その後のヒトラーとグビツェク
ウィーンでの2人の別れ
シュトゥンパーガッセのアパートで共同生活をしていたヒトラーとグビツェクに別れの時がやってきます。
同棲を始めてから約半年経った1908年7月、グビツェクは一旦故郷のリンツに帰ることになります。ヒトラーは秋の美術アカデミーへの再受験のため、ウィーンに留まりました。
ウィーン西駅までグビツェクを送ったヒトラー。それほどセンチメンタルな別れではなかったようですが、別れ際、グビツェクと両手でがっしり握手をします。その後、一度も振り向かず足早に出口に向ったのでした。
それから彼らが再会するまで約30年かかりました。
グビツェクがリンツに帰郷した直後は手紙のやり取りが続いていましたが、1908年11月にウィーンのシュトゥンパーガッセのアパートに戻ったらヒトラーは蒸発していました。
家主に聞いても行き先は知らないと言われ、グビツェクはリンツのヒトラーの親戚を訪ねたりしますが、行方はわかりません。この年の美術アカデミーの再受験にも失敗したヒトラーはグビツェクに合わせる顔がなかったのでしょう。
筆者もこの気持ちは痛いほどわかります。大学受験は志望校に2年連続で落ちていますし、また恥ずかしながら大学の留年が決まった時は、惨めさで同級生と連絡を取らなくなってしまい、それ以来になってしまった同級生もいます。
グビツェクもそれを察してか、行方を探すのを諦めます。
シュトゥンパーガッセのアパートを出てからのヒトラーの様子は、「【第33回】オーストリアの旅。ヒトラーの足跡を辿ってみる 青年時代編」編をご参照ください。
ヒトラーはウィーン中を転々としていたのです。グビツェクもウィーンで音楽院の学生として過ごしていましたが、出会うことはありませんでした。
30年ぶりの再会
ヒトラーもグビツェクも兵士として従軍した第一次世界大戦後(ヒトラーもグビツェクもお互い戦場では瀕死の重傷を負う)、グビツェクは家族を持ち、役所で働きながら、その傍らで地味に音楽活動もしていました(現代風でいえば、二足の草鞋、副業でしょうか)。
グビツェクは、隣国ドイツで「ヒトラー」という新進気鋭の政治家の噂は聞いていましたが、ヒトラーという姓は当時珍しくなかったので、特に気に留めていませんでした。
ある日、本屋のショーウインドーの雑誌にそのヒトラーという政治家の写真が掲載されているのを目にします。
アドルフだ!
一目でわかりました。
ウィーン西駅での別れから15年、顔つきはたくましくなり成熟した感じを受けましたが、ヒトラーの本質的な顔立ちは変わっていませんでした。おそらくミュンヘン一揆の直前くらいの頃だと思います。
しかし、グビツェクは、政治家として別の道を歩んでいるヒトラーとコンタクトを取ることはしませんでした。一市民として暮らしているグビツェクにとってヒトラーは別の世界の人間だったのです。
時は流れ1933年1月、ついにヒトラーは念願のドイツで首相になり政権を取ります。
グビツェクはそのニュースを知ると、フラインベルクの丘で「護民官になりたい」と言った、16歳の冬の夜の経験を思い出します。
グビツェクは友人として、ささやかな数行の祝福の手紙をすぐに書きます。
その年の8月、ヒトラーから返信がありました。
ヒトラーもグビツェクから25年ぶりに手紙をもらって大喜びだったのです。返事を出すのに半年以上かかったのは、首相就任以来、何十万通の手紙をもらっていたので、その中に埋もれてしまったからでした。
グビツェクと過ごした時間を生涯で最も美しい時代の思い出と語り、グビツェクは途方もない喜びを感じたのでした。
それから更に5年、ついにグビツェクはヒトラーと30年ぶりに再会するときがやってきます。
1938年3月、オーストリアを併合した際、ヒトラーは故郷リンツに凱旋しますが、その時はグビツェクの仕事の関係で会えませんでしたが、翌月、ヒトラーは再びリンツにやってきます。
その際、グビツェクはヒトラーが宿泊していたホテル・ヴァイチンガーに約束なしに出向きます。警備の突撃隊員は怪訝な対応をしますが、ヒトラーからの直筆の手紙を見せて事態が一変しました。今やドイツの総統であり、2人の故郷オーストリアさえも支配する存在となったヒトラーと会える約束をこぎつけたのです。
翌日、再びホテル・ヴァイチンガーに出向きます。
1940年4月9日、ウィーン西駅で別れてから約30年、ついに2人は再会します。お互い50歳前後という年齢になっていました。
ロビーで待っていたグビツェク、ヒトラーはホテルの一室から現れます。
「おお!グストルがいる!」
※グストルとはグビツェクのあだ名
喜びに声を弾ませて、グビツェクの差し出した右手を両手でがっちり握手します。
その後、側近、護衛を一切つけず、なんと2人だけで部屋に入り、積り積る昔話、近況について語り合います。別れ際、ヒトラーはこれからも私たちは頻繁に会う必要があると語ったそうです。
この再会のシーンはヒトラーもどれだけグビツェクと再会できて嬉しかったか想像に難くありません。ヒトラーもグビツェクに、なんでもっと早く会いに来てくれなかったんだ?と聞いています。筆者も大学を留年した時、連絡を取らなくなった同級生と再会できたらと思ってしまうのです。
グビツェクの回想録に言及されていませんが、グビツェクはウィーンでヒトラーが蒸発した理由を本人に聞いたのかでしょうか。それは聞かなかったと思います。この質問はヒトラーにとっては野暮ですし、空白期間があるとはいえ親友だからこそ、お互いの触れてはいけないことというのは暗黙の了解だったと思います。それは皆さんの友人との関係と照らし合わせてもわかるのではないでしょうか。
「【第33回】オーストリアの旅。ヒトラーの足跡を辿ってみる 青年時代編」や、拙著「ヒトラー 野望の地図帳」ではウィーンのホテル・インペリアルで再会したと記載しましたが、実際にはリンツのホテル・ヴァイチンガーで再会していました。
ホテル・ヴァイチンガーは現存しませんが、場所はヒトラーが父親アロイスに職場見学をさせられた建物の隣にあったようです。
「【第96回】ヒトラーが生まれたブラウナウを再訪。改装直前?の生家の現状」編もご参照ください。
1939年、ヒトラーから2人の夢だったワーグナーの聖地、バイロイトでの音楽祭に招待されます。
その時、グビツェクはヒトラーに問いかけます。
あのフラインベルクの丘での夜のことを覚えているかい?
ヒトラーはそのことを詳細に覚えていました。グビツェクが覚えていたことにも大変喜びます。
「あの瞬間に始まったのです!」
第二次世界大戦が始まる約1ヶ月前でした。
その後、翌年の戦時下でのバイロイトの音楽祭で再会したのが最期となります。
バイロイトでの2人については、「【第94回】ヒトラーが愛したワーグナーの聖地、バイロイト」編をご参照ください。
ヒトラーの人生は常にグビツェクが必要だった?
青年時代のヒトラーと親友グビツェクの友情 リンツ編とウィーン編は、グビツェクの回想録「アドルフ・ヒトラーの青春 親友グビツェクの回想と証言」で筆者が印象に残った部分をピックアップして可能な限り、現場まで足を運びました。
革命家、政治家、戦略家であり、独裁者として第二次世界大戦、ホロコーストを引き起こしたヒトラーとはいえ、人間的な部分があるはずなので、筆者自身の人生と重ね合わせてみたりヒトラーになったつもりで散策、執筆してみました。
恋愛、共通の趣味オペラ、お互いの家族との交流、上京、受験、挫折、世の中への疑問
ヒトラーは、どの時代、どの国の若者が経験、感じることをグビツェクとの親交の中で育んでいきました。読者の皆さんも共感できた部分はありましたか?
最後に2人の関係から後年のヒトラーへの地盤が、既に築かれていたことをお話ししたいと思います。
なぜ我の強いヒトラーは、大人しいグビツェクと共同生活をするほど親友の関係を築けたのでしょうか。皆さんの周り、もしくは皆さん自身で全く正反対の性格の人と親友関係を築いていることが多々あるかと思います。
ヒトラーが政治家になり、ナチスを拡大して政権を取る過程、その後、他国を侵略して戦争を始めて負けて自殺するまで、妥協というものがヒトラーの中にはほとんどありませんでした。
自分の考え、理念を一切曲げないのです。ナチスの党首になる過程でも異なる思想の党員との妥協はしませんでしたし、首相になってからも外交政策ではヒトラーの頭の中で描く通りに進んでいきました。
しかし、無謀な他国侵略に国際批判を招くと、再三警告した軍人達からの反対意見も一切耳を傾けません。戦争が始まってからも状況は似たようなもので、最期が近づくベルリンの地下壕では、私の墓には、無能な将軍に囲まれた可哀想な指導者と記してくれと言い放っています。
ヒトラーが政治家、独裁者として常に周りに求めていたのは、グビツェクそのものだったのです。彼は従順で常に自分自身の言うことを、ハイハイと聞いてくれる存在でした。
ヒトラーが自分と意見が違う側近や将軍をどんどん更迭していったのも、青年時代、グビツェクという従順な親友がいたからこそ、独裁者としての下地が作られたのかもしれません。
ヒトラーはソ連軍が迫りくるベルリンの地下壕で、グビツェクにいつも語っていた故郷のリンツの都市改造の模型を見て目を輝かせていました。
最期までグビツェクに語った、人生で最も美しい時代に浸っていたのです。
今回のオーストリア渡航やヒトラーの青年時代について筆者自身の顔を出して動画でも語っています。
関連動画 |
26回目の渡欧、4回目のオーストリア。ヒトラーの子供時代を追う旅 総括(@YouTube) |
「【第100回】青年時代のヒトラーと親友グビツェクの友情 ウィーン編」は、4ページ構成です。
「その1」から順に読んでいただくと、より楽しんでいただけると思います。
< 【第100回】青年時代のヒトラーと親友グビツェクの友情 ウィーン編-その1
< 【第100回】青年時代のヒトラーと親友グビツェクの友情 ウィーン編-その2
< 【第100回】青年時代のヒトラーと親友グビツェクの友情 ウィーン編-その3
【【第100回】青年時代のヒトラーと親友グビツェクの友情 ウィーン編-その4
同シリーズが「ヒトラー 野望の地図帳」として書籍化
同シリーズが書籍化され、各書店の歴史の棚の世界史やドイツ史のコーナーに置かれています。web記事とは違う語り口で執筆していて、読者の方々からは、時代背景が簡潔でわかりやすい、学者とは違うテイストが新鮮、という感想をいただいております。
歴史好きはもちろん、ちょっとマニアックなヨーロッパ旅行をしたい方々の旅のお供になる本です。
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