ヒトラーがムッソリーニと会談したブレンナー峠
オーストリアとイタリアであるブレンナー峠に、ヒトラーとムッソリーニが幾度となく会談した駅があります。
ナチスドイツとイタリアは国境が接していませんでしたが、1938年、ドイツがオーストリアを併合して以降、ナチスドイツとイタリアは国境を接することになります。その1つが現在、オーストリアのチロル州とイタリアのボルツァーノ自治県の間に位置するブレンナー峠です。
第二次世界大戦の勃発以降、ヒトラーとムッソリーニは幾度となくお互いブレンナー峠の国境駅までやってきて会談を行いました。
筆者はドイツとの国境であるザルツブルクから、イタリアとの国境のブレンナー峠に向かいました。列車でザルツブルクからブレンナー峠まで直通列車はなく、一度インスブルクで乗り換えます(ザルツブルクから約1時間45分)。インスブルクからイタリアのヴェローナまでの路線(ブレンナー線)に乗り換えてアルプスの車窓を眺めながら約30分でブレンナー駅に着きます。
アルプスの山々に囲まれたブレンナー駅はイタリア国内になり、国境駅ということでドイツ語、イタリア語の2ヶ国表記となっています。両国の国境は駅のホームの北側先端になります。駅前はカフェなどがいくつかありますが、ブレンナー峠は昔からイタリアと北東ヨーロッパを結ぶ通過地点の街なので、観光地化されているといった感じはしません。
駅は3番ホームまであり、出入り口は駅舎のホームに1ヶ所、3本の通過線路を挟んで島式のホームがあります。ホーム間は地下で移動することになります。
ヒトラーとムッソリーニの専用列車は、駅舎のホームに到着して、ムッソリーニの専用列車で会談が行われました。ヒトラーが専用列車から降りてきて、ムッソリーニの専用列車の近くに来た時、ムッソリーニは下車して握手します。ムッソリーニは自分の方が格上という意思の表れでした。しかし、会談は常にヒトラーが主導権を握っていました。
1940年3月18日
第1回 ブレンナー会談
(背景)
前年、ドイツはポーランドに侵攻してイギリス、フランスと開戦。しかし、ポーランドを降伏させてから、西部戦線ではドイツ軍とイギリス、フランスの連合軍がほとんど交戦せずに睨みあう状態が続いていました(奇妙な戦争)。しかし、ヒトラーはフランス侵攻を虎視眈々と狙っていました。そのために同盟関係にあるイタリアにも参戦してほしかったのです。しかし、ムッソリーニは準備不足を理由にのらりくらり断っていました。
そんな中、西部戦線で攻勢をかける直前、ヒトラーはムッソリーニを直接、参戦へ口説くために、ブレンナー峠で会談の場を設けたのでした。ヒトラーは、ドイツの優位性、強大な軍事力を力説しますが、ムッソリーニは沈黙、ムッソリーニから参戦の確約を取ることはできませんでした。
1940年10月4日
第2回 ブレンナー会談
(背景)
第1回ブレンナー会談から約7ヶ月後、ドイツは西部戦線でフランスに圧勝、参戦を渋っていたムッソリーニもフランス降伏寸前、勝ち馬に乗って参戦します。しかし、ドイツ軍はイギリスと航空戦(バトル・オブ・ブリテン)で多大な損害を被り、ヒトラーはイギリス本土に直接攻撃を仕掛けるのではなく、まずイギリス海軍を地中海から追い出して外堀から埋めていく方針に切り替えていきます。そのためには地中海と面する中立国スペイン、ドイツの傀儡国家となったフランス、イタリアの協力が欠かせません。
スペイン、フランスに対英参戦を促すために2国の首脳と会うこと、地中海からイギリス軍を一掃した際の領土の分け前を説明するために、再びヒトラーはブレンナー峠でムッソリーニと会います。
1940年10月、ヒトラーの列車外交
その後、10月はフランスのペタン元帥、スペインのフランコ将軍と会談するために特別列車「アメリカ号」を使い列車外交に当てます。
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ペタン元帥との会談。
【第79回】ヒトラーに対独協力の誓いをした駅舎跡とモントワール精神
フランコ将軍との会談。
【第47回】バスクの旅3 スペインを破滅から救った舞台となった国境駅 前編
【第48回】バスクの旅4 スペインを破滅から救った舞台となった国境駅 後編
上記、各記事でも紹介しましたが、ヒトラーとペタン元帥、フランコ将軍との会談も実りがあるものではありませんでした。痛烈な決定打は、彼らとの会談の後、10月28日にフィレンツェでムッソリーニと再び会った時でした。ムッソリーニは自分の名声のために、ギリシャへ進撃して、事前の報告をなしに勝手に戦線を拡大されたヒトラーは激怒します。
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【第51回】ヒトラーが2度訪れた、花の都フィレンツェ
1941年6月2日
第3回ブレンナー会談
(背景)
前回のブレンナー会談から8ヶ月、ドイツは依然、イギリスを陥落させることができていいませんでした、スペイン、フランスにも対英参戦をのらりくらりと逃げられ、イタリアが勝手に攻め込んだアフリカ、同盟国のユーゴスラヴィアのクーデター鎮圧でバルカン半島にも軍隊を派遣していた中、ついにヒトラーはイデオロギーの根絶の対象であったソ連との国家の存亡を賭けた戦争を決意します。
ドイツ軍がソ連を攻撃する(バルバロッサ作戦)の20日前のこの日、3度目のブレンナー会談でヒトラーはムッソリーニにイギリスとの戦いの戦況やバルカン情勢について語ります。
会談に参加した関係者の証言はまちまちですが、一番肝心のソ連を攻める話は、明確にはムッソリーニには伝えなかったと言われています。数日後、ベルヒデスガーデンの山荘で日本の大島大使と会って、対ソ戦を決心していたことは伝えましたが、具体的な作戦の日は教えていません。しかし、大島大使は独ソ戦は近いと結論づけ、東京に独ソ戦は間近と極秘の電文を打ちます。
関連動画 |
ヒトラーとムッソリーニが何度も会談した国境駅、ブレンナー。(@YouTube) |
ユーゴスラビアとの同盟が調印されたベルヴェデーレ宮殿
ウィーンの中心部にもヒトラーが同盟国首脳と同盟の調印した場所があります。
それは観光客で賑わうベルヴェデーレ宮殿です。ガイドブックには、「18世紀、トルコ軍からウィーンを救ったプリンツ・オイゲン公の夏の離宮として作られたバロック建築の建物であり、現在では美術館として利用されている」と紹介されています。
1941年3月25日
三国同盟にユーゴスラヴィアが加入する調印のために、ヒトラーはベルヴェデーレ宮殿を訪れています。
しかし、調印から2日後、ユーゴスラヴィアで三国同盟に反対するクーデターが起きて、ヒトラーは軍事行動に出るという波乱があります。
また、翌日、日本の松岡洋右外相がドイツとの関係を深めるためにベルリンにやってきましたが、ユーゴスラヴィア政変のために会見も後回しにされます。ユーゴスラヴィアの政変の鎮圧になんとか成功して、ヒトラーは松岡外相と会見しますがかみ合いません。
その55年後にもNATOによって空爆された国防省の跡(2003年8月訪問)
松岡は日本へ帰る途中、モスクワに寄ってスターリンと日ソ中立条約を結びます。これにより、ソ連はヨーロッパ、アジア方面で二正面から攻撃される心配は払拭されます。そして史実通り、ソ連はドイツ軍が進撃してきた当初は手痛いダメージを受けますが、兵力、軍事生産を全て対ドイツにぶつけることができたので、持ちこたえことができました。
関連動画 |
ベルヴェデーレ宮殿@1941年3月バルカン諸国の三国同盟調印式にヒトラー出席(@YouTube) |
本当の信頼関係を築けなかった枢軸国の同盟
クレスハイム宮殿、ブレンナー峠、ベルヴェデーレ宮殿とヒトラーが同盟国の首脳と会談した場所を紹介しましたが、ほとんど会談がかみ合ってなかったのがわかります。
同盟国とはいえ、お互い本音を言わず、不信感を抱いていたのでしょう。
第二次世界大戦の発端となった独ソ不可侵条約が結ばれた時、日独防共協定を結び、更に軍事同盟につなげようとした日本は、時の首相が「欧州は複雑怪奇なり」という言葉を残して辞任。日独関係も冷え切ってしまいます。
その後のドイツ軍の快進撃によって日本のドイツ熱が再び高まり軍事同盟を結びますが、独ソ戦に至る経緯も日本には正確には伝えられませんでした。松岡外相に至ってはソ連を含んだユーラシア同盟も考えていましたが独ソ戦でご破算になります。
一方、日本もその後の真珠湾攻撃による日米開戦も、ドイツ側には秘匿にしていました。それが枢軸国の関係の実態だったのです。各国の利害対立があっても深く結びついていて軍事作戦を立てていた連合国との大きな差だったのです。当然、戦争の結末はご存知の通りになります。
妹パウラと最後の対面
ベルヴェデーレ宮殿でユーゴスラヴィアとの調印後、呼び寄せていた当時ウィーンで暮らしていた妹、パウラと短時間ながら面会します。これが兄妹の最後の対面となってしまいます。
この時、2人はどんな会話をしたのでしょうか。
ヒトラーは故郷リンツを離れてからほとんどパウラには会っていませんでした。当時、ヴォルフという偽名でウィーンの陸軍病院に勤務していたパウラは、戦後は亡くなるまで細々と暮らしていたと言われています。
本記事の日付の参考文献
ヒトラー全記録 20645日の軌跡 阿部良男著 柏書房
<【第101回】ヒトラーが欧州の信頼のおけない同盟国の首脳を迎えた場所-その1
【第101回】ヒトラーが欧州の信頼のおけない同盟国の首脳を迎えた場所-その2
同シリーズが「ヒトラー 野望の地図帳」として書籍化
同シリーズが書籍化され、各書店の歴史の棚の世界史やドイツ史のコーナーに置かれています。web記事とは違う語り口で執筆していて、読者の方々からは、時代背景が簡潔でわかりやすい、学者とは違うテイストが新鮮、という感想をいただいております。
歴史好きはもちろん、ちょっとマニアックなヨーロッパ旅行をしたい方々の旅のお供になる本です。
著者名:サカイ ヒロマル
出版社:電波社
価格 :1,512円(税込)