ヒトラーは、1941年6月に独ソ戦が勃発して以降、ドイツの首都ベルリンを離れます。そして、戦場に近い東部の東プロセイン領の街の郊外、森の中にある作戦指令本営に籠り、戦争の指揮を取りました。そこはヴォルフスシャンツェ(狼の巣)と呼ばれて、その跡地は現在も残っています。
第二次世界大戦が始まる10分前にフライングして、ドイツ軍とポーランド軍が戦端を開きます。それは、第二次世界大戦の勃発の地と言われる、グダンスク近郊のトチェフの街を流れる大河ヴィスワ川にかかる橋を巡って起こりました。
第二次世界大戦が始まる前日、1939年8月31日夜。ポーランド兵に偽装したナチスの親衛隊(SS)が、ポーランドとの国境にあるドイツ領の放送局を襲撃しました。ポーランド侵攻を正当化させるため、ドイツが偽装したのです。今回はその場所、現在ポーランド領にある放送局跡地を訪れていきました。
内陸国のオーストリアには港があります。その理由は、オーストリアを東西に流れるドナウ川の存在。ドナウ川は国際河川として、外国の貨物船も運行することができます。ウィーンの港湾地区のいくつかはナチスドイツ時代に作られ、現在でも港湾施設として利用されています。
戦争が始まるとヒトラーは同盟国の首脳と、直接何度も顔を合わせて会談をします。戦争中は旧東プロセインの前線「狼の巣」やベルヒデスガーデンの山荘にいることが多かったですが、ヒトラーが出向くことも頻繁にありました。
母親が亡くなりヒトラーはウィーンへ行くことを決意します。リンツ時代の親友、グビツェクもウィーンに呼んで同棲生活を始めます。リンツ同様、ウィーンでも2人は色々な所に行きました。そしてウィーンで彼らは別れたのでした。