ワルキューレ失敗!生き延びるヒトラー
事件後のヴォルフスシャンツェ
ヒトラーは爆発の瞬間をこのように語ります。
「強烈な黄色い閃光に包まれ、爆風が襲い、敵の爆弾だと直感した。」
髪は乱れ、ズボンはちりぢりになり、顔は黒焦げになったヒトラー。爆発の瞬間、左隣にいたカイテルに抱えられていました。
爆発の直前、ブラント大佐が爆弾を足で右側に寄せて、ヒトラーから若干遠ざけたこと、ヒトラーの背後のドアから爆風が抜けていったことも幸いしました。ヒトラーを含めて出席者の多くは負傷しますが、死者は爆弾の位置に近かった4名だけでした。
シュタウフェンベルクは、爆発を確認して、ヒトラーの死亡を確信します。そして、車に乗り込み飛行場へ向かいました。
午後13時11分
検問所で一悶着ありましたが、飛行場に到着したシュタウフェンベルクは、副官とともに国防軍のベルリンへの帰路につきます。
一方、爆発した現地では、当初は敵の攻撃かと思っていましたが、爆発の直前、シュタウフェンベルクがテーブルの下に鞄を置いて、外に出て行ったことが判明して、彼に逮捕命令が出されました。
ヒトラーも応急処置を受けながら、今回のテロ行為に憤慨して、犯人達への報復を叫びます。
午後3時35分
ヒトラーは予定通り、ムッソリーニと会見するために、ゲルリッツ駅に迎えに出向きます。
ムッソリーニを事件現場に案内して、ボロボロになった自分の服を見せて、ヒトラーは観光ガイドのように事件の詳細を説明して周ります。
「ドゥーチェ、今日ここで起きたことはクライマックスです。奇跡が起こり、使命を達成するために神の加護があったのです。」
行動を起こす決断ができなかったベルリンの反乱者たち
シュタウフェンベルクの共謀者が計画通り、ヴォルフスシャンツェ内の総統司令部の通信手段を遮断します。しかし、それによって首都を占領するはずだったベルリンの予備隊は、ヒトラーが生きているのか死んでいるのか確信を持つことができず、行動を起こさないまま時間だけが過ぎていきました。
5日前の7月15日、ヴォルフスシャンツェ内の会議でシュタウフェンベルクが爆弾でヒトラーを暗殺しようとして時間差で入れ違いになり失敗。
その時、ベルリンではシュタウフェンベルクの警報によって予備隊が動き出して、慌てて戻る事態があったため、ヒトラーの死の確信が得れるまで動こうとしなかったのです。
その慎重さが致命傷になりました。
午後3時15分
ベルリンに到着したシュタウフェンベルクは、ベルリンに到着。その足でベンドラー街(ベンドラーブロックとも呼ばれる)の予備軍司令部に向かいます。
シュタウフェンベルクは、彼らが何も行動していないことに驚きます。そして、必死にヒトラーが死んだのをこの目で見たことを訴えました。
しかし、クーデターを起こすはずだった、予備軍の将校たちはシュタウフェンベルクを裏切り、彼を逮捕しようとします。また、親衛隊(SS)からも手が回りシュタウフェンベルクの逮捕状が出ていました。
ヒトラーの生死は関係なく、反乱者たちがすぐさま国民に訴えることができる放送局を占拠していれば、この事件の展開は変わった可能性が高いです。反乱者たちの優柔不断な決断、時間を無駄に過ごしていたことが致命的でした。
また、反乱者たちはウィルヘルム通りの宣伝省を占拠するため、警備大隊長の少佐を差し向けていました。しかし、宣伝省のヨーゼフ・ゲッベルスは、少佐にヒトラーと直接電話させ、味方に引き入れます。そして、寝返った少佐を、反乱者たちから首都を守る防衛の任務につかせました。
ここでも反乱者たちの作戦は失敗したのです。
午後18時28分
ラジオのベルリン放送が番組を中断して、ヒトラーに爆弾攻撃が行われたこと、ヒトラーの怪我は大したことなかったこと、その後、ムッソリーニと会見したことを伝えます。
事件の発生とヒトラーの無事が世界中に発信されます。これが決定的な打撃となって事件に関与した反ヒトラー派の将校達は、自分たちの運命が尽きたことを悟ります。
親衛隊の総司令官、ハインリッヒ・ヒムラーはこう命令します。
「反乱分子は即刻処刑するな、ただ死なせるだけでは不十分だ。この事件に関わったもの全員を洗い出し、死を与えるのだ。」
午前0時30分
共謀者である反乱者側の将校の命令によって、シュタウフェンベルクは予備軍司令部の中庭で銃殺されます。
午前1時
ベルリン放送により、ヴォルフスシャンツェにいるヒトラー自ら事件の経緯と戦争遂行の決意を語る、5分の演説が放送されます。
事件発生から半日、このヒトラーの演説が事件の終結の告示でした。
シュタウフェンベルクが銃殺された場所はドイツ抵抗記念館
このベルリンでの「7月20日事件」の舞台だった予備軍司令部は、現在、ドイツ抵抗記念館として公開されています。
シュタウフェンベルクが銃殺された中庭の壁の場所にはプレートが掲げられています(上記写真)。記念館はシュタウフェンベルクのみならず、本シリーズでも紹介した、ミュンヘンで抵抗運動をしていた「白バラ」のショル兄妹、シュタウフェンベルクと同じく暗殺しようとして失敗した民間人のゲオルク・エルザーに関する展示もあります。
場所はベルリンのへそ、ポツダム広場から徒歩15分ほどで、ティアガルテンや戦時中から同じ場所にある日本大使館も近いです。そして、ドイツ抵抗記念館の前の道は、シュタウフェンベルク通りと名付けられています。
イントロダクション
ドイツ抵抗記念館
住所:Stauffenbergstrase 13 – 14
ホームページ:https://www.gdw-berlin.de/en/home/
関連動画 |
ドイツ抵抗博物館 ヒトラー暗殺未遂事件の地(@YouTube) |
参考記事
「白バラ」のショル兄妹、ゲオルク・エルザーについて
「【第74回】ミュンヘンでヒトラーに抵抗した市民の痕跡を巡る その1」
「【第74回】ミュンヘンでヒトラーに抵抗した市民の痕跡を巡る その2」
「【第74回】ミュンヘンでヒトラーに抵抗した市民の痕跡を巡る その3」
ヒトラー暗殺未遂事件の顛末
その後、事件に関与されていたと疑いがあるものがゲシュタポに逮捕され、厳しい尋問と拷問を受けることになります。また首謀者の家族もその対象となり、シュタウフェンベルクの子供達も逮捕されたのです。その人数は約5,000人とも言われています(数には諸説あり)。国民裁判が開かれ、多くの軍関係者が処刑され、または自ら命を絶つことになります。
ドイツ国民に人気もありヒトラーのお気に入りだったロンメル将軍もその一人で、当初の予想以上に、陰謀へ加担していた軍関係者が多かったことが明るみになり,ナチス内部にも動揺が走ります。
参考記事
ロンメル将軍の最期の地について
「【第73回】ドイツ軍の英雄、「砂漠の狐」と呼ばれたロンメル将軍の最期の地」
反ヒトラー派も一枚岩ではなく、ロンメル将軍はヒトラーを暗殺するというやり方ではなく、逮捕して裁判にかけて、連合国と交渉するという考えだったと言われています。
ヒトラーが政権を取り、外交を展開するになってから、ヒトラーと軍の間で亀裂が生じるようになったと既述しましたが、ヒトラーそのものに対する恐怖が、過去のクーデターや暗殺計画をとん挫させる要因になったと思います。
7月20日事件でもヒトラーの生死がはっきりするまでベルリンの予備軍は動かず、ヒトラーの生存が宣言されると総崩れになり、自らは助かろうと裏切り行為が起こってしまいました。シュタウフェンベルクも仲間の裏切りによって命を落とします。
仮にヒトラー暗殺とベルリン占拠のクーデターが成功しても、反ヒトラー派の将校たちが考えていたような、米英軍と和平を結び、共に共産主義のソ連と対峙するという都合の良いシナリオは難しかったと思います。それはこの事件が起きた時点で、戦局は連合軍が圧倒的に優勢で、ドイツ内部からの崩壊を待たなくても、ドイツの降伏は時間の問題と思われていたからです。
爆破事件があったヴォルフスシャンツェの軍ブンカー跡には、事件の記念碑があります。
「1944年7月20日、フォン・シュタウフェンベルクによってアドルフ・ヒトラーの暗殺が試みた場所である。彼は他の多くのヒトラーに抵抗をした人々同様に生命をささげた。」
事件発生から48年後の1992年7月20日、この記念碑が完成したセレモニーに、シュタウフェンベルクの3人の子供も出席しました。
筆者が訪れた時は、雪に覆われてこの記念碑がどこにあるのか見つけることができませんでしたが、スタッフの方に尋ねて、スコップで雪をかき分けていただき見つけることができました。
当時、果敢にもヒトラーに抵抗したドイツ人は戦後、英雄化されることが多く、ドイツ各地に彼らの功績を紹介する記念館や碑があります。しかし、国防軍関係者が中心になって起こしたこの「7月20日事件」は、シュタウフェンベルクをはじめ彼らの多くは、ヒトラーが政権を取った直後の再軍備宣言や開戦直後の輝かしいドイツ軍の快進撃に熱狂しました。
彼らもヒトラーが政権を取ること、ヨーロッパに惨禍をもたらす片棒も担いでいた事実も忘れてはならないと思います。
軽傷と思われていたヒトラーは事件直後、自ら国民に無事をアピールしていましたが、目の焦点が合わなかったり、平衡感覚がずれて転ぶようになったり、薬の投与量が増え精神を錯乱することが多くなったと言われています。この事件が心身共にヒトラーに与えたダメージは決して小さなものではありませんでした。
事件発生から4ヶ月後の11月20日、ヒトラーはヴォルフスシャンツェを離れ、2度と戻ってくることはありませんでした。
筆者は最初一周周った時に発見できなかった事件の記念碑を見つけた後、ヴォルフスシャンツェを後にしました。
関連動画 |
【真冬の雪の中潜入レポ③】各国独ソ戦を指揮したヒトラーの総統本営、ヴォルフスシャンツェ、狼の巣?7月20日、ヒトラー暗殺未遂事件の現場?(@YouTube) |
「【第105回】ヒトラーが独ソ戦を指揮した前線基地、ヴォルフスシャンツェ」編は5部構成です。
<【第105回】ヒトラーが独ソ戦を指揮した前線基地、ヴォルフスシャンツェ-その1
<【第105回】ヒトラーが独ソ戦を指揮した前線基地、ヴォルフスシャンツェ-その2
<【第105回】ヒトラーが独ソ戦を指揮した前線基地、ヴォルフスシャンツェ-その3
<【第105回】ヒトラーが独ソ戦を指揮した前線基地、ヴォルフスシャンツェ-その4
【第105回】ヒトラーが独ソ戦を指揮した前線基地、ヴォルフスシャンツェ-その5
同シリーズが「ヒトラー 野望の地図帳」として書籍化
同シリーズが書籍化され、各書店の歴史の棚の世界史やドイツ史のコーナーに置かれています。web記事とは違う語り口で執筆していて、読者の方々からは、時代背景が簡潔でわかりやすい、学者とは違うテイストが新鮮、という感想をいただいております。
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