【第107回】戦うポーランド!蜂起軍が駆使していた地獄の地下道-その8|トピックスファロー

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2024年8月19日
【第107回】戦うポーランド!蜂起軍が駆使していた地獄の地下道-その8

前記事でも説明した通り、ポーランド国内軍はワルシャワ市内では3ヵ所の地区を抑えていました。その分断された地区との連絡、逃亡には地下道が使われていました。決死の脱出劇が行われた地下道跡を示す史跡がいくつかあります。 

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命の保障もなかった過酷な地下道

旧市街広場から少し北に歩くとクラシィンスキ広場に着きます。そこは1944年8月1日から末日まで、国内軍の旧市街の防衛拠点となっており、連合軍の武器、弾薬、救援物資を空中から投下した場所でもありました。

クラシィンスキ広場は、ワルシャワ蜂起記念碑があり、旧市街と併せて訪れる観光客も多いと思います。ガイドブックにもワルシャワの旧市街地区の観光スポットとして紹介されており、記念碑の像の兵士たちの顔がワルシャワ蜂起での苦悩を表していると説明されていたりします。

ワルシャワ蜂起記念碑ワルシャワ蜂起記念碑

そのワルシャワ蜂起記念碑の道側に面した碑の中に、地面から出している一体の像があることに気づく観光客はいるでしょうか?

彼は、地下道を使って戦っていた国内軍兵士を表しています。この姿が地下道から出たところなのか、入るところなのかは想像の域にすぎませんが、地下道のルートというのは、ワルシャワ蜂起での国内軍の部隊間の重要な連絡通路、武器弾薬の輸送、逃亡するために使った兵站 (へいたん) の一つでした。

苦しそうにマンホールから体を出している、国内軍兵士苦しそうにマンホールから体を出している、国内軍兵士

彼らはワルシャワ市内中の地下道を駆使してドイツ軍に抵抗します。しかし、地下道は、人間が通るには非常に劣悪な環境でした。
ひどい異臭、視界がほとんどない暗闇、おぼつかない足元…。そんな中を、地上に展開するドイツ軍に気づかれないように、音を立てずに進まなくてはならなかったのです。

国内軍兵士だけでなく、避難民の市民、子供、病人、怪我した兵士などを従えながらの、大変な行程でした。その道中、意識を失う者、命を落とす者たちも後を絶たなかったようです。

ワルシャワ中には、国内軍兵士が通った地下道の出入り口となったマンホールがあった場所を示す場所が何ヵ所もあります。

地下道を出てきたところをドイツ軍に囚われていると思わる実際の写真地下道を出てきたところをドイツ軍に囚われていると思わる実際の写真

蜂起記念碑の近くに残るマンホール跡

ワルシャワ蜂起記念碑の前には交差点があり、横断歩道を渡って目の前にある建物の壁にはプレートがあります。これは、ここに国内軍が使用した地下道へ通じるマンホールがあったことを説明するものです。

そのプレートの前には色が変わっている石があり、それは歩道まで続いています。
そして、歩道に出て右側に曲がってすぐの位置で、その石の色が終わります。

色が終わったその場所には、ワルシャワ蜂起当時使用された、地下道に行くマンホール跡がありました。

1944年8月末日、クラシィンスキ広場やその隣にあるバデニ宮殿(現裁判所)の建物はドイツ軍の猛攻にさらされます。陥落寸前の旧市街から脱出を計る兵士、民間人が続々と集まってきます。ワルシャワ蜂起中、数ある地下道の脱出劇の中で、最も伝説的となった数千人の脱出劇が始まります。

バデニ宮殿(現裁判所)バデニ宮殿(現裁判所)

9月1日の夕方、脱出のチャンスが来ます。ドイツ軍が戦闘での死者、負傷者を運ぶために一時的な停戦を求めてきました。停戦時刻、午後8時の15分前、7時45分、地下道脱出が開始されます。

国内軍が支配していたシルドミェシチェ地区という都市の中心地区へ脱出を計ります。約2kmの行程でしたが、地下道の移動は3~4時間かかり、負傷者に至っては10時間かかったとも言われています。先頭の人間がシルドミェシチェ地区に達した時、最後尾はマンホールの上で順番待ちをしているものもいたと言われていたほどです。

地下道のルート地下道のルート

翌朝、停戦が終わりドイツ軍の爆撃が再開された頃には、地下道入り口も瓦礫でふさがれてしまいますが、その直前、全員が脱出に成功。

その数日前にはブル国内軍総司令部もこの地下道を通り、司令部をシルドミェシチェ地区に移していました。

約4,500人が脱出することができて、北のジョリボシュ地区への移動した兵士たちも約800人にいました。

次回の記事では、そのジョリボシュ地区を紹介します。

旧市街とジョリボシュ地区の間にある、ドイツ軍が抑えていた難攻不落の駅旧市街とジョリボシュ地区の間にある、ドイツ軍が抑えていた難攻不落の駅

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【連載】ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡(第1回~第100回)
【連載】ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡(第101回~)

著者:ヒロマル

戦争遺跡ライター
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1979年神奈川県生まれ、神奈川県逗葉高校、代々木ゼミナールで1浪、立教大学経済学部卒業。

大学在学中からヨーロッパ、アジアなどを海外放浪してハマってしまい、そのまま新卒で就職せずフリーターをしながら続ける。その後、会社員生活をしながらも休み、転職の合間を利用して海外放浪を続ける。50ヶ国以上訪問。会社の休暇を利用して年に数回、渡欧して取材。

2012年からライター業を会社員との二足のわらじで開始。
2014年からwebメディア(株)フォークラスのTOPICS FAROで2つのシリーズを連載中。

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▼「ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡」シリーズ
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ヨーロッパ各地を取材し、第二次世界大戦に関する場所を紹介。
軍事用語などは極力省き、中学レベルの社会の知識があれば楽しめる記事にしています。
同シリーズが2017年に書籍化。
「ヒトラー 野望の地図帳」(電波社)から全国書店の世界史コーナーで発売中。

▼「受験に勝つ!世界史の勉強法」シリーズ
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2018年から主に世界史を中心とした文系の勉強方法について執筆。
大学受験だけでなく、大学生や社会人の大人の教養としての世界史の勉強方法にも触れて、
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