ミュンヘン一揆から遡ること約1年前、イタリアのムッソリーニのローマ進駐に刺激されたヒトラーは、社会主義勢力が強いバイエルン州の古都コーブルクに党員を率いて乗り込みます。あまり知られていないコーブルク一揆とは?
ヒトラーの忠実な部下だったナチスNo.2のゲッベルス。しかし、ゲッベルスは最初からヒトラーに傾倒したわけではありませんでした。ナチスが勢力を拡大していた1920年代半ば、バンベルクという小さな街で2人は対峙します。
ヒトラーが自殺してナチスドイツが消滅したわけではありません。ヒトラーの遺言で後継者となったデーニッツ提督が終戦内閣を組閣、連合軍との降伏交渉に当たります。デンマーク国境との街、フレンスブルクに政府が置かれました。
1940年5月10日、硬直状態だった西部戦線でドイツ軍が攻勢に出ます。フランスのマジノ線は迂回しましたが、ベルギーのエバンエマール要塞は空挺部隊が制圧します。そのエバンエマール要塞の今は?
ドイツ国内にはヒトラーが定宿としていたホテルが無数にあって、ライン川沿いにも歴史的な会談の場所となったホテルがあります。本記事はライン川湖畔、ゴーデスベルクの高級ホテル、「ホテル・ドレーゼン」を紹介します。
腹心のパーペンを起用してもヒトラーの台頭を防げなかったヒンデンブルク。ヒトラーを認めてしまったポツダムの日、マールブルクにあるヒンデンブルクの墓の今を紹介します。
ヒトラーは選挙で合法的に政権を獲得した。そのヒトラーを利用しようとして、反対に利用されてしまった悲運の大統領ヒンデンブルクと副首相パーペン。彼らの痕跡をドイツのマールブルクとポツダムで巡ります。
レマーゲン鉄橋を確保したアメリカ軍、ナチスドイツの心臓部までもう少し。しかし、ライン川を超えて本格的に侵攻するためには、橋頭保が必要でした。そしてライン川の南部にドイツ軍からの死角の場所を見つけます。
コロナ禍後、2年9ヶ月ぶりとなる日本脱出。2022年秋、ドイツに10日間行ってきました。本記事は次回の記事以降の戦跡を紹介する前に、ドイツの様子や久しぶりの海外旅行に言及します。