第二次世界大戦の開始当初に消滅したポーランドの国土は、ドイツとソ連に分割されます。ここから戦後にも続く、苦難な複雑な歴史が始まります。1944年、ワルシャワ蜂起で市民が立ち上がるまでのポーランドを追っていきます。
第二次世界大戦の末期の1944年8月1日、ナチスドイツに支配されていたポーランドのワルシャワ市民はついに武器を持って立ち上がります。しかし、彼らに待ち構えていた運命は非常に過酷なものでした。本記事ではワルシャワ蜂起までのポーランドをお伝えします。
筆者の生業としている、海外渡航と歴史散策に影響を与えてくれたのは、中学校3年間の社会の授業でした。ポーランドという国を初めて学んだのも、この時でした。
2024年6月、筆者は昨年末に続き、半年ぶりにポーランドを再訪しました。取材のテーマは「第二次世界大戦中に起こった1944年のワルシャワ蜂起」ですが、その前に今回は筆者のポーランド旅行の思い出と、現在に至る活動についてお話ししたいと思います。
日本国内の日本海側の中心部に位置する福井県の港町、敦賀市は鉄道の要所なっています。ここは、ヨーロッパへと連絡する鉄道の発着地として栄えていました。そんな敦賀の街を訪れました。
「ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡」シリーズを、国・地域別にリスト化しました。
1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドを攻撃して、第二次世界大戦が始まりました。 同日、ヒトラーはある作戦の認可の署名をしました。それは「T4作戦」と言われる、安楽死を認可するものでした。その会議が行われたホテルの現在を紹介します。
ヒトラーは、1941年6月に独ソ戦が勃発して以降、ドイツの首都ベルリンを離れます。そして、戦場に近い東部の東プロセイン領の街の郊外、森の中にある作戦指令本営に籠り、戦争の指揮を取りました。そこはヴォルフスシャンツェ(狼の巣)と呼ばれて、その跡地は現在も残っています。