
西部戦線への攻撃を急かしていたヒトラー
1939年9月、東部戦線でドイツがポーランドを攻略した後、西部戦線ではドイツは戦争状態にも関わらず、イギリス、フランスと戦闘が行われない、「奇妙な戦争」、「おかしな戦争」、「まやかし戦争」の状態が続いていました。
しかし、「【第108回】オランダの戦い ヒトラー暗殺未遂事件の黒幕?独蘭国境の人質事件-その2」でも触れましたが、戦争継続へ消極的だった国防軍の将軍と違って、ヒトラーは即時の西部戦線への攻撃を主張していました。
それはヒトラーにとって、自身も一兵士として参戦していた第一次世界大戦の記憶の影響が大きかったのです。

塹壕戦の膠着状態になり、戦争が長期化して前線の兵士の士気が下がっただけでなく、戦場ではない銃後の国民も長引く戦時経済に不満がたまりました。その結果、ドイツで革命が起きて戦争に敗れてしまいます。ヒトラーはそれを「背後からの一突き」と生涯、主張し続け、その屈辱を二度と繰り返さないことを信念とします。そのため、敵が態勢を整える前に奇襲をかけて、短期間で勝負をつけたいという気持ちが強かったのです。

背後からの一突きについては、下記の記事もご参照ください。
「【第55回】両大戦の転機となった軍港キールで、水兵が蜂起した痕跡を巡る」
また、ポーランドを即死させた、航空機と戦車が一体となり、敵の陣地を打ち破るスピードを重視した「電撃戦」は、長期戦による経済負担を軽減する理想的な戦法でした。
しかし、フランスへ侵攻する黄色作戦の実行日を1939年11月12日に決定したものの、作戦開始日は年が明けた1940年まで延びていました。理由は、決行直前にオランダ、ベルギーからの和平提案があったこと、更には空からの攻撃を重視する電撃戦を展開するためには天候が良好なことが条件にも関わらず、気象予想は曇りが続いていたためです。ヒトラーは、1940年1月10日の司令官を招集して、討議の上、新たに同年1月17日を黄色作戦の実行日と決めました。ヒトラーはこれ以上伸ばすことは絶対に許しません。

そんな時、ドイツにとって痛恨の事件が起こってしまいます。
戦争の計画書が奪われる不祥事が発覚
メヘレン、ドイツ軍機不時着事件
黄色作戦の実行日が、1月17日と決まった1月10日、黄色作戦の計画書が当時中立国だったベルギーの手に落ちる事件が起こります。
1月10早朝、操縦士と空軍の将校、1人を乗せて、ドイツ西部のミュンスターの空軍基地を飛び立ち、ライン川沿いのケルンへ向かっていたドイツ軍機メッサーシュミットBf 108の1機がオランダとの国境の街、マース川沿いのメヘレン村に不時着します。将校たちは現場に駆け付けたベルギー軍の兵士に捕らわれて、持参した計画書も奪われてしまいます。

翌1月11日、そのニュースを聞いたヒトラーは当然、激怒します。その時点では、作戦実行日の1月17日を変更する気はありませんでしたが、作戦の内容を変更きっかけとなり、史実に大きな影響を与えることになります。
顛末を掘り下げながら、ドイツ軍機が不時着した現場へ向かいます。
「【第108回】オランダの戦い ヒトラー暗殺未遂事件の黒幕?独蘭国境の人質事件-その2」でも触れましたが、マース川の一部はベルギー、オランダ国境を流れています。ベルギーのメヘレン村は、まさにその地域になります。
ベルギーのマースメヘレンへの起点となる街はオランダのマーストリヒト
ベルギーのメヘレン村に行くのに起点となる街は、オランダのマーストリヒトになります。
このマーストリヒトは、以前に紹介したベルギーのエバンエマール要塞に行く時、起点となった街でもあります。オランダの南東部に位置するフェンローと同じリンブルク州の州都となります。
エバンエマール要塞については、下記の記事をご参照ください。
「【第90回】半日で陥落したベルギーが誇った、エバンエマール要塞-その1」
「【第90回】半日で陥落したベルギーが誇った、エバンエマール要塞-その2 」
フェンローについては、下記の記事をご参照ください。
「【第108回】オランダの戦い ヒトラー暗殺未遂事件の黒幕?独蘭国境の人質事件-その2」
マーストリヒトはリンブルク州の中でも最南端とも呼べる場所に位置して、北部、西部、南部はベルギーと接して東部に少し行くとドイツになり、ヨーロッパの十字路となっています。その地理的条件から、1992年2月、現在のEU(欧州連合)の起源となるマーストリヒト条約が結ばれます。EUに加盟している国は、人、物、サービス、資本の自由な移動ができ、単一通貨ユーロの導入にもつながります。まさにEUはマーストリヒトから始まったといっても良いかもしれません。

エバンエマール要塞はマーストリヒトの南部に位置しますが、不時着事件があったマースメヘレン村は北部に位置します。
どこにある?不時着現場ベルギーのマースメヘレン
マーストリヒトからマースメヘレンへは鉄道が通っていないので、交通機関ではバスかタクシーで行くしかありません。マーストリヒトからマースメヘレンへはバスの路線便の本数が比較的あるので、バスで行くことをお勧めします。まさに国境をまたぐ国際路線バスです。
マーストリヒトからマースメヘレンへ行く国際路線バスは、63番(黄色)か44番(黄色)のバスになります。マーストリヒトを出るとベルギー領に入り、方向としてはベルギー、オランダ国境を流れるマース川に沿って運行します。不時着現場の最寄りのバス停は、「Rijksweg」になります。


ベルギーのメヘレンという都市は、アントワープ州にもありますが、その街とは違うので注意してください。不時着事件があったメヘレンはマース川沿いなので、「マース」が頭についています。ヨーロッパは国内で都市名が被る時、小さい方の街を川の名前を付けて呼ぶことが多いです。
例えば、ドイツにはユーロの中央銀行、国際線の玄関口となっているフランクフルトという大都市がありますが、ベルリン近郊のポーランドとの国境にフランクフルトという小さい街がありますが、その街を流れるオーデル川をとって、「フランクフルト、オーデル」と呼ばれていたりします。
参考までにフランクフルト、オーデル近郊にある史跡に関する記事です。
「【第27回】旧東ドイツにあるベルリン最終決戦の火蓋が切られたゼーロウ高地」
そこからマーストリヒト側を背にして、マース川が流れるオランダ国境に向かって、約30分弱ほど歩いて閑静な住宅を抜けた平原の中に、その現場はあります。


不時着した飛行機の型が作られ、説明文の碑とモニュメントがあります。

メヘレン不時着事件の当日
メヘレン不時着事件のことの顛末は、ドイツ空軍将校の横着から始まったミスなのです。
1月9日夕方、ミュンスターの空軍基地の将校クラブでヘルムート・ラインベルガー少佐とパイロットのエーリヒ・ヘーンマンス少佐が飲んでいました。翌日、ラインベルガー少佐はケルンで開かれる幕僚会議に出席予定でした。ミュンスターからケルンへ列車で向かうよう指定されていましたが、朝に飛行機で行く方が楽と考えて、ヘーンマンス少佐に依頼します。

ヘーンマンス少佐も個人的な依頼で飛行機を飛ばすことに抵抗を感じますが、ラインベルガー少佐にビールとソーセージをご馳走になり断れない雰囲気になってしまったのです。また、新型のメッサーシュミットBf 108のテスト飛行という名目と、ついでにケルン郊外にいる妻子にでも会ってこようと色気を出してしまいます。

古今東西、横着、気の緩み、色気は往々にして大きなミスや事故を起こしやすいものです。2人からもそんな空気が漂いますが、1月10日朝、2人は空軍基地を飛び立ちます。ミュンスターからケルンまでライン川を目指して飛行する予定でした。
ケルンがあるライン川を目指して飛行しますが、上空は次第に濃霧が発生、視界が悪くなりますがなんとか川を発見します。その時、運が悪いことにエンジントラブルが発生、不時着せざるを得なくなり、野原を見つけて、雑木林にぶつかりながらなんかとか不時着しました。飛行機は大破しましたが、2人はかすり傷程度でした。


2人に地元住人らしい人が近づいてきます。話しかけたらドイツ語が通じません。ライン川だと思い込んでいた川は、更に西側を流れるマース川だったのです。その瞬間、国境を越えてしまった大失態に気づきます。鞄にしまってあった、ベルギー、オランダへの侵攻計画書をマッチで燃やそうとしますが、背後に近づいてきたベルギー兵に取り上げられ、火を消されてしまいます。

1週間後のドイツ軍のベルギー、オランダ侵攻計画書が敵側に漏れてしまった瞬間でした。2人はメヘレンのベルギー軍の部隊本部に連行されます。そこでラインベルガーは警備の目を盗んで計画書をストーブに投げ込んで焼却しようとしますが失敗。その後、ブリュッセルの国防省に移送され尋問されます。
不時着事件による各国の反応
ドイツ
この事件の一報を知ったヒトラーは当然激怒して、空軍の幹部を解任させますが、黄色作戦の実行日を1月17日から変更させる気はありませんでした。その理由は、ブリュッセルでラインベルガーと面会したベルギーのドイツ軍の駐在武官から、侵攻計画書の文書の重要部分を燃やすことに成功したと本人から証言を得ていたからです。しかし、これはベルギー側の偽装工作でもありました。
ベルギー
侵攻計画書の大部分の内容を理解していたベルギー側も、不時着したドイツ軍の大佐たちはスパイで、偽の計画書を渡して攪乱させようとしていた疑念を持ちます。同じ中立国のオランダ、ドイツと交戦状態にあったイギリス、フランスにその情報を伝えます。これらの国々も偽の情報と断定しました。
フランスは中立国、ベルギーに進駐してドイツ軍と戦う計画を持っていたので、安易にベルギーの情報を鵜呑みにするわけにもいかなかったのです。中立国だったオランダ、ベルギーはドイツからだけでなく、連合軍のイギリス、フランスからも攻撃される可能性もありました。

侵攻計画書は本物でしたが、あまりにも露骨すぎるから信じられなかったのでしょう。それくらい不時着事件はありえない初歩的なミスだったのです。しかし、ベルギーはドイツ軍の侵攻に警戒を強めます。
ベルギーの田舎でブラック企業を連想
筆者はヨーロッパ中、様々な第二次世界大戦中のモニュメントを見てきましたが、墜落した飛行機の型版が作られているメヘレンのモニュメントは間抜けな様子に映ってしまいました。

普段は、筆者も貿易、物流業界で会社員として仕事をしていますが、横着をして楽をしようとすると往々にしてミスを犯してしまうものです。ましてや前日に飲んでいて、お酒の勢い約束し、列車移動を指定されていて、職権を乱用して飛行機移動など言語道断だと思います。そして、怒り狂うのは火を見るよりも明らかなのに、この事件を上司?であるヒトラーに最初に報告した人物の心中を察するといたたまれない気持ちになります・・。

オランダとの国境のベルギーの田舎の平原で、不時着した飛行機の型をみて、ナチスドイツをコンプライアンス意識が低い、ワンマン経営のブラック企業に見立ててしまうのでした。そう思ってしまうのは、もう一つの筆者の顔である会社員の性かもしれません!?

関連動画![]() |
ドイツ軍の西部戦線侵攻計画が発覚!?メヘレン不時着事件の現場。(@YouTube) |
不時着事件によってアルデンヌの森を突破する作戦が誕生
不時着事件によっても連合軍側が動かない雰囲気を察したドイツは、1月17日に黄色作戦を発動させる予定でしたが、またしても気象情報が芳しくなく、作戦の延期を余儀なくされます。また、ヒトラーは西ではなく、イギリス軍の進出が噂される北欧に目を向け始めていました。ヨーロッパ大陸の奇妙な戦争はしばらく続くことになるのです。

北欧の戦いについては下記の記事をご参照ください。北欧各国の記事のリンクも記事内にあります。
「【第57回】北欧戦跡の旅1:第二次世界大戦中のナチスドイツと北欧各国」
オランダ、ベルギーの平地地帯を通過してフランスヘ向かう計画は、古来、ドイツ民族がフランスへ侵攻するルートで、第一次世界大戦時のシュリーフェンプランと変わらないものでした。
不時着事件によって、相手方に作戦が漏れたという疑念も捨てきれなかったドイツ軍は作戦を練り直します。そこで生まれたのが、今までは侵攻ルートに適していなかったと思われた森林が多い、ベルギー南部、ルクセンブルクのアルデンヌの森を突破する作戦です(マンシュタイン計画)。

参考記事
「【第39回】ドイツ軍に敗れたフランスが誇る難攻不落の要塞、マジノ線」
斬新な戦術を好む傾向があるヒトラーもこの作戦を気に入ります。そして、北欧の戦いも無事勝利して、初夏の1940年5月、西部戦線では「奇妙な戦争」が終わりを告げます。
<【第108回】オランダの戦い オランダの国運を握っている河川、港-その1
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