日本とも古くから結びつきが強い、海洋国家のオランダ
オランダはヨーロッパの中央に位置して、かつては海との関わり合いの大きい海洋国家として世界中に進出していました。しかし、同じ海洋国家のイギリス、戦争を繰り返してきた大国ドイツとフランスの間に挟まれて歴史に翻弄されます。
また、第二次世界大戦中、日本とオランダは、交戦国となりますが、その関係の歴史は非常に古いです。
日本とオランダの関係は、安土桃山時代の1600年、オランダの商船リーフデ号が、豊後国の臼杵(現在の大分県臼杵市)に漂着したことから始まります。その後、江戸時代に入り外交では鎖国政策を採る中、長崎の出島を通じてヨーロッパで唯一、国交のある国でした。
江戸幕府は、オランダから「オランダ風説書」によって国際情勢を知り、学問や技術を学び「蘭学」という学問が発展しました。
両国は地理的には遠いですが、その外交関係は400年以上の歴史があり、同じ海洋国家である日本と世界との貿易を担ってきたオランダは、類似点が多いかもかもしれません。
長崎の出島の動画 |
江戸時代、唯一の海外との玄関口長崎の出島① 外周を一周してみた(@YouTube) |
江戸時代、唯一の海外との玄関口長崎の出島②出島の中を散策(@YouTube) | |
江戸時代、唯一の海外との玄関口長崎の出島③主力輸出品だった銅(@YouTube) | |
江戸時代、唯一の海外との玄関口長崎の出島④船積みが行われた水門(@YouTube) |
貿易、物流と戦争という観点を中心にオランダを紹介したいと思います。
貿易と金融で栄えたアムステルダム
オランダは、1568年に始まったスペインからの独立を目指すネーデルランド独立戦争に勝利(1609年)。それまでは世界の貿易と国際市場の中心だったアントワープ(現ベルギー)に代わってアムステルダムが驚異的に発展します。
アジアを拠点とする貿易会社、オランダ東インド会社が設立されて、東南アジアのジャワ(インドネシア)のバタヴィア(ジャカルタ)を拠点に日本や東南アジアへ進出、当時、ヨーロッパで需要が高かった香辛料の貿易を独占します。金融ではアムステルダム銀行、証券取引所が設立され、貿易商人のための取引の場となりました。
香辛料に関しては、下記の動画で現物を紹介しています。
関連動画 |
名古屋港見学⑥ 名古屋港がよくわかる海洋博物館 後編(@YouTube) |
現在のアムステルダム中央駅の裏側は運河となっています。町の中心部から流れるアムステル川の河口となり、ここがかつてのアムステルダム港です。その河口近くにダムを造り、「アムステルダム川の堤防」がアムステルダムの由来になります。
アムステルダム中央駅から見て右側はアイセル港と言われる湖で、かつてはゾイデル海と呼ばれ北海と結ばれていました。アムステルダム港にはゾイデル海を通じて船が入出港していました。アムステルダム中央駅近くの科学博物館やヨットがある地区は東インド会社や海軍のドックがありました。
しかし、17世紀前半に最盛期を迎えたオランダも、航海法を巡るイギリスとの戦争による敗北。ヨーロッパでの嗜好品の人気が、香辛料から綿織物や茶に移ると、その生産地であるインドを抑えていたイギリスやフランスに世界貿易の主導権の座を奪われていきました。
しかし、バタヴィアではプランテーションが発展して、オランダとジャワでの航路によってアムステルダムは熱帯農産物の取引場として繁栄していきます。
19世紀に入ると船が大型化して、ゾイデル海の浅瀬が航行の障害となります。そこで1876年、北海に直接通じる「北海運河」が開通しました(アムステルダム中央駅から見て左側)。アムステルダムと北海を約21kmで結び、河口にはアイマウデン港が建設されます。戦間期の1932年、北海の荒波から守るため、北海とゾイデル海の間に締切防波堤が作られ、ゾイデル海は消滅してアイセル湖となります。
1940年5月、ナチスドイツのオランダ侵攻の際には、アイマウデン港からヴィルヘルミナ女王を始めとするオランダ王室がイギリスへ船で亡命しました。
ヨーロッパ最大の港湾都市、ロッテルダム
19世紀になるとライン川流域のドイツ西部のルール地方の炭田の開発が本格化して、工業地域が形成されていきます。ルール地域と北海を結ぶライン川の河口のロッテルダムの重要性が増してきます。
ロッテルダムはアムステルダムの南西に位置して、鉄道で約1時間の距離にあるオランダ、第2の都市です。
ライン川は、複数の国の領土を流れる河川に、すべての国の船舶の自由航行を国際条約で認められた国際河川です。海外から大型の船舶で輸入された貨物をロッテルダム港でバージ船、はしけと呼ばれる小型の船にロッテルダム港で積み替えて、ライン川を航行していきます。ライン川でコンテナなどを輸送した小型船の光景を目にすることができます。
国際河川のライン川については、「【第95回】ヨーロッパの中央に位置するドイツ物流の風景-その1」の記事をご参考ください。
ロッテルダムの街中にも運河があり、小型の貨物船が通ると橋が開くシーンを見ることもできます。
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ロッテルダム市内の水門。貨物船が通り水門が上がる光景(@YouTube) |
2022年の世界の港湾別コンテナ取扱ランキングで、世界10位を獲得し、ヨーロッパでは最大の取扱量を扱っています(1位から9位は全て中国とシンガポールの港湾)。ちなみに取扱量は日本の東京港の3倍に相当します。
関連動画 |
ロッテルダム港湾クルーズ コンテナターミナル(@YouTube) |
昭和天皇も皇太子時代に見学したロッテルダム港
第一次世界大戦後直後の1921年、皇太子だった昭和天皇が、欧州外遊でオランダを訪問した際はロッテルダム港湾の見学をしています。当時、拡張し続けるロッテルダム港を日本の皇太子に見せているところからも、オランダが国運をかけて国際物流を重視していかがわかります。
海路だけでなく、空路でもオランダのスキポール空港は、ヨーロッパ各地へフライトがあり、筆者も渡欧する際には乗り換えでよく利用しています。ヨーロッパの中央に位置して、大国に囲まれている資源の少ない小国のオランダは、経済的には物流、交通のハブとしての地位を確立しています。
まだ青年だった若き昭和天皇も、そんなオランダの国策の現場を実際に目で見てみて、当時の日本と重ねるところはあったのではないでしょうか。昭和天皇が港湾見学をした100年後、ヨーロッパ最大の港湾都市として発展しているところに、オランダの国策が長期目線で先見性があったことがわかります。
1921年の昭和天皇の欧州外遊については、下記の記事もご参照ください。
「【第14回】昭和天皇も訪れた第一次世界大戦の激戦地「ヴェルダン」-その1」
「【第14回】昭和天皇も訪れた第一次世界大戦の激戦地「ヴェルダン」-その2」
ロッテルダムについては、下記の記事で掘り下げて紹介します。
「オランダの戦い ナチスとアメリカに狙われた悲運のロッテルダム-その4」(近日公開予定)
そして、20世紀に入り、二度の世界大戦がヨーロッパを惨禍に巻き込みます。
ドイツ、フランスといった対峙していた大国に挟まれたオランダも時代に翻弄されていきます。
第二次世界大戦が始まると、中立を宣言するオランダ
第一次世界大戦では中立を宣言して、辛くも戦場となるのは免れました。
1939年9月、ドイツがポーランドに攻め込み第二次世界大戦が勃発すると、オランダは、周辺国のベルギー、ルクセンブルクと共に中立を宣言します。しかし、ドイツは交戦国だったフランスへ侵攻するルートの候補がオランダだったので、オランダへ侵攻する口実を虎視眈々と狙っていました。
第二次世界大戦のオランダというと、世界的にアンネ・フランクの一家が隠れていたことが世界的に有名です。ユダヤ人迫害が厳しくなったドイツから逃れてきた彼らにとっても、オランダは安住の地ではありませんでした。