障害者を安楽死に追い込むT4作戦
ドイツが戦争を開始するにあたってある問題が浮上します。
それは医療機関の確保問題です。
ポーランドを攻撃する際に、イギリス、フランスに宣戦布告をされる可能性があり、ヒトラーは最終的にソ連との戦いを覚悟していました。それは大戦争になる可能性が高く、長期化、大規模化すれば、負傷するドイツ軍兵士も増大して、彼らを手当てする病院、医師、ベッド、看護婦が必要になってきます。
そのためには、精神障害者や身体障害者に割り当てられている病棟を負傷するドイツ軍兵士に割り当てることを実行しようとします。
簡単に言えば、国家の負担になっている弱者は処分して、その分を国家に有益な人材にまわそうということです。
これは「T4作戦」と言われます。ユダヤ人などに対するホロコーストは知られていますが、障害者を絶滅させるT4作戦はあまり知られていません。本記事では戦争直後、ポーランドにある安楽死会議が行われたホテル跡をめぐり、このT4作戦について考えたいと思います。
ソポトのホテルで開催された安楽死会議
1939年9月1日、ポーランドに進撃したドイツ軍は快進撃を続け、9月19日には、ヒトラーはポーランドとの火種となった、ダンチヒィ(現グダンスク)を訪問します。
現在は観光客で賑わう、グダンスクのメインストリートのトゥーギ通り。ヒトラーは、この通りにある黄金の門からトゥーギ広場まで、オープンカーで戦勝パレードをします。そして、トゥーギ広場の市庁舎で演説しました。
ほとんどがドイツ系住民だった当時のグダンスクは、ヒトラーの凱旋に熱狂したそうです。
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1939年9月19日、ヒトラー、ダンツィヒ(現グダンスク)を凱旋パレード。黄金の門〜トゥーギ広場まで(@YouTube) |
その際、ヒトラーが宿泊したのはグダンスク郊外にある保養地ソポトでした。
9月19日から9月25日まで6日間滞在し、その間に第二次世界大戦の幕開けの舞台となったヴェステルプラッテの戦跡巡りにも出かけています。
ソポトはバルト海に面する都市で、グダンスクから西方面に列車で約20分の距離にあります。グダンスク、ソポト、その先にある港湾都市グディニアとともに、「三つ子の都市」、「三連都市」とも言われています。
ヒトラーはそのソポトにある「ホテルカシノ」に宿泊します。その時、親衛隊員であり、ヒトラーの主治医、カール・ブラント、国家医務官レオナルド・コンティ博士など、医療関係のナチスの首脳陣がホテルカシノに集まりました。
そこで安楽死会議が開かれたのです。
ヒトラーは、会議の開会にあたりこう述べます。
「戦争を遂行する上で、不治の精神障害者に苦痛のない死を与えるべきである。国家優先順位を与えられる患者に対して、医療施設を解放することになる。」
ブラント
「精神病者にドイツ国内の病院のベッドや医師が使われている。」
コンチ
「処置すべきは患者の最期の訪れを助ける程度にするべきで、その方法は麻酔薬注射が適切である。」
ブラント
「麻酔薬注射の方法は時間がかかって人道的とはいえない。」
コンチ
「医学界では一酸化炭素が最も迅速な手段と言われている。」
総統官房長のフィリップ・ボウラーとブラントは、ヒトラーによって安楽死政策の権限を与えられます。この安楽死政策が、後に「T4作戦」と呼ばれるようになります。そして、多くの障害者がその犠牲となっていきますが、ローマ教皇やカトリック教会からの批判が出て、独ソ戦開始直後の1941年8月にはT4作戦は中止になりました。しかし、この概念や虐殺方法は強制収容所でのホロコーストへと発展していくのです。
ポーランドを攻撃した1939年9月1日に、ヒトラーがこの作戦に署名したことになっていますが、実際には後日署名されたもので具体的な日付はわかっていません。このソポトの「ホテルカシノ」での安楽死会議で署名された可能性も有力です。
安楽死会議が開催されたホテルカシノの今
港湾都市のグダンスクとグディニアに挟まれたソポトは、リゾートビーチ地として、夏にはヨーロッパ各地からの観光客で賑わいます。夏の終わりにはソポト音楽フェスティバルも開催されます。筆者が訪れた時は年始の寒い冬でしたが、街の中心部や海に面している遊歩道にはたくさんの観光客で賑わっていました。
安楽死会議が開かれた1929年創業のホテルカシノは、現在「グランドホテル(GRAND HOTEL)」として改装されて、今も営業しています。隣には5つ星ホテルのシェラトンが立ち並び、グランドホテルは観光客で賑わう遊歩道からも眺めることができます。
筆者は、ヒトラーのような国のトップが宿泊した高級ホテルにはさすがに宿泊しませんが、ホテルのカフェでコーヒーやケーキを堪能することを恒例行事としています。
宿泊客ではないので、ホテル内をうろつくのはためらいますが、カフェの客として行けば、ホテル内も比較的自由に動き回ることができます。
ヒトラーは1939年9月19日~9月25日に滞在した際に、2階の251、252、253号室の3部屋を貸し切って滞在していました。安楽死会議もこれらの部屋で行われたと思います。しかし、実際にグランドホテルの2階まで上がってみましたが、現在は、この3つの部屋は存在していませんでした。
その後、筆者は冬のバルト海沿岸の寒さから体を温めるため、カフェへ。
ここで恐ろしい会議が開かれたことを知る宿泊客やホテルのスタッフは、きっといないかもしれない。そんなことを思いながら、ホテルから見えるバルト海を見つつ、1時間ほど美味しいコーヒーを飲んで休息しました。
イントロダクション
SOFITEL GRAND HOTEL
住所:Powstancow Warszawy St 12, Pomorskie,81-718 Sopot
関連動画 |
ヒトラーのT4作戦の構想が練られた、グダンスク近郊のホテル(@YouTube) |
現代日本にも問いかけたい、ヒトラーのT4作戦
障害者抹殺計画であるT4作戦は、ナチス時代の異常性が顕在化したものだと思われていますが、ドイツを含めた当時のヨーロッパでは19世紀頃から「社会ダーウィニズム」という概念が広まっていました。
社会ダーウィニズムとは、ダーウィンの環境に適したものだけが生き残り自然淘汰されるという進化論の概念を人間社会にも当てはめた考えです。
病人や弱者は社会を弱体化させる弱者であり、障害者や瀕死の重病人の殺害(安楽死)を正当化する思想がはびこっていました。優生思想を唄っていたナチスが時代の流れに乗り、精鋭化した政策とも言えます。
ナチスに限らず、社会ダーウィニズムの思想は、当時の欧米では一般的な考えでした。アジアやアフリカの植民地を持つ帝国主義は、その思想が根底にあったと言えます。帝国主義が膨張した最終形態として行われたのが、20世紀前半、地球上に惨禍をもたらせた、2度の世界大戦でした。戦争というのは人間の内面に他人への差別、優位思想があるからこそ起こるのです。
筆者の個人的な考えですが、この概念は現代日本にも無関係ではないと思います。昨今、超高齢化、少子化加速により、高齢者は社会のお荷物、それよりは将来を背負って立つ子供を優遇させることを叫ぶ人が増えています。これも社会ダーウィニズムの思想のひとつだと考えます。
確かにこれから国を背負う子供は必要でしょうが、だからといって高齢者をないがしろにしていいということではないと思います。誰しも人間として生を受けた以上、必ず老化して高齢者になることは忘れてはなりません。
その人間の優生思想によって、社会ダーウィニズムの思想が正当化され、ナチスのT4作戦が実施された史実を、現代の日本人は忘れてはならないと、筆者はバルト海のソポトで思ったのでした。
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