【第100回】青年時代のヒトラーと親友グビツェクの友情 ウィーン編-その1|トピックスファロー

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2023年10月17日
【第100回】青年時代のヒトラーと親友グビツェクの友情 ウィーン編-その1

母親が亡くなりヒトラーはウィーンへ行くことを決意します。リンツ時代の親友、グビツェクもウィーンに呼んで同棲生活を始めます。リンツ同様、ウィーンでも2人は色々な所に行きました。そしてウィーンで彼らは別れたのでした。

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19歳ヒトラー、3度目のウィーン

前年のクリスマス前、最愛の母親クララを亡くしたヒトラーは、1908年2月、ウィーンへやってきます。19歳でしたの冬、ヒトラーにとって3度目のウィーンでした。

1度目は1906年、見聞を広めるためにウィーンに短期間滞在します。2度目は1907年、美術アカデミーを受験するために滞在しますが合格できませんでした。そして今回、再受験するためにウィーンにやってきたのです。

ウィーンの中心部にあるシュテファン教会ウィーンの中心部にあるシュテファン教会

そして、その1週間後、親友グビツェクもウィーンへやってきます。ヒトラーが音楽の才能があるグビツェクを音楽の都ウィーンで学ばせるため、ヒトラー自らグビツェクの両親を大説得して、ウィーンへやって来させたのです。

ヒトラーがウィーンで最初に住んだ家や不合格だった美術アカデミーなどは、本記事や拙著「ヒトラー野望の地図帳」でも紹介しています。アクセスやヒトラーの他の住居なども記載していますので参考にしてみてください。

【第33回】オーストリアの旅。ヒトラーの足跡を辿ってみる 青年時代編」編でも紹介しているので、ご参照ください。

今回の記事はヒトラーと親友グビツェクとの思い出の視点から紹介しますので、楽しんでいただければと思います。

ウィーンとの最初の出会いの場でもあり、別れの場でもあったウィーン西駅

リンツからやってきた列車でウィーンへやってきたヒトラー。到着したのは、ウィーンへの玄関口、ウィーン西駅でした。過去2度のウィーンへの旅もそうですし、また1週間後にやってきたグビツェクを迎えたのもウィーン西駅です。

グビツェクがウィーン西駅に降り立ったのは夜でしたが、ホームにヒトラーが出迎えに来ていました。その出で立ちは、黒いコート、黒い帽子、象牙のグリップがついたステッキで、リンツからやってきたグビツェクには品が良い都会風に見えたそうです。

そしてヒトラーとグビツェクはアーク灯が照らす駅前広場を通って、ウィーン西駅近くのヒトラーの下宿先へと向かいます。

ウィーン西駅ウィーン西駅。筆者もグビツェク同様、リンツから夜、ウィーン西駅へ到着

現在では国際列車などの長距離列車が発着するウィーンのメイン駅は、ウィーン中央駅になりますが、中央駅が開業する2014年まではウィーン西駅がその役割を担っていました。

現在でもウィーン西駅はリンツ方面の列車やオーストリア各地に行く列車が発着しますが、ヨーロッパ各地への国際列車が発着していた時代を知っていると寂しい感じがします。

閑散として少し寂しいウィーン西駅閑散として少し寂しいウィーン西駅

筆者にとってもヒトラー同様、ウィーンとの最初の出会いはウィーン西駅

大学生だった2001年、初めての海外旅行でヨーロッパの鉄道旅行をしていた筆者は、スイスのチューリッヒからの夜行列車でウィーン西駅に着きました。たまたま知り合い、シュテファン教会へ一緒に登った日本人の大学生の女性に、イタリアの水の都ベネチアが良かったと聞かされ、ウィーン西駅から夜行列車でベネチアへ旅立ちました。

ウィーン西駅から夜行列車に乗る筆者、2005年1月、2度目のウィーンウィーン西駅から夜行列車に乗る筆者、2005年1月、2度目のウィーン

ヨーロッパの鉄道が乗り放題のユーレイルパスを使い、当初、行く予定がなかったウィーンへやってきたのを思い出します。ヨーロッパの中央に位置するウィーンだからこそ、ヨーロッパの鉄道のハブとなり来やすかったのだと思います。

また、その時、シュテファン教会からウィーンの景色を見ながら、その女性も初めてのヨーロッパで、受験の時は日本史だったから世界史を選択すればよかったね、とお互い話していたのを覚えています。この時に現在の筆者の活動につながる思考が築かれたのかもしれません。

当時、シュテファン教会に登ってインスタントカメラで撮影した写真。2001年9月上旬当時、シュテファン教会に登ってインスタントカメラで撮影した写真。2001年9月上旬

関連動画
ヒトラーの青年時代を追う旅 ウィーン編①ヒトラーを迎えたウィーン西駅
ヒトラーの青年時代を追う旅 ウィーン編①ヒトラーを迎えたウィーン西駅(@YouTube)

ヒトラーとグビツェクが共同で住んだ家

グビツェクはウィーンでの下宿先が決まるまでは、ヒトラーが住んでいた下宿先に居候することになります。しかし、一時期な滞在のつもりが半年ほど共同生活を送ることになるのです。

ヒトラーの下宿先は、ウィーン西駅から徒歩10分ほどで着くことができる、シュトゥンパーガッセにあります。現在でもアパートとして住人が住んでいて、建物は残っています。

ヒトラーとグビツェクが一緒に住んだアパートヒトラーとグビツェクが一緒に住んだアパート

アパート付近からみたシュトゥンパーガッセアパート付近からみたシュトゥンパーガッセ

グビツェクがウィーンにやってきた日、夜にも関わらず、落ち着く間もなく、ヒトラーは中心部のリンク沿いにグビツェクを連れ出します。

シュテファン教会、国立オペラ劇場など今でもウィーンの観光名所となっている場所を見学させます。それだけヒトラーはグビツェクがウィーンにやってくることを待ちわびていたかがわかります。

観光客で賑わうウィーンの中心部観光客で賑わうウィーンの中心部

2人が住んでいた部屋は3階で、入ると石油の匂いがする、日の当たらない6畳ほどの部屋でした。

グビツェクはウィーンについて早々、音楽院を受験して一発合格。グランドピアノを購入して、この狭い部屋に置きます。そして2人は共同生活しますが、ヒトラーは考え事をしながら歩き回るのが日課だったので、どれだけ窮屈な生活を送っていたかは想像がつきます。

ヒトラーはグビツェクの音楽院への一発合格を知ると、

「僕にそんな優秀な友達がいたなんて全然知らなかったよ」

とそっけなく言います。

ヒトラーはグビツェクに造形美術アカデミーに落ちたことを打ち明けていませんでした。

イントロダクション

ヒトラーとグビツェクが一緒に住んでいたアパート
住所   :STUMPERGASSE 31

関連動画
ヒトラーの青年時代を追う旅 ウィーン編②ヒトラーが親友グヴィツェクと同棲していたアパート
ヒトラーの青年時代を追う旅 ウィーン編②ヒトラーが親友グヴィツェクと同棲していたアパート(@YouTube)

ヒトラーが不合格になったウィーン美術アカデミー

ヒトラーが2度落ちたウィーン美術アカデミーは中心部にあり、ガイドブックにもヒトラーが受験した不合格だったと記されていることもあります。

ウィーン美術アカデミーは1692年に創立、1998年に大学としての教育課程を創設しますが、「大学」という呼称は使用せず、ヒトラーが受験した当時のように「ウィーン美術アカデミー」と名乗っています。

ウィーン美術アカデミーウィーン美術アカデミー

前回訪問時は時間がなかったので中に入りませんでしたが、今回は中に入ることができました。

内部内部

内部内部

音楽学院に合格したグビツェクは学生特権で、ウィーン大学の安い価格で食券が買えたので、それをヒトラーに分け与えていました。ヒトラーは時々それを使い、ウィーン大学の食堂を利用して食べていたそうです。

本来、ヒトラーも造形芸術アカデミーの学生なら、ウィーン大学の食券を安く入手することができたでしょう。親友のグビツェクに分け与えられるヒトラーのプライドは如何なものだったか想像がつきます。また、グビツェクも共同生活をしているうちに、ヒトラーが学生ではないことは察するようになっていたようです。

ヒトラーの食生活は質素でしたが、甘いものが好きでウィーン名物のケーキ、クルミ入りトルテが大好物だったようです。

学食で筆者が食べたスイーツ学食で筆者が食べたスイーツ。
料理の専門家の読者の方が調べてくださり、トルテではなく、ビーネンシュティッヒというお菓子とのことです。

ウィーンの老舗、デーメルで食べたアーモンド入りトルテウィーンの老舗、デーメルで食べたアーモンド入りトルテ。
ヒトラーの好物だったクルミ入りのトルテとこれが似ているかもしれません。

今回動画でウィーン美術アカデミーの内部に入り、学食でトルテに似たスイーツを食べてきました。実際にヒトラーがお昼ご飯を食べるために通ったウィーン大学ではありませんが、雰囲気を感じ取ってもらうためにご覧にいただければと思います。

ウィーン美術アカデミーの学食兼カフェウィーン美術アカデミーの学食兼カフェ

関連動画
ヒトラーの青年時代を追う旅 ウィーン編④ヒトラーが落ちたウィーン美術アカデミー。学食でヒトラーがよく食べていたお菓子を食べてみた。
ヒトラーの青年時代を追う旅 ウィーン編④ヒトラーが落ちたウィーン美術アカデミー。学食でヒトラーがよく食べていたお菓子を食べてみた。(@YouTube)

「【第100回】青年時代のヒトラーと親友グビツェクの友情 ウィーン編」は、4ページ構成です。
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> 【第100回】青年時代のヒトラーと親友グビツェクの友情 ウィーン編-その3
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【連載】ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡(第1回~第100回)

著者:ヒロマル

戦争遺跡ライター
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1979年神奈川県生まれ、神奈川県逗葉高校、代々木ゼミナールで1浪、立教大学経済学部卒業。

大学在学中からヨーロッパ、アジアなどを海外放浪してハマってしまい、そのまま新卒で就職せずフリーターをしながら続ける。その後、会社員生活をしながらも休み、転職の合間を利用して海外放浪を続ける。50ヶ国以上訪問。会社の休暇を利用して年に数回、渡欧して取材。

2012年からライター業を会社員との二足のわらじで開始。
2014年からwebメディア(株)フォークラスのTOPICS FAROで2つのシリーズを連載中。

▼もんちゃんねる(You Tube)
https://www.youtube.com/channel/UCN_pzlyTlo4wF7x-NuoHYRA

▼「ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡」シリーズ
https://topicsfaro.com/series/warruins
ヨーロッパ各地を取材し、第二次世界大戦に関する場所を紹介。
軍事用語などは極力省き、中学レベルの社会の知識があれば楽しめる記事にしています。
同シリーズが2017年に書籍化。
「ヒトラー 野望の地図帳」(電波社)から全国書店の世界史コーナーで発売中。

▼「受験に勝つ!世界史の勉強法」シリーズ
https://topicsfaro.com/series/wh
2018年から主に世界史を中心とした文系の勉強方法について執筆。
大学受験だけでなく、大学生や社会人の大人の教養としての世界史の勉強方法にも触れて、
高校生、大学生、社会人とあらゆる世代を対象としています。

世間の文系離れを阻止して、文系の学問の復権に貢献することが、2つの連載の目的です。

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