アメリカ同時多発テロの時、アウシュビッツにいた筆者
今回ワルシャワ蜂起の戦績を訪問している最中に、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ(9.11テロ)で亡くなったと思われるポーランド人の名前が刻まれている碑をたまたま見つけました。
アメリカの象徴とも言える、ニューヨークの超高層ビル「ワールドトレードセンター」に飛行機が突っ込むというリアルタイムでの映像は世界に衝撃が走りました。
この碑を見て、筆者は当時ポーランドにいたことを思い出しました。
大学3年生の夏休みを使って、初の海外旅行でヨーロッパを周った3週間弱の旅。
ヨーロッパの国々の列車乗り放題のユーレイルパスを使い、縦横無尽にヨーロッパを周りました。その時に、ポーランドのアウシュビッツ強制収容所に行きました。
ドイツのベルリンから、アウシュビッツ強制収容所のゲートウェイとなるポーランドのクラクフまで0泊2日。夜行列車で往復しました。
当時のユーレイルパスの有効範囲は、旧東側のポーランドをカバーしておらず、ポーランド領に入ってからは追加料金を払う必要があります。
筆者も初のヨーロッパということもあり、ユーレイルパス範囲外の国に行く予定はなかったのですが、イタリアで出会った同世代の日本人旅行者にアウシュビッツに行った話を聞き、突如予定を変更して行く決意。追加料金を払った思い出があります。
行きの夜行列車の中では寝ている間にGパンのポケットを切り裂けられ、財布を盗まれるというハプニングもありました。朝、クラクフ駅に着いて、そのまま警察に直行しました。
その後、クラクフからバスでアウシュビッツ強制収容所に向かいました。
ただでさえ気持ちが暗くなる場所なのに、強盗事件もあり、とてもテンションが下がりながら、収容所内を周っていたのを覚えています。当初、行く予定もなかったこんな東欧の奥深いところまで来て、日本に帰れるのだろうかと疑心暗鬼にもなっていました。
このアウシュビッツ強制収容所を周っていた日が、9月11日でした。
ニューヨークでのテロを知ったのは、ドイツに戻った時。クラクフからの夜行列車で立ち寄ったベルリンのツォー駅のテレビを見て、何やらニューヨークで事件があったなということに気がつきました。
その後、列車でブレーメンという街に行き、その日は1泊。翌日、街の広場で半旗が掲げられ、祈りの集会が行われているのを目撃します。これはただ成らぬ事件が起きたと感じ、アメリカで起こった同時多発テロを知ったのです。
9.11テロの時、アウシュビッツにいたことが現在の活動に至る
このアウシュビッツ強制収容所が、初めてのヨーロッパでの戦跡訪問になりました。
アウシュビッツ強制収容所は、ナチスドイツに迫害されたユダヤ人が被害者となった現場ですが、アメリカでの同時多発テロは、イスラム原理主義者が起こした事件でした。
その背景の遠因には、戦後、迫害されていたユダヤ人がユダヤ教の聖地に戻り、そこに建国した国、イスラエルに問題があります。
そこはパレスチナ地区で、イスラム教の聖地でもありアラブ人もたくさん住んでいたからです。
この記事を執筆している2024年6月現在も、イスラエルのガザ地区で戦闘が続いていますが、彼らとユダヤ人との対立は今に始まったことではなく、第二次世界大戦後、この地域での断続的な紛争、世界各地でテロが起きています。
その最大のテロが、2001年のアメリカ同時多発テロでした(9.11事件)。
この時、ユダヤ人が被害者だった歴史現場訪問(アウシュビッツ強制収容所)、そのユダヤ人に対する反感である、現在進行形でのリアルタイムの世界の事件(アメリカ同時多発テロ)とが重なったことに運命を感じました。
今までテレビや新聞で知っていた世界情勢が、自身も日本を飛び出して、世界の中にいる時、リアルタイムで起こっているというリアリティに本能を刺激されました。そして、20年以上経った今の活動に至ります。
筆者はまだアメリカには一度も行ったことないですが、ニューヨークの9.11テロの現場にもいつか行きたいと思います。
当時の話は動画でも語っています。
関連動画 |
#9 初めての海外旅行でアウシュビッツ。テロに金盗まれたりと….(@YouTube) |
参考記事
「戦争遺跡ライターになったのは、激動の時代ヨーロッパの歴史を知ってから」
ヨーロッパは戦地へ列車で行ける
また、この時、ヨーロッパ中を鉄道旅行していて、このアメリカ同時多発テロだけでなく、戦地が間近に感じたことがありました。
ヨーロッパの中央に位置する、スイスのチューリッヒ駅で、バルカン半島のユーゴスラビア(現セルビア)のベオグラード行き、夜行の国際列車を目撃した時です。
この旅をしていた2年前の1999年、バルカン半島におけるコソボ紛争により、NATO軍がユーゴスラビアのベオグラードを空爆した事件は、まだ記憶に新しく、こんな戦地だった場所まで永世中立国のスイスから直通列車で行けることに衝撃を受けました。
2年後の2ヶ月間かけて周った、2回目のヨーロッパ旅行は、ベオグラードを始め、旧ユーゴの国々の戦地を見て周りました。
隣国ポーランドから戦地のウクライナへ1日1本の夜行列車が運行
今回のポーランド渡航の本来の目的は、ワルシャワから鉄道に乗り、ポーランドの隣国、ウクライナの首都キーウ(キエフ)に行くことでした。
本記事を執筆している(2024年6月)最中もロシアとウクライナによる紛争が続いています。今までは第二次世界大戦や現代戦争の跡地を巡ってきましたが、リアルタイムで起こっている戦争の渦中にある国の首都に行きたいと思ったのです。
日本の旅行代理店を通じて、列車の手配もしていたのですが、今回は第二次世界大戦中に起きた、1944年のワルシャワ蜂起の戦跡をじっくり取材したいと思い、ウクライナ行きは回避しました。
その代わり、ワルシャワ東駅から毎日1便、17:50分頃出発する、キーウ行きの列車の見送りに行ってきました。キーウには翌日正午頃、到着する長距離列車です。
発車直前からホームにいましたが、これから戦地に向かうという重苦しさもなく、ラフな格好の乗客が多い印象を受けました。
前方はポーランド国鉄、後方はウクライナ国鉄の車両で、ホームではそれぞれのドアで各鉄道の車掌が切符を拝見していました。
関連動画 |
【戦地への列車①】キーウ•エクスプレス、ワルシャワ東駅発車直前の光景(@YouTube) |
関連動画 |
【戦地への列車②】キーウ•エクスプレス、ワルシャワ東駅発車の瞬間(@YouTube) |
キーウ行きの列車を見て、大学当時にチューリッヒ駅で見かけたベオグラード行きの列車を思い出しました。あの時の列車は最近まで戦地だった都市・ベオグラードに向かい、そして今、目の前にある列車は現在進行形の戦地・キーウに向かうのです。
ウクライナは、ヨーロッパの大半の国に行ったことがある筆者自身も訪れていない国で、第二次世界大戦の独ソ戦の戦跡も多いです。ヒトラーの総統本営が一時的に置かれていた場所もあるので、ウクライナ紛争が落ち着いたら行ってみたいと思いますが、この紛争に関する見解は、今回のポーランドのワルシャワ蜂起の記事の最後に記したいと思います。
【第107回】人生の転機。9.11テロの時、ポーランドのアウシュビッツにいた-その1
>【第107回】中学生の時、学校で初めてポーランドのことを知る-その2
>【第107回】戦うポーランド!20年で再び地図から消えるポーランド-その3
>【第107回】戦うポーランド!各国の思惑に翻弄される占領下のポーランド-その4
>【第107回】戦うポーランド!再び世界から見捨てられるポーランド-その5
>【第107回】戦うポーランド!1944年8月1日午後5時-その6
>【第107回】戦うポーランド!ワルシャワの旧市街地区での戦い-その7
>【第107回】戦うポーランド!蜂起軍が駆使していた地獄の地下道-その8
>【第107回】戦うポーランド!国内軍の支配地域を分断させていた難攻不落の駅-その9
>【第107回】戦うポーランド!熾烈を極めたワルシャワ中心部での戦い-その10
>【第107回】戦うポーランド!ワルシャワのヴィスワ川沿いの戦跡 前編-その11
>【第107回】戦うポーランド!ワルシャワのヴィスワ川沿いの戦跡 後編-その12
>【第107回】戦うポーランド!ソ連の支配地域だったヴィスワ川の対岸プラガ地区-その13
>【第107回】戦うポーランド!ポーランドはナチスに簡単に屈したわけじゃなかった-その14