ヒトラーが傍聴していた国会
ヒトラーが2度受験を失敗したウィーン美術アカデミーから見て、リンク沿いを左側に歩いていくと、右側に1938年ナチスドイツがオーストリアを併合した際、ヒトラーが凱旋演説をした英雄広場、その先の左側にギリシャ神殿様式の建物が見えてきます。
それが現在のオーストリアの国会議事堂です。ヒトラーがウィーンに暮らしていたオーストリア=ハンガリー帝国の国会もこの建物で行われていました。
ヒトラーは浪人生?フリーター?としてウィーン生活を送る中、平日の昼間はよく国会を傍聴していました。政治に興味がない音楽院の学生だったグビツェクも何度も連れていかれます。
当時のオーストリア=ハンガリー帝国は多門族国家で、オーストリア帝国が多民族国家を防衛するため、オーストリア皇帝がハンガリー王を兼ねるという変則的な政体でした。
そのため国会は諸民族の代表者が各民族の利益を訴え、ドイツ語、チェコ語、ルーマニア語、イタリア語など、様々な言語が飛び交い、議会は大混乱していました。
実際、ヒトラー研究をする学者の中でも、ヒトラーが具体的にいつ政治に対して興味を持ち始め、ユダヤ人に対して憎悪を持ち始めたのかはわかっていません。しかし、ヒトラーはこうしたオーストリアの国会の姿を目の当たりにして、民主主義、他民族国家という幻想に幻滅したのは間違いありません。後にドイツで政治家になるヒトラーの行動を暗示しています。
また、ユダヤ人に対する憎悪もウィーン時代に培われたという説もありますが、当時のウィーンはユダヤ人憎悪が渦巻いており、反ユダヤ主義を掲げたカール・ルエガーがウィーン市長に当選したように、ヒトラーだけが特別にユダヤ人を敵視していたわけではありません。
ヒトラーの著書「我が闘争」で、ウィーン時代が、反ユダヤ主義の実地教育の場だったと述べていますが、あくまでも下地ができたにすぎず、ヒトラーの徹底的な反ユダヤ主義は、第一次世界大戦での敗戦以降に沁みついていったものと思われます。
現在は予約制のツアー形式のみで国会議事堂の内部やヒトラーとグビツェクが座っていた傍聴席を見学することができます。
関連動画 |
ヒトラーのウィーン征服の象徴、英雄広場(@YouTube) |
ヒトラーの青年時代を追う旅 ウィーン編③ヒトラーお気に入りのブルク劇場〜頻繁に国会を傍聴していた国会議事堂(@YouTube) |
ウィーン時代のヒトラーのお気に入りの建物
ブルク劇場、国立オペラ座
国会議事堂を更に行くと右手にブルク劇場、左手に市庁舎が見えます。
ブルク劇場はヒトラーのお気に入りの建築で、グビツェクと何度も足を運んでオペラを鑑賞しています。また、市庁舎は1938年4月、オーストリア併合後、2度目のウィーン凱旋の時、演説しています。
ウィーン美術アカデミー、国会議事堂、ブルク劇場、市庁舎と辿ってきたリンク沿いを逆走して、国立オペラ座まで戻ります。
シュテファン教会と共にウィーンの象徴である国立オペラ座。ここにも2人は何度も足を運びます。もちろん、彼らにとって最大のお目当てはワーグナーの歌劇でした。
そのワーグナーの歌劇では、彼らは日本のプロ野球ファン顔負けの熾烈な争いを繰り広げていました。
フリーターのヒトラーと学生のグビツェクは、当然お金があまりありません。そこで彼らの目当ては当日券の立見席です。
当日券は開演1時間前から発売され、当日券売り場への廊下には売り場が開く2時間前に入場が許可されます。そのためには2人は正午頃から並ばなくてはなりません。入場券を手に入れてから、第2の競争が開始されます。立見席の確保を目がけてダッシュします。
リンツの劇場では柱が彼らの定位置でしたが、ウィーンのオペラ座では、1階席前方最後の列のふちとで形作られたクロワッサン型の空間のエリアが2人の場所でした。
正午頃並んでから開演まで約5時間の間、彼らはこの戦いを強いられていました。立ち見の場所を一旦確保したら、誰も異論を唱えてはならない不文律が存在し、侵入者にはブーイングが浴びせられたのでした。
また、開演中もわざと拍手をする雇われた「サクラ」がおり、ヒトラーが意にそぐわないところで拍手を起こしたりすると、拳をお見舞いすることもあったようです。
筆者もかつてウィーンを訪れた時、国立オペラ座のオペラの立見席で観覧したことがあります。
また、2人が住んでいたシュトゥンパーガッセのアパートは22時が門限のため(門限を過ぎると門を開けてもらうためにお金を払わなくてはならなかった)、21時45分には国立オペラ座を出なくてはいけませんでした。
筆者もシュトゥンパーガッセから国立オペラ座があるリンク沿いまで1本道を歩きましたが、徒歩で30分近くはかかります。2人は近道を全速力で帰ったらしいですが、ギリギリまでオペラを見ていたいという彼らの熱意が充分伝わってきます。
筆者も子供の頃からプロ野球のファン(読売ジャイアンツ)で、中高生の頃から1人で地元の球場に通い外野席で応援していました。大学生の頃になると球場で顔見知りができるようになりましたが、ヒトラーとグビツェクがリンツの劇場の柱で知り合って意気投合したように、現地で知り合ったファンこそ長く付き合い続いているような気がします。
近年はSNSで仲間を募ったり、仲良くなるファンも多いですが、やはり現場で知り合うファンと比べたら軽い関係かなと感じてしまいます。
今でこそプロ野球の球場はほとんど指定席化されチケットもオンラインで手に入れるのが主流となってしまいましたが、朝早く時には徹夜してまで外野自由席のチケット取り、席取りをしていた熱いファンを彷彿とさせます。
そして、なぜか毎試合行くような熱いファンは、毎回、自由席や立見席の同じ場所を確保するという不文律が存在するのです。更には応援に熱くなり相手の球団のファンと乱闘ということも・・・。
野球ファンの筆者にとっても、彼らのオペラでの出会いやそれに賭けるものがどんなに熱かったか想像に難くありません。実際にヒトラーが総統になった後は、毎年グビツェクとの出会いの場をバイロイトのワーグナーの音楽祭にしたくらいですから。
「【第100回】青年時代のヒトラーと親友グビツェクの友情 ウィーン編」は、4ページ構成です。
「その1」から順に読んでいただくと、より楽しんでいただけると思います。
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