ヒトラーがヒトラーになった瞬間、フラインベルクの丘
あるどんよりとした1906年11月の夜、17歳のヒトラーと18歳のグビツェクは歌劇場で、初めてリヒャルト・ワーグナーの「リエンツィ」を鑑賞します。
劇の筋書です。
「時代は古代ローマ。貴族による腐敗した政治に民衆の不満が爆発、そこで護民官のリエンツィが立ち上がり、ローマの自由を宣言。リエンツィは民衆を率いて貴族と戦い打ち破る。しかし、貴族達は教会勢力を抱き込んで反撃、民衆もリエンツィを裏切る。リエンツィの民衆への訴えも空しく、リエンツィは猛火の中、宮殿の下敷きになり絶命。」
2人は激しい衝撃を受けて無言のまま、劇場を後にします。
普段ならヒトラーが上演の批評を一方的に語るのですが、この日だけは黙ったままでした。グビツェクが話しかけると、
「黙っていてくれないか!」
敵意込めて、つっけんどんに言い返します。
2人は、沈黙の中、冷たい霧が覆う、歌劇場の横から伸びるフラインベルクの丘に通じる道を歩いていき山頂に差し掛かります。
その時、ヒトラーがグビツェクの両手をしっかり掴み、興奮しながら熱に浮かされているように、かすれた声で語り始めだします。
それは完全な陶酔と狂喜の状態で、「リエンツィ」で体験したことを直接言及はせず、ヒトラー自身に合った別の次元に移していました。
この時、自分が民族を開放する護民官になるという特殊な使命がヒトラーの中に誕生したのです。
この頃は政治家を志していたのではなく、芸術家を目指していました。芸術家としての使命を感じ取っていたのかもしれませんが、この使命感は政治家になっても終生変わることはありませんでした。
夜中の3時をまわっていました。ヒトラーはグビツェクに別れの握手をした後、「1人にしていてくれないか」と言って街には戻らず、フラインベルクの丘を1人で歩いて行ったのです。
その後、ヒトラーがグビツェクにフラインベルクの丘での体験を語ることはありませんでした。しかし、33年後、総統の客としてバイロイトのワーグナーの音楽祭に招かれた時、グビツェクはこの日の体験をヒトラーに尋ねました。
ヒトラーははっきり覚えていて、細かい点まで正確に覚えていたのです。そして最後にこう結びました。
「あの瞬間に始まったのです。」
第二次世界大戦が始まる約1ヶ月前のことでした。17歳の寒い冬の夜、リンツのフラインベルクの丘でヒトラーがヒトラーになったのです。
バイロイトでのヒトラーとグビツェクについては、「【第94回】ヒトラーが愛したワーグナーの聖地、バイロイト」をご参照ください。
今でも歌劇場から徒歩圏内の「ヒトラー」が生まれたフラインベルクの丘
フラインベルクの丘は現代でもリンツにあります。歌劇場の右横から伸びて坂道になっているレーマー通りを歩いていくことができます。家々が立ち並ぶ坂道を15分ほど登ると、フラインベルクの丘の入口につきます。山というよりは坂の上にある丘という表現がふさわしいです。
山林に道が無数ありますが、フラインベルク自体はそれほど広くないので、昼間なら道に迷うことはないと思います。見晴らしもよくヒトラーが「リエンツィ」を熱く語ったと思われる、山頂付近からはリンツの市街とドナウ川を一望できます。
しかし、もしヒトラーとグビツェクのように、冬の夜中に散歩したとなると、街灯もありませんし、少し物騒かもしれません。夜は真っ暗で視界もほとんど見えない状況だったと思いますが、それでもヒトラーは「リエンツィ」に魅せられて、グビツェクと分かれた後も1人で真夜中の山道を歩いたそうですが、それだけ周りが見えないほど「リエンツィ」が憑依していたのでしょう。いくら2人の地元だからといって、街灯がない夜中の山道を歩くというのは普通の精神状態ではないですから。
関連動画 |
ヒトラーの青春を追う旅 リンツ編⑥ ヒトラーがヒトラーになったフラインベルクの丘、「あの時に全てが始まった!」(@YouTube) |
ヒトラーが母親を看取った家
初恋、ウィーンへ受験の旅、リエンツィの体験など、青年ヒトラーはリンツで後の人生の原点となるような体験をしますが、最大の転機が訪れます。
それは最愛の母、クララの死でした。
「リエンツィ」の経験から約2ヶ月後の1907年1月、母親クララが乳がんであると告知されます。
そんな病状のクララの行き来の負担を軽くするため、1907年の5月か6月頃、フンボルト通りの3階の家からドナウ川を渡って対岸にあるウールファール地区の2階建ての家に引っ越します。
初夏、ヒトラーはクララの病状を気にかけながらも、ウィーンの造形美術アカデミーを受験するためにヒトラーはウィーンへ旅立ちます。ヒトラーは芸術家になってリエンツィのような護民官になるという決意は固かったのかもしれません。しかし、10月に行われた試験には不合格となってしまいます。
更にヒトラーに追い打ちをかけたのが、クララの病状の悪化の連絡でした。急いでリンツに戻ったヒトラーは献身的にクララを看病します。主治医のユダヤ人のブロッホ博士(後年名誉アーリア人としてヒトラーに庇護される)もヒトラーの母親への深い愛情を回想しています。
しかし、そんなヒトラーの献身的な看病も実らず、12月21日、クララは息を引き取ります。
この日の午後、グビツェクの家にヒトラーが1人やってきます。動揺して疲れ切った顔からグビツェクは事の事態を一瞬で把握します。
葬儀は12月23日でした。グビツェクは母親と2人で参列します。ちなみにヒトラーとグビツェクの母親同士は、直接の面識はなかったようです。
クララの棺は家から教会へ運び出され、死者のミサが行われます。家の近くのハウプト通りを葬列し、霊柩車でリンツ郊外のレオンディングの父親アロイスの墓地に運ばれました。
近所と親類の僅かな参列者のわびしい光景を見たグビツェクの母親は、「明日はクリスマスだから、皆さん忙しいのよ」と庇ったそうです。
翌日、グビツェクの母親は、ヒトラーの身を案じて、我が家のクリスマスに招待しようとします。ヒトラーは断り、その日の晩はずっと歩き回っていたようです。フラインベルクの丘にでも行っていたのでしょうか・・・・。
現存するヒトラーの母親が息を引き取った家
リンツで2番目にヒトラー一家の住まいとなり、母親のクララが息を引き取った家は現存します。
リンツ側からドナウ川を架かる橋を渡ると、クララの葬儀の参列が行われたハウプト通りにでます。橋を渡って右側の6番目の道沿い(ブリューテン通り)に家があります。
車が行き交う騒がしいフンボルト通りの家と比べると小道なので落ち着いた感じがします。
病床のクララには以前の家より静かに暮らせたかもしれません。
ブリューテン通りの左側に家があります(住所 ブリューテン通り 9番)。当時は2階建ての建物でしたが、近年改築されて4階建てになっています。若干、高級感が漂う建物で家賃もフンボルト通りよりも高かったといいます。
ヒトラー一家は2階中央の3部屋を借りて、クララが息を引き取ったのは、バルコニーの右側の部屋になります。
関連動画 |
ヒトラーの青春を追う旅 リンツ編⑤ ヒトラーが最愛の母親を看取った家(@YouTube) |
母親の死の悲しみに浸るまもなく、ヒトラーは翌年1908年の2月、受験へ再挑戦するためにウィーンへ向ったのです。
「【第99回】青年時代のヒトラーと親友グビツェクの友情 リンツ編」は、3ページ構成です。
「その1」から順に読んでいただくと、より楽しんでいただけると思います。
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【第99回】青年時代のヒトラーと親友グビツェクの友情 リンツ編-その3
同シリーズが「ヒトラー 野望の地図帳」として書籍化
同シリーズが書籍化され、各書店の歴史の棚の世界史やドイツ史のコーナーに置かれています。web記事とは違う語り口で執筆していて、読者の方々からは、時代背景が簡潔でわかりやすい、学者とは違うテイストが新鮮、という感想をいただいております。
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