「シルドミェンチェ」は都市の中心を意味します。本記事では、ワルシャワ中央駅とワルシャワを東西に走るイェロゾリムスキ大通り周辺中心に、シルドミェシチェのワルシャワ蜂起の戦跡を紹介したいと思います。
国内軍は、旧市街地区から北側にあるジョリボシュ地区も支配していました。しかし、その間にはドイツ軍が抑えていた難攻不落の駅があり、国内軍はその駅に何度も攻撃を仕掛けて、時にはその駅の下の地下道を密かに通っていたりもしました。
前記事でも説明した通り、ポーランド国内軍はワルシャワ市内では3ヵ所の地区を抑えていました。その分断された地区との連絡、逃亡には地下道が使われていました。決死の脱出劇が行われた地下道跡を示す史跡がいくつかあります。
観光客で賑わうワルシャワの旧市街は、「スタルフカ」と呼ばれている地区で歴史が最も古い地区です。この旧市街もワルシャワ蜂起開始当日から激しい戦闘が行われました。旧市街とその近辺の痕跡を紹介します。
1944年8月1日午後5時、63日間におよぶワルシャワの戦いが始まります。ナチスドイツの支配下となってから約5年、ついにポーランド人は立ち上がります。ワルシャワ蜂起が始まった歴史的瞬間の3ヵ所を紹介します。
1939年にナチスドイツに支配されてから、ポーランド国内では地下組織を作り密かに抵抗する形を作っていきます。そのためには連合軍の後押しが必要でした。米英、ソ連両陣営の思惑が混在する中、1944年8月1日、ついに立ち上がります。
第二次世界大戦の開始当初に消滅したポーランドの国土は、ドイツとソ連に分割されます。ここから戦後にも続く、苦難な複雑な歴史が始まります。1944年、ワルシャワ蜂起で市民が立ち上がるまでのポーランドを追っていきます。
第二次世界大戦の末期の1944年8月1日、ナチスドイツに支配されていたポーランドのワルシャワ市民はついに武器を持って立ち上がります。しかし、彼らに待ち構えていた運命は非常に過酷なものでした。本記事ではワルシャワ蜂起までのポーランドをお伝えします。
筆者の生業としている、海外渡航と歴史散策に影響を与えてくれたのは、中学校3年間の社会の授業でした。ポーランドという国を初めて学んだのも、この時でした。
2024年6月、筆者は昨年末に続き、半年ぶりにポーランドを再訪しました。取材のテーマは「第二次世界大戦中に起こった1944年のワルシャワ蜂起」ですが、その前に今回は筆者のポーランド旅行の思い出と、現在に至る活動についてお話ししたいと思います。