【第35回】1942年プラハ、ラインハルト・ハイドリヒ総督暗殺事件を巡る旅|トピックスファロー

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2016年4月28日
【第35回】1942年プラハ、ラインハルト・ハイドリヒ総督暗殺事件を巡る旅

1942年初夏、ナチスドイツ占領下のチェコで、ボヘミア総督のラインハルト・ハイドリヒが殺害される事件が起きました。その報復として、プラハ近郊のリディエツ村の住人が虐殺されてしまいます。プラハでその痕跡を辿ってみましょう。

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世界から見捨てられたチェコ

当時のチェコの状況は、存続の危機に立たされていました。
1938年、同じドイツ民族が住むオーストリアを併合したヒトラーは、チェコスロバキアのスデーテンランドの併合を要求します。

スデーテンランドとは、チェコの北、西、南側と接するドイツ、オーストリア国境沿いのドイツ民族が住む地域のことです。

1938年9月、ミュンヘン会談で、ヒトラーは戦争を恐れたイギリス、フランス、イタリアの首相に、スデーテンランドの併合を認めさせます。会議に呼ばれず別室で待たされていたチェコスロバキアのベネシュ大統領は見捨てられる形になりました。そして、ベネシュ大統領はイギリスへ亡命します。

ロンドンで亡命政府を樹立し、ベネシュ大統領がこの記事の物語となるナチスのラインハルト・ハイドリヒ総督暗殺の命令を下します。
その後もヒトラーは、チェコスロバキアのチェコ人とスロバキア人の内政の対立を利用して、1938年11月、チェコスロバキアを解体させます。1939年3月、スロバキアはドイツに従属する保護国になり、チェコはドイツに併合されてしまいました。

ヒトラーは、チェコのハーハ大統領をベルリンに呼びつけ、ドイツへの併合を迫ります。それを拒むハーハ大統領に対して、ゲーリング空軍大臣が・・・

「わが軍は2時間後には、プラハを空爆する準備ができています。あの美しいプラハの街を瓦礫の山にしてしまうのは残念ですな。」

それを聞いて、ハーハ大統領は卒倒してしまい、泣く泣くドイツへの併合に調印したのでした。

スデーテンランドへの併合が最後の要求だと思っていたイギリス、フランスは面目丸つぶれとなります。
そして、ヨーロッパに戦雲が立ち込めていくのでした。

68 68-1 プラハの街並み

ハイドリヒが殺害されたエンスラポ作戦とは?

エンスラポ作戦とは、第2次世界大戦中の1941年、イギリス政府とチェコスロバキア亡命政府による、チェコ(ベーメン・メーレン保護領)の統治者ナチスドイツのラインハルト・ハイドリヒを暗殺する計画のことです。

目的

1941年12月までに、ドイツはヨーロッパ大陸のほぼ全域を支配していました。 その中でチェコスロバキアは、自動車メーカーのシェコダを初めとするドイツの重要な軍事物資の生産拠点でした。そのチェコスロバキアの統治を飴と鞭を使い分けて上手く行っていた、ハイドリヒを暗殺することによって、ドイツの統治の活性化を防ごうとしたのでした。

経緯

1941年12月28日、イギリスのチェコスロバキア亡命軍から選抜された刺客、ヨゼフ・ガプチーク、ヤン・クビシュがチェコスロバキア内にパラシュートで潜入します。 彼らは地元のレジスタンスの協力者たちに匿われながら、何度も作戦を練り直しました。 そして、ついに作戦を実行に移す日がやってきます。

1942年5月27日早朝、2人はプラハ市内のトラムの停留所付近で、出勤途中のハイドリヒを待ち伏せしました。ハイドリヒが乗ったベンツが近づいてくると、ヤン・クビシュは、銃を構えますが、故障のため引き金を引くことができませんでした。ハイドリヒが反撃に出ようとするとヤン・クビシュはすかさず、手榴弾を投げつけ、負傷させることに成功します。そして2人はすかさず立ち去ります。

結果

ハイドリヒは病院に運ばれ、順調に回復するかに思われましたが、敗血症にかかっており、1942年6月4日死亡してしまいます。

ナチスは犯人の手がかりが全く掴めませんでした。その報復として、プラハ郊外のリディエツ村の成人男性を全員虐殺、女性子供を全員、強制収容所へ送り込みました。村は地図上から完全に消滅させられます。
そして、暗殺犯の2人とその一味7人は、聖シリルとメソディウス教会に立て篭もって隠れていました。6月18日、密告によりナチスの親衛隊に包囲され、激しい銃撃と水攻めにより、3人が死亡、4人が自決しました。

中世の街並みが残るプラハ、エンスラボ作戦に関連する場所を巡り、1942年にタイムスリップしてみましょう。

69 ハインドリヒ 70 ヨゼフ・ガプチークとヤン・クビシュ

プラハ市内のハイドリヒと事件に関係する場所

ハイドリヒが通勤していたプラハ城

観光客が必ず訪れるプラハ城は、ナチス総督府が置かれていました。 現在ではチェコの大統領府が置かれています。

事件当日も、ハイドリヒは自宅からプラハ城に出勤する途中でした。
ちなみに、ハイドリヒが襲撃された場所は、残念ながら?再開発され事件現場の通りは残っていないようです。恐らく、事件現場はプラハ城の東側にあるホレショヴィツェ地区(HOLESOVICE)だと思われます。建物や道など当時の現場が、そのまま残っていることが多いヨーロッパの都市では珍しいかもしれません。
ちなみに、ドイツがチェコを保護領とした際の1939年3月15日~17日まで、ヒトラーがプラハに滞在、プラハ城で演説して宿泊しています。

71 プラハ城内の聖ヴィート大聖堂

ハイドリヒが政策方針を発表した旧チェルニーン宮

ハイドリヒはベーメン・メーレンの総督に就任した際に、プラハ城の近くにあるチェルニーン宮で、政策の基本方針を発表しました。

現在、チェルニーン宮は、ホテルサヴォイとして利用されています。
そのホテルサヴォイは、プラハ城の西側にあります。プラハ城の正門を出て、ロレッタンスカ通り(LORETANSKA)を進み、ケプレロバ通り(KEPLEROVA)と交わる角にあります。ホテルサヴォイの外観は、エメラルドグリーンの5階建ての建物です。ロビーは、クラシックで気品がある雰囲気を醸し出し、図書館や英国風バーも併設されていました。

72 ホテルサヴォイ

かつてチェルニーン宮だったこの場所で、ハイドリヒは演説します。

「戦略上の理由および戦争指導の観点から、チェコ人の怒りを煽ったり、反乱の他の道はないと思わせてはならない。」

出典:

つまり、飴と鞭を使い分ける政策を打ち出します。

1942年1月、ベルリンのヴァンゼー湖畔会議場で、ユダヤ人の最終的解決を決定(ユダヤ人の絶滅)したハイドリヒは、その冷酷さから「金髪の野獣」、「死刑執行人」と呼ばれていました。そんなハイドリヒもチェコでは、表向きは労働者階級への待遇を改善したりして、統治を安定させていました。しかしその一方で、ナチスへの反体制勢力を公開処刑するなどします。

イギリス、チェコスロバキア亡命政府は、ハイドリヒの統治能力の高さがわかっていたからこそ、暗殺を計画したのでしょう。

ホテル・サヴォイは4ツ星ホテルなので、1泊340ユーロ(約50,000円ほど)もします。庶民が宿泊するのには高い!

住所:KEPLEROVA 6,PRAHA 1

72-1 ホテルサヴォイの近くの通りの風景

兵士が隠れていた聖ツィリル・メトデイ教会

激しい銃撃戦が行われる

ハイドリヒを暗殺したヨゼフ・ガプチーク、ヤン・クビシュとその一味の7人は、聖ツィリル・メトデイ教会の地下の礼拝堂に隠れます。 その教会はプラハ市内にあります。モルダウ川を挟んでプラハ城と反対側の新市街にあり、カレル広場のすぐ近くで、観光客で賑わうヴァーツラウ広場から徒歩で行けます。

リディエツ村の惨劇、ハイドリヒの死亡とこの事件が進展する中、7人はじっとこの教会の礼拝堂に身を潜めていたのでした。レジスタンス仲間の裏切りにより、隠れている場所をナチスに密告されてしまいます。 6月18日、教会を包囲したナチスの親衛隊は、7人と激しい銃撃戦の末、グビシュを含む3人が死亡し、ガプチークを含む残りの4人は篭城します。

「君達に危害は加えない、戦争捕虜として扱われるだけだから投降しなさい!」

という、ナチス側からの投降の呼びかけにも残った4人は応じませんでした。 その後、消防士を連れてきて水攻めにし、ガス弾を投げ入れるなどして、4人を追い詰めます。彼らは下水道に逃げようとトンネルを掘りますが、処刑されるより自決する道を選びんだのです。

73 74 当時の聖ツィリル・メトデイ教会と銃撃戦の様子

今でも銃撃戦の跡が生々しく残る

現在の聖ツィリル・メトデイ教会は、当時と外観も変わらず、レッソロバ通り(RESSLOVA通り)側には銃撃戦の跡と水やガス弾が投げ込まれた穴も残っています。教会はそれほど大きくなく静かな一角にあります。教会の周りは浮浪者の姿も目立ち、ちょっと怪しい雰囲気もありますが、教会内ではミサが行われ、地元の人たちが礼拝に訪れます。

そして、教会の地下は、この事件を伝える小さな博物館になっているのです。 歴史を伝えるパネル、隠し扉や掘っていたトンネルの跡などを見ることができます。 運悪く訪れた日が、博物館の休館日でもある可能性もあります。しかし、外側からも銃撃戦の跡を見ることができます。また、外観も当時と変わらないので、教会の前を通るだけでも1942年6月17日にタイムスリップすることができるでしょう。

75 76 現在の聖ツィリル・メトデイ教会と銃撃戦の跡

地下の博物館

住所:RESSLOVA 9,PRAHA 2
開館時間:10:00-17:00(日、月休み)
言語:英語、チェコ語
料金:60コロナ
最寄り駅:地下鉄B線Karlovo Namesti

【連載ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡

著者:HIRO

戦争遺跡ライター
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ヨーロッパ各地の世界大戦の戦争遺跡を周って取材しています。
だから、戦争遺跡ライターです。
学生時代から、事件、事故現場、戦争跡地を野次馬のように行くダークツーリズムラー。
特にヒトラー、ナチスなど、第2次世界大戦のヨーロッパ戦線に関することが一番好き。
しかし、重いテーマの旅をしているかというと、旅行先では美味しいご当地グルメを堪能して、お酒を飲んでいます。時には道に迷ってテンパったり、ヨーロッパの街並みに感動したりと、見かけはヨーロッパが大好きな普通の旅行者です。

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「ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡」シリーズを
ダークリズム・ジャパンのニコニコ動画にも寄稿しています。
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