ワルシャワ中央駅とイェロゾリムスキ大通り
1944年8月1日のワルシャワ蜂起当初から、国内軍は、シルドミェシチェ一帯を制圧していました。観光客で賑わう新世界通りにある、ワルシャワ大学なども激戦地となります。
ワルシャワを訪れた人たちが最初に降り立つのはワルシャワ中央駅です。現在のワルシャワ中央駅は地下にホームがあり、地上に出ると「スターリンの贈り物」と言われる文化科学宮殿がそびえたっています。
ワルシャワ蜂起当時、ワルシャワの玄関口だったワルシャワ中央駅は現在の位置より少し東側にありました。現在は緑地公園になっていて、地下駅のワルシャワ・シルドミェシチェ駅があります。当時はその付近にワルシャワ中央駅がありました。
蜂起初戦では、国内軍がワルシャワ中央駅を奪いますが、すぐドイツ軍に奪取されてしまいます。
ワルシャワ中央駅前を東西に走るイェロゾリムスキ大通りは、ドイツ軍が制圧する建物から砲撃にさらされ、大通りを横断する国内軍やワルシャワ市民は命がけの渡航となりました。連絡壕が掘られたエリアもありました。
このエピソードを聞くと筆者は学生時代に訪れた、ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボのスナイパー通りを思い出します。90年代のユーゴ内戦の銃弾の跡がまだ生々しい頃に訪れました。
そんな現在のワルシャワのイェロゾリムスキ大通りにも、ワルシャワ蜂起時の銃弾の跡を見ることができる建物があります。
国内軍とドイツ軍が通りを挟んで40日間対峙した建物
ワルシャワ中央駅からイェロゾリムスキ大通りを西に進み、ジェラズナ通りと交わる交差点があります。この付近はワルシャワ蜂起当時、鉄道郵便駅と鉄道職員住宅があって、「ジェラズナ要塞」と言われた国内軍の抵抗拠点となっていた場所です。ドイツ軍の機甲師団の激しい攻撃を受けましたが、国内軍は最後まで譲り渡すことはありませんでした。
郵便鉄道駅は残っていませんが、鉄道職員住宅だった建物はジェラズナ通りに残っています。7階建ての建物で現在は集合住宅のアパートとなっているようです。外壁には当時の銃弾の跡が無数に残っており、当時の戦闘の激しさを伝えています。
建物の前には記念碑があります。
1944年、国内軍が63日間にわたり、ナチスの攻撃を撃退して、戦線を分裂させることに成功した。戦死した600人の名誉を記念して。
また、鉄道職員住宅からすぐ見える、イェロゾリムスキ大通りとジェラズナ通りと交わる交差点(スタルィンキェヴィチ広場)には、旧ツーリストビルがあります。このビルを巡っても国内軍とドイツ軍で激しい奪い合いがありました。
ワルシャワ蜂起開始の3日後の8月3日、国内軍はドイツ軍が占拠していたツーリストビルに攻撃をしかけました。そして、郵便鉄道駅とツーリストビルをドイツ軍から奪取することに成功します。ドイツ軍にとって、東西を貫通するイェロゾリムスキ大通りはヴィスワ川に突破するための重要なルートでした。郵便鉄道駅とツーリストビルを占拠することにより、それを阻止することができたのです。
その時、ポーランド国旗がツーリストビルの屋上に掲げられます。
しかし、8月11日から8月12日にかけて、ドイツ軍は強力な反撃に出ます。ドイツ軍は空爆と戦車を使い、国内軍はツーリストビルから駆逐されてしまいました。鉄道郵便駅の国内軍が攻撃を加えても、不首尾に終わります。
国内軍がワルシャワ蜂起の最後まで抵抗していた郵便鉄道駅と鉄道職員住宅から、イェロゾリムスキ大通りを挟んで、旧ツーリストビルまで100mもないと思いますが、ワルシャワ蜂起が終結するまでの約40日間、国内軍とドイツ軍はこのお互いの視界から確認できる建物にこもり膠着状態となりながらも戦っていたのでした。
ヨーロッパの市街戦の場合、石でできた建物を要塞にして、立てこもり、ゲリラ戦を展開されると、戦闘が泥沼化する傾向があります。そのため、ドイツ軍も連合軍も大都市を攻撃する時は、直接攻撃するという選択肢は後回しにして、迂回案(連合軍のパリ奪還時)や包囲による降伏(ドイツ軍によるレニングラード戦)も試みたりしたのでした。
関連動画 |
【ワルシャワ蜂起の痕跡を巡る⑧】通りをはさんで40日以上、戦闘を繰り広げた、旧郵便駅後と旧ツーリストビル(@YouTube) |
シフィェントクシスカ通り
爆撃を受けた写真瞬間の写真が残る高層ビル
イェロゾリムスキ大通りより北側に、東西に延びるシフィェントクシスカ通りがあります。
その通りにもワルシャワ蜂起時の重要な2つの戦跡があるので紹介します。
シフィェントクシスカ通りに目立つ高層ビルがあります。そこは現在、ホテル・ワルシャワのビルで、戦前は「摩天楼」と言われていたワルシャワで最も高い16階建ての建物で、英国のプルデンシャル保険協会によって建てられたプルデンシャルビルでした。
1939年のドイツ軍の侵攻時には爆撃で最上階が炎上します。ワルシャワ蜂起時には、プルデンシャルビルの前のワルシャワ蜂起広場(旧ナポレオン広場)では、シルドミェシチェで最初の銃声が鳴り響きました。
そして、プルデンシャルビルを巡って、国内軍とドイツ軍の激しい攻防が始まります。国内軍はプルデンシャルビルを完全に制圧して、屋上に赤と白のポーランド国旗を掲げることに成功します。
ヂェルナ通りの国内軍総司令部にいたブル将軍は、まだ明るい午後8時頃、その翻ったポーランド国旗を見て、ロンドンのポーランド亡命政府へ向けて、ワルシャワの戦いを開始したと電報を打ちます。そしてイギリスのBBC放送がすぐさま、ワルシャワ蜂起が始まったことを世界に伝えたのでした。
ヂェルナ通りの国内軍総司令部については、「【第107回】戦うポーランド!1944年8月1日午後5時-その6」編をご参照ください。
1944年8月26日、ドイツ軍のミサイル攻撃を受けて甚大な被害を受けます。その瞬間を捉えた写真が残っています。しかし、プルデンシャルビルはワルシャワ蜂起が終結するまで国内軍が死守したのでした。
国内総司令部とラジオ放送局
プルデンシャルビルから少し西へ進み、ヤスナ通りとの交差点に中央郵便局の建物があります。
そこは国内軍の総司令部とラジオ放送局が置かれていました。当時PKO(郵便貯金銀行)ビルと呼ばれており、ワルシャワ蜂起開始時にプルデンシャルビル同様、国内軍が奪取します。ブル将軍の総司令部は、既述のヂェルナ通り、旧市街などを転々とした後、地下水道を通って、8月25日からこのPKOビルに移しました。しかし、9月の上旬、ドイツ軍の激しい爆撃が続き、PKOビルからも撤退することになります。
当時、国内軍の兵士や市民に向けてポーランド語で放送された、国内軍のラジオ放送局(稲妻)も、ここに置かれました。
PKOビルはブル将軍の総司令部が置かれる前から、モンテル将軍の司令部が置かれていました。ワルシャワ蜂起当初はブル将軍の総司令部とラジオ放送局は同じ場所で行われていましたが、司令部とラジオ放送局が同じ場所するべきでないというモンテル将軍の主張により、またラジオ放送局も別の場所に移動になります。
ブル将軍の総司令部やラジオ放送局が撤退して、何度もドイツ軍の激しい攻撃で被害を受けながらも、国内軍はワルシャワ蜂起が終わるまでPKOビルを手放さなかったのです。
関連動画 |
【ワルシャワ蜂起の痕跡を巡る③】爆撃を受けた瞬間の写真が残る、プルデンシャルビルと蜂起軍の司令室とラジオ放送局(@YouTube) |
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