海外との出会いは中学校の社会の授業
現代でも変わらないと思いますが、筆者が中学生だった1990年代前半は、中1地理、中2歴史、中3公民というカリキュラムでした。
特に中1の地理と中2の時の歴史は、まさに海外や世界の歴史との出会いでした。
地理の授業では白地図に国と首都名、山脈や海などを書き込み、現地の特色の概要を学んでいきました。世界の知識を吸収していく知的好奇心が大いに刺激されました。
中2では歴史を学びます。歴史は小学校、高校でも学びますが、中学の歴史では一つの特徴があります。
日本史と世界史を融合させて学ぶ歴史は中学だけということです。
小学校では歴史は日本史しか学びませんし、高校では日本史、世界史と科目が別れてしまいます。中学の歴史は日本史を中心として世界史も出てくるのです。
四大文明、ルネサンス、大航海時代、フランス革命、産業革命、南北戦争、ヒトラーなどは、中学の歴史に登場します。
大好きだった中学の社会の授業
中学3年間、社会の授業は同じ先生だったのですが、この先生の授業が大好きで、社会の授業がある日はいつも楽しみにしていました。
この先生は、なんとなく使われている用語や常識をわかりやすく説明してくれました。
資本授業、共産主義とは何か?
帝国主義とは何か?
アメリカが世界一、豊かな要因
この時の知識の基本が今でも著者の原点になっています。
また、この先生は中間、期末テストの問題で、用語だけを暗記すれば得点が取れるような、易しい問題ばかりを出すことはありませんでした。因果関係を自分の言葉でしっかりと説明できないと、高得点が取れない問題を出してくるのです。それでも、中1の地理の最後の定期テストで学年1位を取れたことで、絶対的な自信のある科目になりました。
筆者が初めてポーランドという国を知ったのは中学生の時
前回の記事「人生の転機。9.11テロの時、ポーランドのアウシュビッツにいた」では、筆者が初海外でポーランドにいた話をしました。
筆者がポーランドという国の存在を知ったのは、中学生の時だったと思います。
中学校の図書室にあった、マンガの世界の歴史シリーズを読んで、ナチスドイツが第二次世界大戦の序盤でヨーロッパを鮮やかに手に入れたことに魅せられたことが、筆者の現在の活動につながります。
大戦初戦でナチスドイツの電撃戦によって、反撃らしい反撃もできず、全滅して負けてしまったポーランドという国の悲惨さが印象的でした。
失礼ながら、この時の中学生の筆者には、ポーランドは小国で弱いというイメージがつきました。
中学1年の地理のテストの選択問題でポーランドを選択
上述の筆者が学年1位をとった、中学1年生(ヨーロッパでは数年前にソ連が崩壊、EUがまだECと言われていた1992〜1993年)の3学期の地理のテスト問題は、今でも覚えています。
ヨーロッパの東欧諸国に関しては、テストの答案用紙にヨーロッパの白地図があって、どの国でもいいので、その国の位置とその国で知っていることを述べよ、という問題でした。
筆者は、ポーランドを選択。そして、
ポーランドは、第二次世界大戦でドイツとソ連に攻められて、首都のワルシャワをはじめ、国土が破壊された。
と回答しました。
授業では、西ヨーロッパ(現在のユーロ圏)は各国扱いましたが、ポーランドをはじめとする東ヨーロッパ諸国(旧共産圏)は、クラスの生徒を班ごとにわけて、各班、1ヶ国を調べて、授業で班ごとに発表した覚えがあります。
筆者の班は、ポーランドの隣国ハンガリーを調べて発表しました。内容までは覚えていませんが、発表前に当時のカップヌードルのテレビCMで、ナレーションが「ハングリー?」と叫ぶシーンがあり、筆者は発表前にそれをもじり「ハンガリー?」と叫んでから、「クラスメートからよくわからないけど、がんばれー」という声が飛び、本題に入ったことは覚えています。
社会が得意な中学生が読める文章を意識して執筆
筆者は本シリーズを執筆する際、意識していることは、社会が得意な中学生が読める文章を書くということです。歴史の因果関係もかみ砕いて説明して、人名も重要人物以外の固有名詞は可能な限り使わないようにしています。
以前、ある分野を執筆するライターの仕事をしていた時に、中学生が読んでもわかる文章を書くように指示されました。その意図は中学生に読みやすい文章が、万人に一番読みやすい文章だからだそうです。
本シリーズもさすがに基礎の基礎から説明するわけにはいきませんが、読者の方の大半は大人で歴史、海外に最低限の知識はあるでしょうから、社会が得意な中学生を読者ターゲットとして意識すると相性が良いと考えています。
社会が得意な中学生。それは中学生時代の筆者に向けて書いているのかもしれません。
次の記事以降も第二次世界大戦中、その前後のポーランドについて、複雑な因果関係がありますが、可能な限りかみ砕いてお話ししたいと思います。
戦うポーランド!屈しないポーランド
今回筆者の中学時代のエピソードと共に、当時のポーランドの印象も紹介しましたが、今はまったく違う印象を持っています。
ポーランドは、中学生の時の筆者が抱いていたような、ヤワな国ではありませんでした。
彼らは決して、易々とナチスドイツや周辺諸国に屈したわけではないのです。
次回の記事以降、戦うポーランド、屈しないポーランドを紹介します。
<【第107回】人生の転機。9.11テロの時、ポーランドのアウシュビッツにいた-その1
【第107回】中学生の時、学校で初めてポーランドのことを知る-その2
>【第107回】戦うポーランド!20年で再び地図から消えるポーランド-その3
>【第107回】戦うポーランド!各国の思惑に翻弄される占領下のポーランド-その4
>【第107回】戦うポーランド!再び世界から見捨てられるポーランド-その5
>【第107回】戦うポーランド!1944年8月1日午後5時-その6
>【第107回】戦うポーランド!ワルシャワの旧市街地区での戦い-その7
>【第107回】戦うポーランド!蜂起軍が駆使していた地獄の地下道-その8
>【第107回】戦うポーランド!国内軍の支配地域を分断させていた難攻不落の駅-その9
>【第107回】戦うポーランド!熾烈を極めたワルシャワ中心部での戦い-その10
>【第107回】戦うポーランド!ワルシャワのヴィスワ川沿いの戦跡 前編-その11
>【第107回】戦うポーランド!ワルシャワのヴィスワ川沿いの戦跡 後編-その12
>【第107回】戦うポーランド!ソ連の支配地域だったヴィスワ川の対岸プラガ地区-その13
>【第107回】戦うポーランド!ポーランドはナチスに簡単に屈したわけじゃなかった-その14