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宣戦布告がされているのに戦闘が行われない西部戦線
1939年9月、第二次世界大戦が勃発。東部戦線は約1ヶ月でポーランドがドイツに降伏します。しかし、西部戦線ではイギリス、フランスがドイツに宣戦布告をしたにも関わらず、戦端が開かれる気配がありませんでした。
戦争状態にあるのに、戦闘がおこなわれていない状況を世界は、「奇妙な戦争」、「まやかし戦争」、「おかしな戦争」と呼びました。
ドイツは東部戦線のポーランド戦に主力部隊をぶつけていましたので、フランスと国境を接する西部戦線は手薄な状況でした。イギリス、フランス軍にとってはドイツに攻めるチャンスでしたが、動くことはありませんでした。

その理由は、大きく2つあります。
戦術的には、当時の戦争の常識では攻めるよりも守りを重視したため、敵の攻撃を待ちかまえる方が効果的と思われていたこと。
心理面では、同盟を結んでいたとはいえ、他国(ポーランド)のために血を流したくないという、戦争へのモチベーションが低かったこと。
この2つの理由と共に共通することは、イギリス、フランスだけでなくドイツでも、軍人、民間人関係なく約20年前の第一次世界大戦での塹壕戦による大惨禍に対する恐怖が残っていたことです。

当時の西部戦線の状況は、下記の記事でも触れています。ご参照ください。
「【第107回】戦うポーランド!20年で再び地図から消えるポーランド-その3」
「【第75回】2つの政権に分かれていた第二次世界大戦中のフランス」
ヒトラーの中立国、オランダへ侵攻する計画
ポーランド戦が約1ヶ月で終わり、西部戦線は「奇妙な戦争」の状態が出現しますが、ヒトラーはフランスへの即時侵攻を主張していました。
1939年10月6日、ヒトラーはイギリスとの和平を演説するものの、イギリス首相、ネヴィル・チェンバレンに拒絶されます。そこで10月10日、ヒトラーは軍首脳を招集し、作戦発起日を11月12日として、ベルギー、ルクセンブルクを通過して、フランスへ侵攻する作戦計画(黄色作戦)を軍首脳に伝えます。
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ヒトラーは、オランダ、ベルギーが中立を捨てて、イギリス、フランス側につくという懸念を感じていたのです。一方、国防軍の首脳は、ポーランド戦直後のドイツ軍の疲労による準備不足、戦火が拡大することへの不安からこの作戦に対して難色を示します。
そのため、軍内部でヒトラーを排除するクーデター計画も密かに練られます。後年の戦争末期、軍によるヒトラー暗殺未遂事件が起きますが、戦前からヒトラーと軍の確執は絶えなかったのです。

ヒトラーと軍の対立、暗殺未遂事件については、下記の記事もご参照ください。
「【第105回】ヒトラーが独ソ戦を指揮した前線基地、ヴォルフスシャンツェ-その4」
「【第105回】ヒトラーが独ソ戦を指揮した前線基地、ヴォルフスシャンツェ-その5」
オランダ侵攻の正当化をしようとしたヒトラー暗殺未遂事件
軍がヒトラーに反旗を翻すクーデター計画を練っている最中の11月8日、民間人の単独行動によるヒトラー暗殺未遂事件がミュンヘンで発生します。
ヒトラーが政権を取る前に失敗したクーデターであるミュンヘン一揆が行われた11月8日は、毎年記念日として、一揆が行われた地であるミュンヘンのビュルガーブロイケラーでヒトラーは演説をしていました。演説の最中を狙った家具職人のゲオルグ・エルザーが仕掛けた爆弾がさく裂しますが、ヒトラーは運よく難を逃れます。

ゲオルグ・エルザーによるヒトラー暗殺未遂事件は、「【第74回】ミュンヘンでヒトラーに抵抗した市民の痕跡を巡る その3」編をご参照ください。
ヒトラー暗殺未遂事件が起こる前日の11月7日。ドイツのオランダ、ベルギー侵攻の情報をかぎつけたベルギーが隣国オランダを誘い、オランダ女王ウィルヘルミナ、ベルギー国王レオポルド3世の連名で、ドイツ、イギリス、フランスに対して和平調停提案を発表します。
和平提案を斡旋することで、両国の中立を強調してドイツの侵攻の大義名分を封じようとします。オランダ、ベルギーの中立違反を口実に侵攻しようと企んでいたヒトラーにとって都合が悪く、黄色作戦の延期を決定しました。
その時に起こったのが暗殺未遂事件でした。現在の研究ではエルザーの単独犯という説が有力ですが、ヒトラーは黒幕にイギリスがいると信じ込みます。その証拠を掴むことに躍起になります。

軍内部の反ヒトラーの雰囲気を感じ取っていたヒトラーは、反ヒトラー派はイギリス側と通じていると思い込んでいました。そこでヒトラーは親衛隊(SS)に命じて、工作員に反ヒトラー派の士官に偽装させて、証拠を掴むために中立国のオランダでイギリスの情報員と接触させる計画を立てます。しかし、イギリス側も話に疑心暗鬼で計画が進まなく打ち切りを考えていましたが、親衛隊はイギリスの情報員を暗殺未遂事件に関与していたとことに間違いないと断定します。

ミュンヘンのヒトラー暗殺未遂事件を受けて、それまで親衛隊が偽装工作をして接触しようとしていたイギリスの陸軍情報部(SIS)に属するシギスムンド・ペイン・ベスト大尉、リチャード・ヘンリー・スティーヴンス少佐を逮捕、拉致しようと企てます。その現場はドイツとの国境の街、オランダのフェンローでした。
そのフェンローに足を運んでみたいと思います。
拉致事件が起きたドイツとの国境の街、オランダのフェンロー
フェンローはオランダ南東部に位置して、マーストリヒトを州都とするリンブルク州の都市です。
マース川(フランス語読みではミューズ川、ムーズ川)の途上にあり、交易地として栄えた一方、戦略的重要性から何度も敵に攻撃されてきました。


第二次世界大戦末期、フェンローのマース川に架かる鉄道や道路の橋が、何度も連合軍によって爆撃され、街も深刻な被害を受けます。「【第108回】オランダの戦い ナチスドイツとアメリカに狙われた悲運のロッテルダム 後編-その5」でも触れますが、第二次世界大戦中、ナチスドイツの占領されていたオランダでは、解放してくれるはずの連合軍からの攻撃も受けていました。フェンローはドイツ国境と接しているということで、連合軍の戦略上、激しい爆撃をされたのが想像されます。

ライン川の西側を流れるマース川
フランス北東部を水源として、ベルギーを流れオランダで北海へ注ぐマース川は、古来よりドイツがフランスへ進撃する際に目指した川です。ベルギー、オランダ国境沿い、ベルギー、ドイツ国境沿いを一部流れています。ドイツとフランスとの国境沿いを流れてオランダのロッテルダムまで注ぐライン川の西側に位置しています。
世界史の教科書にも登場するライン川と違い、ヨーロッパの戦争史では、あまり知られていませんが戦略的に欠かせない川になります。

マース川が登場する記事です。ご参照ください。
「【第14回】昭和天皇も訪れた第一次世界大戦の激戦地「ヴェルダン」-その1」
「【第90回】半日で陥落したベルギーが誇った、エバンエマール要塞-その1」
「【第108回】オランダの戦い 西部戦線の侵攻作戦が漏洩?不時着事件-その3」
1939年11月9日夕刻、独蘭国境での一瞬の拉致事件
ヒトラー暗殺未遂事件の翌日、11月9日、ドイツとの国境にあるオランダのフェンロー郊外の喫茶店(カフェ・バッカス)で、親衛隊の工作員とイギリスのベスト大尉、スティーヴンス少佐が会合を開くセッティングをします。
反ヒトラー派の将軍をイギリスに渡らせる計画があり、その任務を果たす将軍を用意した旨をイギリス側に伝えて、2人をおびき寄せて、ドイツへ拉致する計画を立てます。実行部隊の指揮官は、約2ヵ月前、ポーランド戦で開戦口実の放送局襲撃事件を実行した、親衛隊のアルフレート・ナウヨクスでした。ドイツ側国境で密かに待機します。

アルフレート・ナウヨクスの放送局襲撃事件は、「【第103回】開戦口実の為の偽装工作、グライヴィッツ放送局襲撃事件」編をご参照ください。
15時過ぎ、オランダ軍動員地帯を通過するためにサポートしていたオランダ陸軍の情報部員も同行して、運転手と共にベスト大尉、スティーヴンス少佐は、カフェ・バッカスの駐車場に乗り付けます。ベスト大尉が車から降りると、ナウヨクスの部隊が車に近づき、銃撃戦になり、同行者のオランダ情報部員を打ち倒し、運転手を含む3人を実行部隊の車に押し込み、ドイツ領を立ち去りました。
筆者もドイツへ拉致されるリアル経験?
拉致事件現場のカフェ・バッカスは、フェンローの中心部から北西に位置しています。
徒歩では片道、約1時間かかりますが、駅前からバスを使うと約10分弱で着くので便利です(1時間に1本程度の本数)。29番とSB42番のバスがカフェ・バッカスの目の前のバス停(Fahrplan)まで行きます。この停留所はドイツ領になります。29番とSB42番は国際路線バスということになります。

しかし、筆者がバス(SB42番)を使ってカフェ・バッカスまで行こうとした時、運転手にバス停(Fahrplan)で降りる旨を告げたにも関わらず、カフェ・バッカスやバス停を通過して、なぜかドイツ側へ猛突進してしまったのです。慌てた筆者は数百メートルほど走った所で運転手にバスを止めるように告げ、バス停のない場所で降ろしてもらいます。

まさにバスが通った道が、ベスト大尉、スティーヴンス少佐がナウヨクスの部隊に拉致され、ドイツへ連れ去られた道なのです。事件現場に着く前に筆者自身が、フェンロー事件を模擬体験してしまったのです。
ちなみに片道10分ほどの走行距離ですが、運賃は7ユーロ(2024年1月のレート約1,200円)します。いくら円安とはいえ少し高いとは思いますが、国際路線バスの特別価格と割り切ることにしました。
ちなみにSB42番のバスに関していうと現金払いのみになります。現在、ヨーロッパはほとんどクレジットカードのスマホのタッチ決済で支払いができますが、国際路線バスで現金払いだけなのは驚きました。今回のオランダ取材で、現金を使ったのはフェンロー駅とカフェ・バッカスの往復の14ユーロのみでした。ヨーロッパを旅行する際、若干は現金のユーロや現地通貨を用意した方が良いと思います。

現在も残る、拉致事件現場のカフェ・バッカス
カフェ・バッカスはオランダ領にあり、バス停はドイツ領にあります。カフェ・バッカスの隣の建物はドイツ領と、まさに国境フェチの方は興奮する場所ではないかと思います。
オランダ側からみて、左側の建物が当時カフェ・バッカスがあり現在はスーパーマーケットとなっている場所。手前が駐車場になっていて、そこが事件現場です。ベスト大尉、スティーヴンス少佐の車が止まった時、親衛隊の実行部隊と銃撃戦になったのです。
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

1875年、バッカスファミリーがこの国境検問所があったこの地で、カフェ兼レストランを開業します。事件現場の建物は戦後改修されますが営業を続けて、1989年からはスーパーマーケットとして営業を開始、現在に至ります。2024年現在、5代目のオーナーが経営しています。2019年には向かいに魚専門店(隣には喫茶店)もオープンさせています。
バッカスファミリーの経営が順調なのがわかります。

筆者もカフェ・バッカスだったスーパーマーケットで売っているコーヒーを飲み、当時の戦前のカフェ時代を偲びました。

当時のフェンロー事件のモニュメントなど、ちょっとした痕跡がないか探し回ったのですが、特に見つけることはできませんでした。バッカスのスーパーマーケットや魚専門店や近くの花屋の店員に聞いても、フェンロー事件自体、よくわかっていないようでした。
第二次世界大戦中、オランダの中立さえ危ぶまれた事件があった場所も、現在ではそれを知る人もあまりいないようです。しかし、現在は150年の歴史がある家族経営のお店として、オランダ、敵国だったドイツ双方の住民から慕われています。
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関連動画![]() |
1939年11月9日 独蘭国境でSSによるイギリス将校拉致、フェンロー事件の現場(@YouTube) |

中継地があり海上コンテナ貨物の姿も。
ヒトラー暗殺未遂事件と無関係だったフェンロー事件
フェンロー事件が起きた翌日、ヒトラー暗殺未遂事件を起こしたエルザーがドイツとスイスの国境で逮捕されます。エルザー、ベスト大尉、スティーヴンス少佐を尋問した結果、全くの無関係ということが判明します。
しかし、ヒトラーはフェンロー事件をオランダの中立に疑いがあるとして、オランダ侵攻の口実に利用とします。
しかし、フェンロー事件前に延期したオランダ、ベルギーを通過してフランスへ侵攻する黄色作戦ですが、作戦の性格そのものを変更させる事件が起こります。次の記事ではその事件現場を紹介します。

筆者と同じ時期にヨーロッパ旅行していた友人が撮影
<【第108回】オランダの戦い オランダの国運を握っている河川、港-その1
【第108回】オランダの戦い ヒトラー暗殺未遂事件の黒幕?独蘭国境の人質事件-その2
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