地図上から消えていたポーランド
ポーランドの「ポー」は、ポーランド語で平原を意味します。
その名の通り、ヨーロッパの中央に位置するポーランドの国土の大半は平原で、この国を列車に乗って、旅をしていると車窓には平原の田畑が果てしなく続きます。
スイスや南ドイツなどのような山間部(アルプス)が非常に少なく、敵を遮ることができる天然要塞に恵まれていないポーランドは、何世紀もの間、周辺国に侵略され続ける運命にありました。
国土が分割され、何度も地図上からその姿を消した国として、世界史の教科書で説明されるポーランド。
20世紀になり、第一次世界大戦後の1918年、ポーランドは123年ぶりに独立を果たします。それまではロシアの支配下にありました。第一世界大戦の直前に起こった日露戦争では、ポーランド人はロシア兵として日本と戦っていました。
スターリン建築とも呼ばれ、ポーランドがロシア、ソ連の影響下にあったことがわかる。
この時代のポーランドの詳しい歴史は、筆者の友人であり、ポーランド在住でポーランド情報を発信する「ポーランドなび」を運営する綾香さんの記事、「ポーランド分割はなぜ起きた?地図から消えた123年間」にもわかりやすく書かれています。ぜひご参照ください。
ポーランドなび
https://witam-pl.com/2016/07/07/blog176
この記事で「ポーランドなび」の運営者、綾香さんの夫であるPiotorさんがこのようにコメントしています。
「結局のところ、まともじゃない隣国に挟まれていたのが痛かった。ドイツとロシアのとんでもない思惑は、ポーランドの斜め上をいっていたというか。」
まさにこの言葉こそ、第二次世界大戦、戦後のポーランドの歴史そのものなのです。
第二次世界大戦勃発、再び消えるポーランド
しかし、123年ぶりに独立を果たしたポーランドですが、東側では、独立直後からソ連との戦争が起こったり(ポーランド=ソビエト戦争)、西側ではドイツとの国境線が遺恨を残すことになり、後の第二次世界大戦につながっていくのです。
第一次世界大戦の最中、ロシア革命によりソ連という共産主義国家が生まれます。それに危機感を抱いた日本を含めた各国は、対ソ干渉戦争(シベリア出兵)を行い、その際、日本軍はシベリアに抑留されていたポーランド孤児を救出します。
筆者はポーランド渡航する1ヶ月前、ポーランド孤児が来日した福井県の敦賀港を訪問しました。
ポーランド孤児につきましては下記、記事をご参照ください。
【番外編】ヨーロッパへの玄関口だった港町、敦賀-その1
【番外編】ヨーロッパへの玄関口だった港町、敦賀-その2
【番外編】ヨーロッパへの玄関口だった港町、敦賀-その3
第一次世界大戦で、革命が起きたロシアがドイツに降伏し、第一次世界大戦後、ポーランド領になったブレストについては、下記、記事をご参照ください。
【第29回】独ソ戦が始まった日から激戦地になった、ベラルーシのブレスト要塞
1930年代には、ソ連、ドイツとそれぞれ不可侵条約を結びます。第一次世界大戦で敗戦国となり、戦後、捲土重来を図る不穏な政治を国内で抱えている両国の狭間にある、ポーランドは、均衡的な外交政策を取っていきます。
しかし、1939年、国際管理下にあったポーランドの港町、ダンツィヒ(現在のグダンスク)の領有をめぐって交渉決裂。ドイツ軍がポーランドに侵入、第二次世界大戦が幕を開けます。1918年に終結した第一次世界大戦からヨーロッパの平和も20年しか持ちませんでした。
過去、それぞれの内容に触れた記事になります。ご参照ください。
ダンツィヒについて。
【第28回】第二次世界大戦の火ぶたが切られた街、ポーランドのグダンスクを歩く
ダンツィヒ郊外の最初に戦闘が行われた橋について。
【第104回】第二次世界大戦で最初に投弾された橋、トチェフ鉄橋
ドイツがポーランド侵略を正当化させる偽装工作を行った事件について。
【第103回】開戦口実の為の偽装工作、グライヴィッツ放送局襲撃事件
1939年、ナチスドイツとソ連の侵略を受け、世界から見捨てられる
ポーランドの隣国、ドイツではヒトラー率いるナチスドイツが台頭、外交政策によって第一次世界大戦で失った東欧の領土を次々と回復していきます。既述のダンツィヒ領有、旧ドイツ領だった、ポーランドの西側領土の回復もヒトラーにとって悲願でした。
そんなヨーロッパの不穏な情勢の中、1939年3月30日、イギリスのチェンバレン首相が、ポーランドの独立を保障する演説を行います。ヒトラーはポーランドとの不可侵条約を破棄する報復で応えます。
戦争回避の努力は続きましたが、8月23日、ポーランドの両側にあるドイツとソ連が不可侵条約を結んだことにより戦争は決定的となりました。イギリス、フランスもそれに素早く対応して、翌々日、ポーランドと相互援助条約を結びます。
そして、ついに1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻、戦争が始まりました。ドイツ軍の戦車と爆撃機を使った電撃戦により、ポーランドは戦争初日から壊滅的なダメージを受けてしまいます。
しかし、ポーランドと相互援助条約を結んだイギリスとフランスは動きません。
両国とも戦争準備が整っていなかったのもありますが、他国のために本気で戦争する気持ちがなかったのです。
フランスのパリでは、ポーランドの大使がフランス外相に、相互援助条約の発動を訴えます。
フランス外相
「まずはドイツ軍の攻撃に備えて、パリの婦女子、子供たちを疎開させる準備をしなくてなりません。」
ポーランド大使
「外相!ポーランドでは今、こうしている時間も婦女子や子供たちがドイツ軍の爆撃に斃れているのです。」
ポーランド大使は涙ながらに訴えます。
今までの戦争の常識を覆す、機動力と攻撃力を兼ね備えたドイツ軍の電撃戦の前には1日、1時間の遅れでさえ致命的でした。
イギリスもフランスも数日後、ドイツに対して宣戦布告をして、ポーランド国民も一時的に活気づきますが、時すでに遅しでした。
この世界に見捨てられるポーランドというのは、1944年のワルシャワ蜂起、戦後の体制への一つのキーワードとなります。
ワルシャワ降伏
戦争開始、2週間後には、首都のワルシャワはドイツ軍に包囲され、ポーランド政府や軍の高官も首都を脱出して、ルーマニア方面へ南下する逃避行を開始していました。
ワルシャワ市長であるステファン・スタジィンスキは、市民と共にワルシャワに残り、「首都死守」を訴えます。街中は有刺鉄線、バリケードが築かれて、応戦準備を整えます。
ドイツ軍はワルシャワを流れるヴィスワ川の対岸のブラガ地区にいました。ドイツ軍は降伏勧告のための使者をワルシャワに送りましたが、戦意に燃えるワルシャワ側に当初は拒否されます。
この時、優勢なはずのドイツ軍がヴィスワ川を越えてワルシャワに突入しなかったことは、後の1944年のワルシャワ蜂起におけるソ連軍の前進停止ともつながってきます(後の記事で説明します。)
しかし、9月17日、独ソ不可侵条約の密約によって、ポーランドの東側国境からソ連軍が侵入します。これがポーランドにとっては万事休すでした。
ワルシャワ市内にはナチスドイツに受けた惨劇だけでなく、ソ連軍に受けたことに対するモニュメントもあります。
関連動画 |
【ワルシャワ蜂起の痕跡を巡る②】ソ連によるポーランド侵攻の犠牲者を弔うモニュメント(@YouTube) |
9月27日、水、電気、食料の供給も途絶え、さすがの市民の士気も衰え、スタジィンスキ市長はドイツ軍に降伏を申し入れます。ワルシャワはドイツ軍の軍門に下ったのでした。
この日から、ワルシャワは新たな戦いが始まります。
ワルシャワの戦勝パレードに参加するヒトラー
ドイツ軍がワルシャワを包囲していた頃、ヒトラーはダンツィヒで戦勝パレードの閲兵、安楽死政策を話し合っていました。
その後、ヒトラーはドイツのベルリンに戻り、再び征服したポーランドに足を踏み入れ、10月5日、ポーランド戦勝記念パレードをワルシャワで閲兵します。
この時のダンツィヒでのヒトラーについては、「【第106回】ヒトラーがナチス幹部と安楽死政策を話し合ったホテル」編をご参照ください。
パレードが行われたのは、占領中、ドイツ軍の司令部が置かれたワルシャワ南部のワジェンキ公園から目抜き通り、新世界通りにつながる、ウヤズドフスキェ通りです。
現在、アメリカ大使館があり、その反対側、ワジェンキ公園側のレーガン元アメリカ大統領の像付近でヒトラーが閲兵している写真が残っています。
これがヒトラーの敵国での最後の閲兵となります。
写真で紹介した場所の住所(後日追記)
1939年のワルシャワ攻防戦の碑
ソ連軍侵攻のモニュメント
スタジィンスキが首都防衛を呼び掛けた市庁舎
ワルシャワ市長、スタルジンスキーの碑
<【第107回】人生の転機。9.11テロの時、ポーランドのアウシュビッツにいた-その1
<【第107回】中学生の時、学校で初めてポーランドのことを知る-その2
【第107回】戦うポーランド!20年で再び地図から消えるポーランド-その3
>【第107回】戦うポーランド!各国の思惑に翻弄される占領下のポーランド-その4
>【第107回】戦うポーランド!再び世界から見捨てられるポーランド-その5
>【第107回】戦うポーランド!1944年8月1日午後5時-その6
>【第107回】戦うポーランド!ワルシャワの旧市街地区での戦い-その7
>【第107回】戦うポーランド!蜂起軍が駆使していた地獄の地下道-その8
>【第107回】戦うポーランド!国内軍の支配地域を分断させていた難攻不落の駅-その9
>【第107回】戦うポーランド!熾烈を極めたワルシャワ中心部での戦い-その10
>【第107回】戦うポーランド!ワルシャワのヴィスワ川沿いの戦跡 前編-その11
>【第107回】戦うポーランド!ワルシャワのヴィスワ川沿いの戦跡 後編-その12
>【第107回】戦うポーランド!ソ連の支配地域だったヴィスワ川の対岸プラガ地区-その13
>【第107回】戦うポーランド!ポーランドはナチスに簡単に屈したわけじゃなかった-その14