弾薬が備蓄されていた弾薬庫があり、ヴェステルプラッテは要塞化されていました。

ヴェステルプラッテへのアクセス

ヴェステルプラッテへは、グダンスク駅前からトラムとバスを乗り継いで行きます。
トラム8番で「BRAM ZUTAWSKA」で106番のバスに乗り換えて終点の「WESTERPLATTE」で下車します。「BRAM ZUTAWSKA」までは約10分、「WESTERPLATTE」までは約20分ほどかかります。「BRAM ZUTAWSKA」ではバスが1時間に1本の割合なので、接続が悪いと待たされる可能性があります。

夏期は遊覧船でもヴェステルプラッテ

夏季はグダンスクのドゥウーギ広場近くのモトワヴァ運河から、1時間に1本(所要1時間 片道30ゾロティ)の割合で、遊覧船がヴェステルプラッテまで運行されています。
運河沿いには造船所が立ち並ぶ風景を見ることができます。

造船所はポーランド人にとって大きな意味を持ちます。
1989年、ベルリンの壁が崩壊して、東欧諸国に民主化の波が吹き荒れました。ポーランドで民主化の主役を担ったのは、グダンスクの造船所の労働者達でした。
連帯運動と呼ばれる民主化運動が全国に広がります。その中心人物であった造船所の労働者だったワレサは、後にポーランドの大統領になります。ポーランドが民主化した時代に想いを馳せながら、遊覧船に乗ってみるのよいかもしれません。

ヴェステルプラッテの歩き方

ドイツの戦艦が攻撃を開始した場所

106番のバスの終点「WESTERPLATTE」はお土産屋がたくさん並び、ヴェステルプラッテを訪れる人がそこで降ります。バスで行く場合は、一つ手前のバス停で降りることをオススメします。そこがヴェステルプラッテの半島の付け根であり、鉄道のゲート門もあり効率よく周れるからです。


遊覧船もその近くが乗り場となっています。その乗り場から見える運河こそ、停泊していたドイツの戦艦、シュレヴィッチ・ホルシュタインが攻撃を開始した現場です。戦艦からの攻撃に続いて、半島の付け根からドイツ軍の海軍歩兵突撃隊が突撃を開始しました。しかし、幅が200メートルしかない半島の付け根という土地を生かして、ポーランド軍は放火を集中して反撃を行ったため、ドイツ軍は甚大な被害をこうむります。

当時の戦いの跡が残っている森林の小道

運河、道路沿いに鉄道の線路が平行して走っています。
バス停の前にはかつて鉄道の停留場だった場所がかろうじて残っています。線路と停留場の間に森林へ続く小道があります。そこから歩くのをスタートさせましょう。


その小道の入口付近には、当時、敵の侵入を防ぐバリケードができていました。小道の両サイドには監視塔、機関銃倉庫跡がそのままの姿で残っています。森林の小道を抜けると海岸沿いの道と交差してやバスの終点「WESTERPLATTE」の付近に出ます。



その開けた場所には、ポーランド軍の兵士の14個のお墓があります。1週間に渡る戦闘でポーランド軍が降伏するまで、ポーランド軍の損害は戦死者14人、負傷者53人、ドイツ軍はそれを上回る200-300人の死傷者を出しました。

司令室跡の資料館

お土産屋さんが並ぶ道を挟み、小さい建物が見えます。そこがヴェステルプラッテ半島のポーランド軍の司令室でした。特に目印になる看板はありませんが、今は資料館として公開されています。


入口に戦艦、シュレヴィッチ・ホルシュタインの模型が展示されています。内部は狭いですが、当時の機関銃が展示されていたり、機関銃室が再現されています。


守備隊長スハルスキの軍服、サーベルも生い立ちの説明と共に展示されています。
1週間の戦闘の末、負傷したポーランド軍兵士は、グダンスク市内の病院に移送されます。その他の兵士は捕虜となりますが、守備隊長のスハルスキは、ドイツ軍によって敵ながら善戦したことを称えられ、収容されている時もサーベルの所持を許されました。


入場料:無料
言語:ポーランド語、英語

直撃弾を受けた3階建ての兵舎跡

資料室を出て、順路に戻り進んでいくと、廃墟となった建物が見えてきます。当時3階建ての兵舎で、開戦2日目に直撃弾を受けますが、地下がシェルターとなり、ポーランド軍兵士の生命を守りました。廃墟の中に入ることができるので、シェルターとなった地下室も見学することができます。


また廃墟の後ろ側には、ヴェステルプラッテで戦った205人全てのポーランド軍守備隊の氏名と生年月日が記載された碑があります。


また、順路を進んでいると、あちこちに当時の写真を使った説明文の展示も豊富にあるので、じっくりみながら散策すると良いと思います。ヒトラーも戦いの後、ヴェステルプラッテを訪れているのがわかります。

■ヴェステルプラッテの戦いの記念碑
兵舎跡を出て更に順序に通りに進んでいくと、トーテンポールのようなヴェステルプラッテの戦いの記念碑があります。記念碑からはバルト海、モトワヴァ運河が一望できます。 バルト海や記念碑の周りにはお土産を売っている露天商、記念碑で記念撮影している観光客、はしゃぐ子供たちの姿が見られます。ヴェステルプラッテ内で一般公開されているのはここまでとなります。


第二次世界大戦の発祥の地の現場というより、海岸もあり森林が多いヴェステルプラッテはグダンスクからの避暑地となって子供づれの家族を中心に賑わっています。

第二次世界大戦、初日にポーランド人が立て篭もったグダンスク市内の郵便局

ヴェステルプラッテで死闘が繰り広げられていた9月1日、グダンスク市内でもポーランド側管理下の郵便局でドイツ軍とポーランド人の激しい戦い開始されました。
要塞化された頑丈な郵便局にポーランド人将校と民間人、59人が武器を持って立て篭もり、ドイツ軍に激しく抵抗します。夕方、ドイツ軍の装甲車を装備した部隊を増派して攻撃を再開すると、近隣戦闘の上、ポーランド軍は降伏しました。
その郵便局の建物が、グダンスク市内に今でも当時のまま残っており、現在も郵便局として営業しています。

場所は、ドゥウーギ広場から600メートルほど北側にあります。市場で賑わっているポトバレ・スタロミエイエスキ通り(PODWALE STAROMIEJSKIE)を運河沿いに歩き、左側に見えるタルタチュナ通り(TARTACZNA)に曲がると右側に郵便局の建物が見えてきます。

茶色の頑丈なそうな4階建ての郵便局が入っている建物は、住宅街の中でひときわ目立ちます。当時の戦いの写真と見比べてみても、窓の形、壁の模様が当時と全く変わっておらず、実際に郵便局まで足を運べば当時の戦いを想像することがしやすいのではないでしょうか。


郵便局の前の広場には、郵便局防衛の記念碑が設置され、建物の入口には立て篭もった59人のポーランド人の名前が刻まれています。また、館内には当時のことを展示した小規模な博物館もあります。


名称:Muzeum Poczty Polskiej w Gdańsku. Oddział Muzeum Historycznego Miasta Gdańska住所:Plac Obrońców Poczty Polskiej 1/2 Gdańsk

その後のポーランドの運命

ドイツ軍の電撃戦

ドイツ軍は、まず航空機で空港、主要都市を爆撃して、敵の連絡通信網を叩きます。その直後、戦車で畳み掛ける電撃戦という当時の戦争常識を覆す戦法を取ります。
電撃戦は、「スピード」こそ最大の武器であり、常に移動して相手を翻弄する戦術です。
その後のフランス戦、ソ連戦でも電撃戦がドイツ軍の基本戦術となります。

ポーランド軍は、戦術は第一次世界大戦同様、守り重視の布陣を敷いていました。
戦力は、騎兵隊という馬に乗った兵士が主体の前近代的なものでした。
今までの戦争では、攻めるより守ることによって、突撃をしてくる敵に出血を与える守り重視の戦術が常識でした。戦車などの兵器は後方支援の役割にしかならないと思われていたのです。
先の第一次世界大戦では、塹壕戦のこう着状態によって戦争が長引いてしまいました。戦場で甚大な被害を出した上、国内の経済も崩壊して、負けてしまったのがドイツでした。 その負けた教訓を生かして、生まれた発想が「電撃戦」でした。

ポーランドの降伏

イギリス、フランスもドイツに宣戦布告しますが、自分の国の本土防衛をするのに手一杯で、ポーランドまで軍を派遣することができませんでした。
東側からはドイツと不可侵条約を結んでいたソ連軍も侵入してきて万事休す。約1ヶ月でポーランドは降伏します。
国土はドイツとソ連によって占領されますが、政府はイギリスへ亡命し、ポーランド南部から脱出できた10万人のポーランド兵士は、イギリス、フランスに渡り再編されます。
亡命ポーランド軍として、その後の連合軍の戦いに貢献します。

ドイツ軍の楽勝ではなかったポーランド戦

歴史的な常識として、前近代的な装備のポーランド軍は、ドイツ軍の攻撃によって一瞬に崩壊したと言われています。
しかし、このヴェステルプラッテの戦い、グダンスク市内の郵便局内での抵抗といい、個々の戦いでは、ポーランド人は勇敢にドイツ軍に立ち向かいました。地図上から何度も祖国を消された歴史があるポーランド人にとって、簡単にドイツの手に落とされるわけにはいかなったのです。
下記の戦死者数を見ても、ドイツ軍もかなりの損害を蒙っているのがわかります。

両軍の戦死傷者、行方不明者数
ポーランド軍 200,000人
ドイツ軍   52,000人

グダンスクは第二次世界大戦が、勃発した原因であり、戦闘が最初に始まった都市です。そして、現地に行けばポーランド人が果敢にドイツ軍に戦いを挑んだことも実感することができるのではないでしょうか?

ワルシャワにあるヒトラーが戦勝パレードを行った通り

グダンスクでのドイツ軍の戦勝パレードに続き、1939年10月6日、ワルシャワでも行われました。市南部のワジェンキ公園に面したアレイェ・ウヤズドフスエキ通り(ALEJE UJAZDOWSKIE)で行われたパレードは、記録映画としてドイツ全土で上演されました。


パレード終了後、ヒトラーと側近達は、総統専用車両でワルシャワ見物をしていました。車列がアレイェ・ウヤズドフスエキ通りに近い、旧市街へと通じる新世界通り(NOWY SWIAT)とワルシャワ中央駅へと通じるアレイェ・イィエロゾリムスキエ通り(ALEJE JEROZOLIMSKIE)の交差点に差し掛かりました。そこにはポーランド軍の工兵が大量の爆薬を仕掛けていたのです。幸いな?ことに信管は作動せず、ヒトラーを暗殺することはできませんでした。


その後、ポーランド国土は大戦末期にソ連軍に解放されるまで、ドイツの支配下となり、悲惨な運命を辿ることになります。その時代を証言する遺構もワルシャワにはたくさんあります、「ヨーロッパで一番戦争遺跡が眠っている国、ポーランド 編」を参照してください。
【連載】ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡(第1回~第100回)
【連載】ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡(第101回~)

著者:ヒロマル

戦争遺跡ライター
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1979年神奈川県生まれ、神奈川県逗葉高校、代々木ゼミナールで1浪、立教大学経済学部卒業。

大学在学中からヨーロッパ、アジアなどを海外放浪してハマってしまい、そのまま新卒で就職せずフリーターをしながら続ける。その後、会社員生活をしながらも休み、転職の合間を利用して海外放浪を続ける。50ヶ国以上訪問。会社の休暇を利用して年に数回、渡欧して取材。

2012年からライター業を会社員との二足のわらじで開始。
2014年からwebメディア(株)フォークラスのTOPICS FAROで2つのシリーズを連載中。

▼もんちゃんねる(You Tube)
https://www.youtube.com/channel/UCN_pzlyTlo4wF7x-NuoHYRA

▼「ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡」シリーズ
https://topicsfaro.com/series/warruins
ヨーロッパ各地を取材し、第二次世界大戦に関する場所を紹介。
軍事用語などは極力省き、中学レベルの社会の知識があれば楽しめる記事にしています。
同シリーズが2017年に書籍化。
「ヒトラー 野望の地図帳」(電波社)から全国書店の世界史コーナーで発売中。

▼「受験に勝つ!世界史の勉強法」シリーズ
https://topicsfaro.com/series/wh
2018年から主に世界史を中心とした文系の勉強方法について執筆。
大学受験だけでなく、大学生や社会人の大人の教養としての世界史の勉強方法にも触れて、
高校生、大学生、社会人とあらゆる世代を対象としています。

世間の文系離れを阻止して、文系の学問の復権に貢献することが、2つの連載の目的です。

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