【第105回】ヒトラーが独ソ戦を指揮した前線基地、ヴォルフスシャンツェ-その4|トピックスファロー

  • フリーのライターを募集しています
2024年2月2日
【第105回】ヒトラーが独ソ戦を指揮した前線基地、ヴォルフスシャンツェ-その4

ヒトラーは、1941年6月に独ソ戦が勃発して以降、ドイツの首都ベルリンを離れます。そして、戦場に近い東部の東プロセイン領の街の郊外、森の中にある作戦指令本営に籠り、戦争の指揮を取りました。そこはヴォルフスシャンツェ(狼の巣)と呼ばれて、その跡地は現在も残っています。

戦争遺跡ライター
ヒロマルのfacebookアイコン
  

「7月20日事件」ヒトラー暗殺未遂事件とは

戦前から暗躍していた国防軍の反ヒトラー派

ヴォルフスシャンツェで絶対に見ておくべき史跡は、入口付近にある軍ブンカーです。

ここは1944年7月20日、時限爆弾でヒトラーを暗殺しようとした、ヒトラー暗殺未遂事件が起こった現場です。

「7月20日事件」と呼ばれ、度々映画の題材にもなり、近年では2008年にトム・クルーズが主演の「ワルキューレ」が公開されました。

ヒトラーを暗殺しようとしたのは、37歳だった国防軍のクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐でした。

クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐

ヒトラーは政権を取り、巧みな外交手段によって失地を回復していきますが、そのヒトラーの独善的な判断によって、諸外国との開戦の危機を呼び起こします。その度に戦争への準備が不足している懸念から、国防軍の高級将校の中で反ヒトラー派のグループが形成されました。

反ヒトラー派のグループはヒトラーが外交問題を起こすたびに、クーデターによって反旗を翻そうとしますが、戦前は一戦も交えずに東欧の失地を回復、開戦後も当初のドイツ軍の快進撃のため、反ヒトラー派は鳴りを潜めることになります。

暗殺未遂事件現場は地図上の③、入り口付近暗殺未遂事件現場は地図上の③、入り口付近

しかし、独ソ戦が始まり徐々にドイツ軍の形成が悪くなっていくと、ヴォルフスシャンツェ内で、戦術面に関してヒトラーと国防軍の高級将校との溝が深まり、反ヒトラー派の動きがにわかに活発化します。戦局が悪くなるにつれ、現実的な戦術の方針転換を要求する国防軍に対して、ヒトラーが要求するのは、自分のイデオロギーと戦術への盲目的な服従と忠誠でした。

反ヒトラー派のグループは、何度かヒトラー暗殺計画を立てて実行しますが、様々な不運が重なり、暗殺計画自体が気づかれず闇に葬られてしまっていました。

連合軍の大攻勢が始まり、和平交渉を開始しようとする反ヒトラー派

1944年6月、西部戦線ではノルマンディーに連合軍が上陸に成功。形成が不利になっていた東部戦線でも、追い打ちをかけるようにソ連軍が大攻勢(バグラチオン作戦)を仕掛けます。これでドイツ軍の軍事的な敗北は免れないと悟った反ヒトラー派は、ヒトラーを暗殺して連合軍との和平交渉を急ごうとします。

「ワルキューレ作戦」と言われた計画は、ヒトラーを暗殺した後、ベルリンの国防軍の予備部隊が放送局やナチス関係の建物を占拠。ナチス政権を転覆させた後、政権を握って、米英軍と和平交渉をしようとするものでした。同時にパリに駐在するドイツ国防軍も決起するという大がかりなもので、新政権の閣僚の人選も決まっていました。

そして、シュタウフェンベルクは時限爆弾を持って、ヒトラーに近づき爆殺しようと試みます。1944年7月11日、ベルヒデスガーデンのベルクホーフ、7月15日、ヴォルフスシャンツェでの会議でヒトラーを暗殺しようとしますが、機会を得ることができませんでした。

ベルクホーフ跡、現在は当時に関する博物館ベルクホーフ跡、現在は当時に関する博物館

シュタウフェンベルクはアフリカ戦線で負傷して、左目、右腕、左手の指2本を失っており、警戒が緩くボディチェックもほとんど行われなかったので、暗殺実行犯として最適な人物でした。

そして、7月20日、ヴォルフスシャンツェでヒトラーと高級将校の間で会議が行われる予定があり3度目の正直で決行します。

爆弾を仕掛けたシュタウヘンベルク大佐1944年7月20日の足取り

シュタウヘンベルク大佐の足取りシュタウヘンベルク大佐の足取り

午前10時15分
シュタウフェンベルクと副官は、時限装置付きの爆弾を持参して、飛行機でベルリンからヴォルフスシャンツェ郊外の飛行場に到着します。車でヴォルフスシャンツェに向かいます。

午前10時45分
シュタウフェンベルクは士官娯楽室の食堂(地図上⑱)に立ち寄り、朝食をとります。

食堂食堂

午前11時30分
シュタウフェンベルクと副官は、カイテル元帥のブンカーに立ち寄ります(地図上⑲)。会議は午後1時から開始する予定でしたが、午後2時にイタリアのムッソリーニ首相がヴォルフスシャンツェに列車でやってくることになったため、会議開始が30分繰り下がったことを知らされます。シュタウフェンベルクはここで爆弾の時限装置を設置して鞄にいれます。そして、会議開始時間が迫っていたため、急かされるように会議が開催される軍ブンカーに向かいます。

カイテルブンカーカイテルブンカー

午後12時36分

会議室での配置。Wolfsschanze Tourist gudeより転載会議室での配置。Wolfsschanze Tourist gudeより転載

シュタウフェンベルクは軍ブンカー(地図上③)の会議室に入ります。すでに会議は開かれていました。ヒトラーはドアに背を向け座っており(上記図の①箇所)、24人の人物がテーブルを囲み会議に参加していました。

軍ブンカーの入口跡軍ブンカーの入口跡

ヒトラーは陸軍のホイジンガー中将(上記図の②箇所)の戦況報告を聞きながら、入ってきたシュタウフェンベルクの敬礼に頷きます。

午後12時37分
シュタウフェンベルクはホイジンガー(上記図の②箇所)と陸軍のブラント大佐(上記図の④箇所)の後方に立ち、爆弾が入った鞄をさりげなくテーブルの下に押し込みました。しかし、ブラントは無意識にその鞄を足で右側に避けてしまいます。

この何気ない行動が大きく運命を左右しました。

シュタウフェンベルクは鞄が避けられたことに気付くことなく、そっと会議室を出ます。

午後12時42分
爆弾が爆発し、爆発音がとどろきます。

ヒトラーとシュタウフェンベルクの運命は!(その5へ続きます)

「【第105回】ヒトラーが独ソ戦を指揮した前線基地、ヴォルフスシャンツェ」編は5部構成です。

<【第105回】ヒトラーが独ソ戦を指揮した前線基地、ヴォルフスシャンツェ-その1
<【第105回】ヒトラーが独ソ戦を指揮した前線基地、ヴォルフスシャンツェ-その2
<【第105回】ヒトラーが独ソ戦を指揮した前線基地、ヴォルフスシャンツェ-その3
【第105回】ヒトラーが独ソ戦を指揮した前線基地、ヴォルフスシャンツェ-その4
>【第105回】ヒトラーが独ソ戦を指揮した前線基地、ヴォルフスシャンツェ-その5

【連載】ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡(第1回~第100回)

著者:ヒロマル

戦争遺跡ライター
アイコン
ヒロマルのfacebookアイコン
1979年神奈川県生まれ、神奈川県逗葉高校、代々木ゼミナールで1浪、立教大学経済学部卒業。

大学在学中からヨーロッパ、アジアなどを海外放浪してハマってしまい、そのまま新卒で就職せずフリーターをしながら続ける。その後、会社員生活をしながらも休み、転職の合間を利用して海外放浪を続ける。50ヶ国以上訪問。会社の休暇を利用して年に数回、渡欧して取材。

2012年からライター業を会社員との二足のわらじで開始。
2014年からwebメディア(株)フォークラスのTOPICS FAROで2つのシリーズを連載中。

▼もんちゃんねる(You Tube)
https://www.youtube.com/channel/UCN_pzlyTlo4wF7x-NuoHYRA

▼「ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡」シリーズ
https://topicsfaro.com/series/warruins
ヨーロッパ各地を取材し、第二次世界大戦に関する場所を紹介。
軍事用語などは極力省き、中学レベルの社会の知識があれば楽しめる記事にしています。
同シリーズが2017年に書籍化。
「ヒトラー 野望の地図帳」(電波社)から全国書店の世界史コーナーで発売中。

▼「受験に勝つ!世界史の勉強法」シリーズ
https://topicsfaro.com/series/wh
2018年から主に世界史を中心とした文系の勉強方法について執筆。
大学受験だけでなく、大学生や社会人の大人の教養としての世界史の勉強方法にも触れて、
高校生、大学生、社会人とあらゆる世代を対象としています。

世間の文系離れを阻止して、文系の学問の復権に貢献することが、2つの連載の目的です。

▼ご依頼、ご質問はこちらのメールまたはツイッターから
hiromaru_sakai@yahoo.co.jp
https://mobile.twitter.com/HIRO_warruins