ウィーン時代のヒトラーのお気に入りの建物
シュバルツェンベルクの噴水
ヒトラーとグビツェクは、国立オペラ座でのオペラ鑑賞の休憩中、近くのシュバルツェンベルク広場によく行きました。
ヒトラーは、この広場にある夜の闇に照らされた噴水がお気に入りでした。水しぶきが絶え間なく吹きあがり、様々な色にライトアップされてこの世のものとは思えない、幻想的な雰囲気を醸し出していたのです。
シュバルツェンベルク広場とその噴水は、現在でも存在しています。場所は国立オペラ座からリンク沿いに徒歩10分くらいの距離です。途中、ヒトラーがオーストリア併合時に宿泊したホテル・インペリアルを過ぎたところの交差点を右側に曲がると、シュバルツェンベルク広場につきます。
筆者が訪問した時はお昼でしたが、夜は当時のように様々な色にライトアップして、観光客や市民を楽しませてくれているようです。広場に着いて驚いたのは、噴水の後方に何やら旗を持った兵士の像らしきものが見えたことです。なんとソ連軍兵士を称える記念碑でした。
ウィーンは1945年4月2日から13日にかけてのソ連軍によるウィーン攻勢によって、ドイツ軍から解放されました。しかし、オーストリアの人々にとって「解放」という表現が合っているのかは難しいところです。
なぜなら、1938年のドイツとの併合時、ほとんどの国民が合併に賛成して同一民族でもあるドイツとの併合を喜んでいたからです。前回のウィーン訪問の記事「【第37回】ウィーンにあるナチス時代の痕跡を巡ってみよう」でも書きましたが、オーストリアはナチスドイツの被害者であると同時に加害者という側面もあるのです。ウィーンの軍事博物館にはその経緯が詳しく展示されています。
まさかヒトラーも自分の青年時代にお気に入りだった場所に、国自体を地球上から抹殺するために攻めていったソ連の記念碑が建てられるとは思ってもみなかったことでしょう。
もちろん、ソ連側も戦後、ヒトラーの親友の手記に少し紹介されていただけの青年ヒトラーのお気に入りの場所だったから、記念碑を立てたわけではないでしょうが歴史の皮肉を筆者は現地で感じました。
昨今(2023年10月現在)、ロシアによるウクライナ侵攻でロシアへの風当たりが強く、ヨーロッパ各地でロシアやソ連に関するモニュメントが撤去されたというニュースも耳にします。シュバルツェンベルク広場の記念碑は危害が加えられている様子もなく、しっかりと手入れされているようでした。
しかし、筆者も現地では気が付かなかったのですが、動画や写真を見返したら、記念碑の後方に「青」と「黄色」のウクライナ国旗カラーの垂れ幕のようなものが確認できました。記念碑に対して手荒いことはされていませんが、ロシアに対するオーストリアの無言の反応が現れているような気がしました。
関連動画 |
ヒトラーの青年時代を追う旅 ウィーン編⑤ ヒトラーのお気に入りの噴水、しかしその前にはソ連軍を讃える碑が…(@YouTube) |
これこそドイツ人のウィーンだ!
ヒトラーは民族のるつぼだったウィーンを嫌がっていました。彼は、オーストリアはドイツ人のものだと考えていました。
ある日、ヒトラーはグビツェクを連れて、1452年頃に完成した十字架のスピナーと呼ばれる、シュピンネリン・アム・クロイツ記念柱を見に行きます。設計者はシュテファン教会と同一人物といわれています。
この石の記念碑を見て、ヒトラーは近くにいたイタリア人労働者に聞こえるように、
「これこそ、ドイツ人のウィーンだ!」
と叫びます。
「ドイツ人のウィーン」
ヒトラーの口癖でした。
筆者がシュピンネリン・アム・クロイツ記念柱の少ない情報を調べる限り、ドイツ的という根拠がわかりません。設計者はチェコ出身です。ヒトラーが拒否反応を示す異民族になります。ちなみに親友のグビツェクもルーツはチェコ系だそうです。
ナチスは、アーリア人という中央アジア系の種族こそ、金髪、碧眼、長身のゲルマン民族の源泉と唱えていましたが、科学的に根拠がありません。インドやイラン周辺の民族とヨーロッパの民族を混同して解釈していたのは、誰が見てもしっくりきません。
自分にとって都合の良いものはドイツ人、アーリア人と勝手に解釈する妄想が当時からあったものと思われます。
シュピンネリン・アム・クロイツ記念柱は現在でもウィーン市内にあり、2人が住んでいたシュトゥンパーガッセのアパートから歩くと1時間半近くの距離になると思います。
最寄り駅は、SバーンのMatzleinsdorfer Platz駅になります。そこから伸びるトリエスター通りをひたすら歩いていくと記念柱が見えてきます(徒歩20分くらい)。周囲は大通りに面した住宅街のような場所にポツンと建っており、これをついでに見に来る観光客なんていそうもない雰囲気を出しています。
関連動画 |
シュピンネリン・アム・クロイツ記念柱 ヒトラーの青年時代を追う旅 ウィーン編⑥ ヒトラーが、これこそドイツ人のウィーンだと絶賛した柱(@YouTube) |
「【第100回】青年時代のヒトラーと親友グビツェクの友情 ウィーン編」は、4ページ構成です。
「その1」から順に読んでいただくと、より楽しんでいただけると思います。
< 【第100回】青年時代のヒトラーと親友グビツェクの友情 ウィーン編-その1
< 【第100回】青年時代のヒトラーと親友グビツェクの友情 ウィーン編-その2
【第100回】青年時代のヒトラーと親友グビツェクの友情 ウィーン編-その3
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